もう、放送大学大学院の院試です。
私としては6回目の大学院入試。いったい日本に6回大学院の受験をした人が何人いることやら?とはいえ、今回の院試は勢いで申し込んでしまったものだから、どれだけ、自分の意志に「合格したい!」「受かりたい!」って気持ちがあるのかよくわかりません。社会経営科学プログラムは、人間発達科学プログラムに在籍していた時から、「将来学習したい」と思い、単位を積み上げておきました。ゆえに、合格すれば、所属の先生の担当する2単位を取得すれば、残り研究指導だけで修了することができます。
昔から、将来の履修を計画し、準備しておりましたが、まさか、単身赴任中のこのタイミングでアクションを起こしてしまうとは・・・次男の院試準備を見て触発されたのですが、次男が志望通りの大学院に合格してしまった今となっては、なんだか、モチベーションが一気に低下してしまった感じがしています。
というか、4年間、単身赴任にかこつけて、易い方に逃避してしまったゆえに、再び、大学院というステージで学習できるか「漠然とした不安」に苛まれているといってもいいのかも。
「不安」はつらい。想像しなくていいことまで想像し、そのプレッシャーに押しつぶされそう。「もう、今更、院試に対して何も準備することはないんだよ」と自分を納得させようとするのですが、どうしても、マイナスの方向のことばかり考えてしまいます。
過去、5回、この苦しみに耐え、もう慣れっこのような私でさえ、このような状態なのですから、初回の受験生の心労というか、困惑というか、お悩み等々、いかほどのものかと、ライバルなのに心配してしまいます。本当、逃げたい、逃避したい・・・
この苦悩に負けちゃいけないのですが、でも、正直に言うと、この苦しさこそが、イニシエーション=通過儀礼なのです。未開の地では「バンジージャンプ」「入れ墨」「抜歯」「猛獣との格闘」と言った、苦しみや命にかかわる困難に打ち勝つことで、大人になる資格を得ることが通過儀礼。そう、今までの自分から、一段高いところを目指すため大学院に行くのなら、苦しんで当然なのです。逆に、苦しみがないところに成長はありえないと思って下さい。どうですか、ちょっとは楽になりませんか?多くの受験生が悩んでいて、私を含め、あなたも同じイニシエーションをクリアしようと待機しているだけのこと。
以前から言っているように、一発勝負の院試です。合格者が優れているわけでも、不合格者が劣っているわけでもありません。劣っている受験生が、たまたま知っている問題、あるいは得意な問題が出題されて合格することもあれば、優れている受験生が、たまたま知らない問題、あるいは不得手な問題が出題されて撃沈することもあるのです。勝負は時の運。でも、運任せだけでは致し方ないので、受験機会を増やしてリスクヘッジする受験生もいるわけです。
仏教学研究科を修了した立場からすれば、人生、一切皆苦。すべて苦しいので、人間、火中の栗を拾わず、波風立てず、一生涯を終える方が苦しさが顕著にならず、生きやすいかもしれません。でも、出願した人は、あえて、自分から苦しい道を選んだわけですので、この機会に、十分苦しんでいただければ・・・と思います。しかし、それこそが、生きている証であり、新たな未来に挑戦した「凄いヤツ」と私はリスペクトしてしまいます。新たな一歩を踏み出すのは、本当、辛くて、苦しくて、心配で、不安で、後悔の念すら覚えてしまうのですが、その一歩は、合格であれ、不合格であれ、戦うことに挑んだという「戦歴」であり、敬服に値するものです。
とはいえ、せっかく出願したなら、精いっぱい戦いましょう。な~に、きれいに戦う必要はありません。足掻いて、足掻いて、足掻きまくってください。答案用紙は、自分をアピールできる真っ白なキャンバスと思って、書きなぐり、埋め尽くし、汚しまくってください。そのエネルギーの多寡がPRの度合い。私も同じ時間に戦います。最後まであきらめず、自己表現の場を活かしてください。