今日は仕事納め。
これから出勤なのですが、ネットで検索していたところ、私が人間学研究科仏教学専攻を受験した際の問題が本学HPに掲載されているのに気が付きました。受験した26年度の問題は以下の通り。
平成26年度 第1回
現代はグローバル化の時代といわれ、生活習慣や価値観が異なる人たちと交流することが多くなりました。このような人たちとの交流が人間の人格形成に 与える影響について、具体例をあげながら、あなたの見解を自由に述べなさい。 (800字以内)
平成26年度 第2回
「いかに生きるかは、つまるところ、いかに死ぬか、に帰着する」という言葉の意味を分かりやすく説明しなさい。 (800字以内)
平成26年度 第3回
この社会には、高齢者、障害者、犯罪被害者など、援助が必要な人たちがい ます。どのような援助がそのような人たちにとって望ましいのか、あなたの見 解を自由に述べなさい。 (800字以内)
私は第2回で受験したので、一番書きやすい問題だったのかな~と思っております。無論、第1回、第3回の問題でも書けないことはないのですが、いかにも形式ばった解答になりそうで、本当の自分を見てもらうためには、第2回の問題が一番適切だったように思えます。
多くの人は、「生きるために生きている」と考えていると思いますが、私は常々「死ぬために生きている」と考えています。なんせ、人間、必ず死にます。人間だけじゃなく、すべてのものが、必ず死ぬようにプログラムされています。死なないと思えてしまう地球ですら、いずれ、無くなってしまうのですから、どうしようもありません。
「遊んでいても死ぬ」「寝ていても死ぬ」「学習していても死ぬ」・・・残念ながら、死から逃れる特効薬はないのです。しかし、本当に、不老不死の特効薬がないことが残念かつ不幸なことなのでしょうか?もし、自分だけ不死だとすると、有り余る時間を持て余してしまうことでしょう。あるいは、愛する人、大切な友、自分の孫・子の死を見送り続けなければならない無間地獄を現世で蒙り続けることでしょう。
「なら、全員不死になったらいいじゃないか!」と思う人もいるかもしれません。そうすると、地球上に人間があふれかえり、食料が無くなってしまいます。あるいは、その限られた食料のために人が暴力で殺しあう社会になってしまうかもしれません。あるいは、全員が生きるために、飢餓に怯える日々を、無為に過ごすだけの人類に成り下がってしまうかもしれません。
故に、我々は死ぬために生きるのです。まさに、設問の通り「いかに死ぬか」を考えながら、奇跡的に与えられた命に感謝し、この苦しい時間を過ごさなければならないのです。生きることは苦しいのですが、それは、釈尊の言うところの「生苦」の一環であり、生まれてしまった以上、引き受けなければならに人類の義務なのかもしれません。自分で人生に終止符を打つことも可能なのですが、そもそも、生まれいずることすらかなわなかった命が無数にあることを考えると、その人生の強制終了は、なかなか首肯できないように思えてなりません。
正月を迎えようとするおめでたいタイミングに、暗い内容の記事を書きしたためてしまいました。とはいえ、この時期だからこそ、必ず訪れる死を思い、いかに、生きていくべきなのかを考えることが大切なのだと私は信じております。