生涯学習の部屋

資格取得数238。6つの修士と18の学士と2つの短期大学士。MBAサラリーマンの生きがい発見生涯学習奮闘記。

Laufet, Brüder, eure Bahn, Freudig wie ein Held zum siegen!

2015年08月10日 23時28分09秒 | 放送大学
最近、阿弥陀経を差し置いて集中的に学習しているのが「第九」である。

というのも、来期の放送大学の面接授業で「第九を楽しむ(歌唱実践1)」を履修する予定だからである。一節一節、ドイツ語を歌えるように練習中なのであるが、時に、今まで無意識に聴いていたところが、ドイツ語とシンクロすることもある。

表題の部分なんかも、一度、ドイツ語で聴いてみると、そのとおりにしか聴こえなくなるので不思議である。日本語訳を見てみると、「兄弟たちよ、自らの道を進め、英雄のように喜ばしく勝利を目指せ」ということらしい。どの単語がどの日本語に該当するのかわからないが、なんとなく、気持ちは理解できる。

抽選なので落選というシナリオもあるのだが、とりあえず練習しておかないと。なんせ、専門分野「声楽 合唱」の教授が先生だし、面接授業の会場も東京学芸大学の音楽ホールだし。。。
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謂学不暇者、雖暇亦不能学

2015年08月10日 22時47分42秒 | 生涯学習
連休3日目。

家内は仕事、長男はサークル活動、次男は部活。一人で佇む家の中、お盆休みというテレビの報道も白々しく聞こえてしまう。ひとりぼっちだから、PCのファイル整理に勤しむ。ヤバイほどに、非生産的な時間を消費する。朝方、50,634件あったファイルが、48,024件に減少する。実に2,000件以上の不要ファイルを整理したが、過去を懐かしむ以外、有益なことは皆無といえる。

思い出に浸っている中、連休恒例ともいえる「体重激増」の魔の手が襲い掛かる。つい先日まで62キロ台だった体重は64.7キロと残念な現実を突きつける。寂しいときは、精神的な強制により、何かしら食べてしまう事例であろう。

さて、非生産的な時間の消費の合間を見て読書を並行して実施している。そんな中、タイトルの漢文を見つけたのだった。「学ぶに暇あらずと謂う者は、暇ありと雖も亦学ぶ能わず」というもの。なんと、今の私にぴったりな漢文であろうか!

『淮南子』の有名な一文であるが、これは私だけではなく、人類普遍の名言とも言える。なんせ、みんな学習しない。もしこの言葉が普遍的事実を言い表していないとするならば、「受験」という制度は崩壊するであろう。人間、学ばないから学習において格差が生じるのである。暇がないほど学習している者に対して、適切な進路を準備できないならば、それは制度設計が誤っているのである。とはいえ、わずか高校3年間といえども、寝る間も惜しんで学習する学生は珍しい。「毎日、死ぬほど勉強している!」っていう学生も、よくよく確認すると、部活を引退してからとか、浪人してからといった、極めて短期間であるケースが多い。にもかかわらず、それで志望校に合格できる学生が結構いるということは、1年程度の学習さえも、必死にやる者が少ないといえるのではないか?

学生だけでなく、社会人でも、「暇がない」とか「時間がない」とか言って、何もしない人は結構いる。というより、時間があるという事実に目を背けてしまう。というか・・・例えば、「数時間」とか「1日」とか、かなりまとまった時間でなければ、「暇(いとま)」と考えない人が多いのだ。

「今、自由になる時間が10分あったら何をするか?」

それを一瞬にして取り掛かれない社会人は、永遠に生涯学習に身を投じることは困難といえよう。10分の積み重ねが1時間であり、1時間の積み重ねが1日である。そのことを理解できない限り、「謂学不暇者、雖暇亦不能学」なのである。

生涯学習の達人は、その10分という時間を捻出することに貪欲である。時には、10分を1分に分解して、1分という時間をフル活用し、見ているものを驚かせることもシバシバである。そこまでしないと、忙しい社会人が目標どおりの生涯学習を行うことは困難ともいえる。ゆえに、多くの社会人が、多忙というエクスキューズの上に、学習を放棄していると思っている。

私の場合、そのレベルにまで到達していないし、そこまで立派な生涯学習を成しえようとは思っていない。寝たいときに寝て、起きたいときに起きて、やりたいと思う程度の学習に時間を投下するだけである。大学院の入試もなければ、難関資格を受験することもない。だから、猛勉強とか、死ぬくらい学習が必要なわけではない。ただ、自分の思うところの生涯学習を続けるのみである。
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「変わる社会、大学も改革を」

2015年08月10日 14時17分48秒 | ちょっと立ち止まって・・・
今日の日経新聞朝刊20面の記事から。

「国立大文系再編」通知の狙いを下村文科相に聞くといったものである。「国立大学に教育学部や人文社会学部の縮小や組織再編を求めた文部科学省に対する反発が、広がっている。下村文科相に狙いを聞いた。」とされている。

教育系と人文系を狙い撃ちにしていると批判もある。例えば・・・「教育学部には教員免許の取得を義務付けない「新課程」があるが、その時代的役割は終わっており廃止すべきだ。人社系学部は養成する人材像を明確にし、それを踏まえた教育課程に基づく組織になっていることが重要なのに十分ではない。大学教育の質を転換する上で、どちらも改善の余地が大きい。」としている。

そうなのか?教育系学部や人文社会系学部は、今の姿では存立しえないのだろうか?というか、記事の後半部分を読んでいくと、「人社系などの文系教育の多くは私立大学が担っている」「私立には国立は主に理系を担い、文系は自分たちに任せてほしいという声もある」と書かれ、大臣の答えとして、「今も国立大生の7割は理系で、私立はその逆だ。だからといって国立文系をなくそうとは考えていない。ただ、文理融合の新学部はありえる。」となっている。

私立大文系の学費が国立並なら、特に国立大学を目指す必要はない。あるいは、学生一人当たりの教員数や、キャンパスの面積、著名な先生の割合が同等なら、わざわざ国立大学を選択することもないだろう。現在の国立大学と私立大学の差は、顕著であり、特に就職の際にその格差は大きくなる。

それはそうと、文理融合の新学部っていうのは、何を目指しているのだろうか。新学部を作らなくても、既存の学部において、幅広い講座を選択可能とすればいいだけじゃないのか?なら、何故、教員免許を義務付けない新課程を廃止するのだろう。その新課程こそが、教育に限定されないユニークな学習の場ではないのだろうか?

全体像を見ていないので、勘違いしているのかもしれない。ただ、私としては、今の国立大学の文系教育がまるっきり不正解とは思えないのだが。

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夢は叶うためにある

2015年08月10日 01時28分32秒 | ちょっと立ち止まって・・・
夏休みなので、夜更かしである。

外付けHDの整理をしているのだが、ファイル数は50,634もあるようだ。その中から、たまたま見つけたのが産能大学時代のゼミの申込書コピーである。

2005年度前学期:「ゼミナール(問題解決入門) Mゼミ用:志望理由書」となっている。提出期間は2005年2月14日(月)~2月20日<消印有効>なので、ちょうど、10年半ほど前の出来事である。

大学院進学希望欄には「希望あり」となっており、現時点で希望している大学院欄に「明星大学大学院」と「放送大学大学院」が記載されている。

当時の私は通信制大学の3年次編入学して1年も経過していない状況だった。にもかかわらず、大言壮語した2つの夢を、それぞれ、実現することとなる。すなわち、2010年3月に「明星大学大学院」を修了し、2014年3月に「放送大学大学院」を修了したのであった。

当時、何故、その2つの大学院の名前を書いたのかはわからない。しかし、M先生が準備したであろう、その志望理由書があったからこそ、自分の深層心理に眠る夢が具現化し、その後の自分の進路の指針になったのは確かである。

とはいえ、夢の実現はまっすぐ一本化されていたわけではなく、紆余曲折があったのも事実。「明星大学大学院」に行く前に「産業能率大学大学院」に進学してしまったし、「放送大学大学院」に行く前に「武蔵野大学大学院」に進学してしまった。だが、回り道をしつつも、この志望理由書の通りに、夢が実現したのである。

とはいえ、10年半という時間の経過は残酷である。その夢をいざなってくださったM先生は、既に天国に召されてしまった。時間を割かない限り、夢は実現しないものの、時間の経過は、私から大切なものを奪っていくのもまた事実。されど・・・時間という魔物に怯えるあまり、立ち止まることだけは避けねばなるまい。それが、人間として生まれてきてしまった苦しみであるが、その苦しみを受け入れざるを得ないのが人としての運命なのだから。
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