今日は地域の「防災訓練」と「炊き出し訓練」があった。
昨年の4月から町内会の役員に当たっているため、お手伝いをせざるを得ない。
例年は防災訓練のみ行われているが、
今年は炊き出し訓練(100人分)もすることになり準備を進めてきた。
炊き出しは女性軍の担当で、私も頑張って協力した。
100人分の豚汁の材料さえ見当がつかず、
話し合いの段階では不安がいっぱいだったけど、主婦は強し・・・。
とても美味しく出来上がり、みんなから拍手が・・・
(実際の災害時には喜んでいる場合ではないのだけど・・・)
前日、炊き出しの食材のお買い物(先日の役員会で決めていたので)をして、
それぞれの担当を決め、各自の家で材料を洗ってカット等下ごしらえをしておいた。
私は、くじ引きで「シメジ」「椎茸」の担当だった。
今朝は、各自それらを持ち寄り、大きなお鍋で味付け調理をした。
【100人分の豚汁の材料】・・・参考までに
・豚肉2kg ・大根5本 ・ニンジン8本 ・ゴボウ8本 ・里芋40個(冷凍でないもの)
・ネギ6束 ・椎茸30個 ・シメジ7パック ・コンニャク6枚 ・油揚げ6枚
・調味料(本だし、味噌、みりん、酒、七味等)
我々役員は、8時半に集合。
女性軍はすぐに炊き出しの準備。男性軍は机を出したり、その他備品の準備。
9:25 安芸灘にて地震発生(という設定)
9:30 火災発生(消防署へ通報)・住民の避難開始
9:50 消防署指導により水消火器使用の訓練実施
終了後、地震体験車の試乗を体験する
消防署より提供の非常食(乾パン)を試食体験する
10:30 地震・火災発生から避難者へ炊き出しの振る舞い(豚汁)の訓練を実施し、
参加者全員で試食する
100人分の豚汁を作ったのは初めてだし、その多さに驚いたが、
今日の訓練で大体のことは把握できた。
そして希望者は、地震体験車に乗って、その揺れを体験した。
地震体験車は、震度5弱~震度7強まで体験できるように仕組みされている車。
テレビ等で見たことはあるけど、真近かで見たのは初めて。
車の中がお部屋のようになっていて、
食卓があり、4人づつ腰掛けて揺れを体験するのだ。
私は地震体験車で震度6強の揺れを体験したが、
震度6強だとかなり揺れ、何も手につかないことをあらためて感じた。
阪神大震災や新潟中越地震で、
実際に被害に合われた住民の方の恐怖を考えると、お気の毒で仕方ない。
しかし、突然地震が来たとき、今日のように上手に非難できて、
炊き出し等スムーズにいくのかなーと、不安が残った・・・
私はD大学の英文科を卒業した。
D大学では毎年11月に、盛大に?
シェイクスピアプロダクション(シェイクスピア劇)が開催される。
卒業生メールマガジン(毎月パソコンに送られてくる)によると、
シェイクスピア劇はまだ続いていているようだ。
本当に懐かしい!
今メールの整理をしていて気がついた。
私たちの時と同じ 「ロミオとジュリエット」 を演じているみたいで、
その当時のことを懐かしく思い出す。
今年は健康状態がよかったら行って、
後輩の演技を拝見してみたい気持ちになった。
4回生になると、3cm位の分厚いシェイクスピアのテキストを抱え、
キャンパスを動き回った。
大学時代に、英国を代表する劇作家のシェイクスピアの研究ができたことに感謝する。
(私は不真面目な学生だったから「研究」というほどのものではないけど・・・(笑))
「ロミオとジュリエット」の劇のキャスト、スタッフを4回生全員で行うのだからとても忙しい。
その上卒論もシェイクスピアの作品から選んだ。(確か全員?)
ちなみに私の卒論は4大悲劇の一つ「リア王」。
4回生の一年間は、シェイクスピアで明け暮れしたような記憶がある
シェイクスピアは 「かのように振る舞え・・・」 という名言を残している。
今日一日優しい人であるかのように、過ごしてみる・・・。
微笑みの美しい人であるかのように、微笑んでみる・・・。
太陽の光のように、愛情あふれる人であるかのように、人に接してみる・・・。
野の花のように、自然で豊かな人であるかのように、自分をイメージしてみる・・・。
「かのように・・・」は、私たちに奇跡をもたらす、キーワードかもしれないな。
私にとって青春時代の4年間を過ごした京都。
大好きな街の京都。 想い出がいっぱい詰まった京都。
そんな大好きな京都の大学で、
大好きな友人達と共に過ごした4年間は、
私の人生の中でも貴重な想い出がたくさん残っている。
そして、苦労して皆でつくり上げたシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」も、
忘れられることができない想い出なのだ・・・
8年8ヶ月前に乳癌の温存療法手術で入院して、
その後、退院後の様子を綴っていきます。
1997年6月13日に退院した後は、
放射線科、乳腺外科、呼吸器内科に通院しながらの日々を送った。
放射線科→温存療法のあとの放射線治療と診察
乳腺外科→乳癌の経過観察
呼吸器内科→喘息の診察
梅雨から夏にかけての時期に、
毎日(土・日以外)の放射線治療は大変だった。
副作用もでてきて、当時の日記を見ても、
「身体がだるい」「吐き気がする」「疲れやすい」と書いている。
心身ともに疲れている様子がみえる。
例えば・・・
当時の日記より・・・★
【7月2日】
今日はとても憂鬱。
こんな病気をかかえ、どのように生きていけばいいのだろう?
腋の下に少ししこりがあるような気がして、再発転移が不安になった。
気になるので放射線治療の時にK医師に相談したけど、
今の段階でその場所への転移は考えられないとはっきり言われた。
安心していいのか?
身体がだるい。 少し吐き気もする。 皮膚炎は痛い。
友人からTELがあったが、誰にも会いたくない。
はじめて自殺を考えた。
温存療法手術で乳癌と周りの組織とリンパ節と、
全部悪いところはとってもらった。
一番安心してもいいこの時期に、
私は再発や転移のことばかりを心配している。
と、今、日記を読み返しながら感じます。
手術の後も放射線治療をし、抗癌剤も飲んでいるのに、
とても神経質に考えているのですね。
やはり「癌」の恐怖は、こういうところにもあるのかなあ。
手術で解決できない恐怖が・・・。
7月17日、31回の放射線治療も無事終了しました、
でも放射線治療後9日目に、放射線の副作用が出たのです。
【7月26日(土)】
昨日から何か体調が悪いと思っていたが、
やはり今日起きた時から、喘息は出るし、
身体はだるいし、検温したら37、7度あった。
台風なんて言っていれなくて、
肺炎になってると大変だから近くの個人総合病院に行った。
身体がだるい上、
体力が減少していて、近くの病院で済ませたかった。
胸部レントゲンと診察の結果、
「肺炎は大丈夫です」と言われた。 よかった!
喘息の点滴をして風邪薬をもらって、12時ごろ帰宅。
一日中安静にしていた。
【7月27日・日】
昨日点滴をしてもらったので、
今日は喘息は大分落ち着いた。
でも身体がだるく、検温したら37、2度あった。
頭が重く氷枕をして寝ていた。
洗顔をする気持ちも起こらず、
本を読む気も起きず、ずっと横になっていた。
こんな身体では…生きがいも失い、夜悲しくて涙がでてきた。
【7月28日・月】
今朝起きた時調子がよく、回復したと思った。
いつものように家事をしていたら、9時ごろから発熱。
38、4度あり、座薬を使用し、氷枕でずっと安静にしていた。
そして15時~、一昨日お世話になったN病院のN医師の外来時間に行って、
再び肺炎のことを訴えた。
私は何度も肺炎を経験しているから、
このだるさは肺炎の時の症状のような気がしてならないのだ。
でも、あまり相手にしてもらえず、喘息の点滴をして帰った。
【7月29日・火】
今朝も起きた時は、36、8度に下がっていた。
でも10時ごろには37、5度まで熱が上がった。
また座薬を使い、一日中安静にしていた。
26日からお風呂にも入っていないし、洗髪もしていない。
気持ち悪いけど我慢している。
何故熱が上がるのか? 肺炎ではないのだろうか?
【7月30日・水】
お風呂に4日間入っていないので限界がきた。
朝お風呂に入り、洗髪して 気持ちよくなった。
朝36、8度だった熱が、1
0時ごろには37、7度に上がった。 座薬を使った。
安静にして様子をみたけど、気になり、再びN病院に行った。
5日間熱が下がらないのだから、N医師も風邪ではないと気づくだろう。
採血と検尿の結果、白血球は7000位、CRP(炎症反応)は4、0だった(少し高め)。
検尿も異常なしだった。 肺炎でないことがわかり嬉しい。
【7月31日・木】
今日も熱が出た。
朝起きた時は36、8度なのに、
家事をしていて9時ごろには37、4度に上がっていた。
今日は、座薬は使いたくなかったのに、
11時頃検温したら38度になっていて、
14時になっても37、7度あったので、やはり座薬を使用。
今は下がっている。
明日はH病院(乳癌の手術をした病院)の放射線科の診察日なので、
相談してみようと思う。
食欲が全然ない。
【8月1日・金】
今日は久しぶりにH病院に行った。
放射線科の受信日だった。
今日も熱が37、4度あり、K医師にこの1週間の症状を相談した。
胸部レントゲンと、CTを検査した結果、
やはり「肺炎」だった。
乳癌の手術をしたばかりだし、
はやくH病院に来るべきだったと後悔した。
それにしても、N病院のN医師の言葉や診断が許せない気持ちになった。
乳癌のことも放射線治療のことも全部話し、
「肺炎ではないですか?」と、何度も確認したのに、「違う」って言われた。
自分で診断できにくかったのなら、
正直に私に「手術されたH病院で診てもらってください」とか、
「CTをする必要があります」って、何故言ってくれなかったの?
くやしいので、放射線科で診断書を書いてもらって、
N病院のN医師宛てに郵送した。
「先日はお世話になりました…」のお手紙も付けて・・・。
今回の肺炎は、放射線の副作用による肺炎だと言われた。
稀にあるらしい。
これまでの肺炎は抗生物質の点滴とかお薬の治療だったのに、
今回の肺炎は特殊らしく、
プレドニン(ステロイド)のお薬のみ。
プレドニンは、すでに喘息で飲んでいるので、
量を増やす、ということで、今回の肺炎で朝昼夜3回2錠づつ処方された。
プレドニンで肺炎が直るって、初めて知った。
【8月2日・土】
昨日肺炎と診断されたので、今日は安静にしようと努力した。
すぐ無理してしまうので。
熱は朝7時に36、8度。
11時に37、6度まであがった。
夜は36、5度に下がった。
体力が弱っているため、
夕食は久しぶりに夫と串焼き屋「T」に行き、栄養をつけた。
【8月3日・日】
大分調子がよくなった。
激励のお手紙をたくさんいただいているので、お返事を書いた。
【8月4日・月】
今日は放射線科の受信日だった。
とてもよくなってきているので嬉しい。
やはり、適格な病院に行き、
適格な処置をしていただくことが病気を治す第一条件だと思った。
身体がだるいから…と、近くの病院で済ませたのが大失敗だった。
病院選び、そして医師との出会いは大切だということを、
今回つくづく感じさせられた。
早く健康になり、主婦業を復活させなければと思う。
☆★=☆★=☆★=☆★=☆★=☆★=☆★
以上、当時の日記から綴りました。
肺炎騒動がありましたが、
この日ごろから体調を戻し、元気になっているようです。
今、振り返れば早くH病院に行けばよかったと思います。
やはり、「癌」という病気は、甘くないと思います。
ちょっとした変化でも、
手術をしたH病院に行って、相談する方が望ましかったのです。
それ以降私は、少しの症状でもH病院で相談し、
いろいろな科を全部H病院にかかっています。
近頃は病院もそれぞれのデスクにパソコンを置き、
そのデーターを医師と患者が見ながらの診察なので、
他の科のデーターも見ることができ、連携がちゃんとできています。
しっかりした病院にカルテがある方が、
土・日やお正月や時間外でも、
急患の場合に気持ちよく診ていただけるので、とても心丈夫です
でも、この時から3年先に、
温存した右乳房に再発するのです・・・
私は8年8ヶ月前に乳癌の宣告をうけ、
乳房温存療法で手術をした。
1997年4月25日乳癌の宣告、
同年6月13日退院までの闘病記を、12回にわたり記してきた。
今日は、乳房温存療法手術について、
私の体験から書いていこうと思う。
【乳癌の病期は4段階】
★ステージⅠ→腫瘍の大きさが2cm以下
リンパ節に転移していない
★ステージⅡ→腫瘍の大きさが2.1cmから5cm
腋のしたのリンパ節に転移あり
★ステージⅢ→腫瘍の大きさが5.1cm以上
または腋の下のリンパ節転移が著しい
乳房皮膚や筋肉に腫瘍が広がっている
★ステージⅣ→他の臓器に転移がある
早い時期の乳癌、
すなわちステージⅡまでの乳癌のほとんどは、
例外を除いて、手術で治ることが多いといわれている。
一昔前まで乳癌の手術といえば、
乳房とリンパ節を全部切り取っていた。
それは乳癌は、
まず腋窩(えきか)リンパ節(脇の下)に転移し、
それが全身転移の原因を作ると言われてきたから・・・。
癌とリンパ節を確実に切除することにより、
癌が全身に転移することを防ぐと考えられていた。
だからステージⅠでもステージⅣでも筋肉まで切り取る手術がされてきた。
しかしこの手術を行っても、助からない患者がいることから、
この乳癌に対する考え方は否定されはじめてきた。
現代の考え方では、
乳癌は腋窩リンパ節転移をおこすと同時に、
全身への転移もおこしうると考えられるようになってきた。
すなわち、乳癌は局所から全身に段階的に進展するのではなく、
比較的早い段階で全身に広がる「全身病」と考えられるようになった。
この考え方だと、
たとえ乳癌に対して過大な手術を行ったとしても、
全身への転移をくいとめることができないということになった。
そこで、乳癌の手術は縮小化への道をたどってきた、と聞く。
その結果、乳房を残す手術、
すなわち乳房温存療法手術が脚光をあびてきたのだ。
現代では、
早い時期の乳癌、すなわちステージⅡまでの癌は、
例外を除けば「全身病」ではなく「局所病」として手術を主役に考え、
ステージⅢを超える場合は、
「全身病」として手術は脇役として考えるようになってきた。
乳房温存療法手術は、乳房を残せることに大きな意味があり、
しかも、乳房全摘出に匹敵する予後が確認されはじめてから、
今では急速に普及してきている。
★乳房温存手術は、乳癌とその周りの乳腺組織を切除し、
大部分の乳房を残す方法★
したがって乳房が残る代わりに乳癌も残る。
残った癌は乳管内にじっとしている癌、
すなわち非浸潤癌であることが多い。
手術後の放射線治療が効かなかったとしても、
生命予後に悪影響をおよぼさないばかりか、
またできた時に切り取ればいいと主治医からも説明を受けた。
でも私はこの考え方が理解できない。
温存した乳房に再発する場合を、温存乳房再発という。
この再発が起こる頻度は約1割らしい。
10人に1人は乳房を残すべきではなかったと後悔する代わりに、
10人に9人は乳房をとらずににすんでよかった、ということになる。
残念ながら、私は前者のほうだ。
「温存した乳房への再発は、
手術の時に切り取る量を増やせば癌の取り残しが減るために少なくなる。
乳房の形は、切り取る量が多くなればなるほど変形する。」
と、乳癌の本に書いてあった。
当たり前のことである。
私の場合、主治医が、
乳房ができるだけ変形しないように考えてくださったのだろうか?
運が悪かったのか。
10人の内の1人に入ってしまった。
でも、もし、私が手術前に発言できるのであれば、
「なるべく多めに切り取ってください。変形は覚悟していますから」と、
答えただろう・・・。
全摘出も覚悟していたのだから。
誰だって、命の保障が第一だから。
癌に侵された人にとって一番怖いのが再発転移である。
そのために、乳房の形が変形したり、
なくなったりする事は問題ではない。
【乳房温存手術ができる対象の患者】
1.乳房の中に1個しか乳癌がない場合
2.乳房の中に癌が広がっていない場合
3.腫瘤の大きさが3cmを超えない場合
4.放射線治療が受けれる場合
5.残した乳房への再発が容認できる場合
6.乳房温存を希望する場合
もし今後、左の乳房に癌ができても、
私は乳房温存療法は選択しないだろう。
術後の放射線治療のこと、
抗癌剤の服用、それらの副作用、再発転移の不安・・・等、
もう二度と経験したくない。
考えると、気が遠くなる・・・
☆★1997年の日記より★☆
昨日の続きを綴ります。
【1997年6月6日・金】
術後9日目。
主治医のH医師の回診時に朗報があった。
「リンパには、転移していませんでした」
の言葉に、私は大喜び!!
報告するH医師もとても嬉しそうだった!!
「これで90%、再発、転移もないでしょう・・・」とも言われた。
「喘息が落ち着いたら、退院されていいですよ。
放射線治療は外来で通院してください」とのこと。
思わず「嬉しい!」と叫んでしまった。
家族と相談した結果、
放射線治療の通院のことも考え、
1週間後の13日に退院することに決定。
一般的には術後1週間位で退院されるそうだし、
個室を占領しているので、
気がひけたけど甘えることにした。
【1997年6月7日・土~6月12日・木】
術後10日~15日目。
この間の治療は、
放射線治療と抗癌剤(ホルモン剤・ノルバデックス)のみ。
看護師さんが病室にお薬を持って来られた時、
生まれて初めて抗癌剤を見た。
「抗癌剤」って怖いイメージがあったけど、
やはりそのとおりで、錠剤も大きく気味悪く感じてしまった。
お見舞いに来る友人に見せたら興味深そうに見ていた。
ノルバデックス(抗エストロゲン剤)は乳癌再発の防止に有効とのこと。
入院生活もすっかり慣れ、売店に行くにも日課の一つとなった。
私の病室は南病棟201号室なので、
西病棟地下2Fの売店までは結構距離があり、運動にちょうどよいのだ。
雑誌を買うついでにお花を買って、
お見舞いにいただいたアレンジの花の枯れたところを挿しなおした。
まず新聞紙を広げ、そこに少々枯れ始めたアレンジのカゴを置き、
枯れた花を抜いて買ってきた花と挿しなおす。
彩りや花の種類のバランスを考えながらのこの作業が結構楽しい。
花がほとんど枯れてしまったアレンジは全部ぬいてカゴのみ利用して、
買ってきたお花で私がアレンジして作る。
看護師さんたちから、
「お上手ですね!」「綺麗ですね!」とほめられた。
花が大好きだから、
お花屋さんでも始めたらいいかな?なんて・・・。
内科と違って外科の場合、
創が癒えると外出許可は比較的自由で、
治療以外は外出している時間も多くなった。
病院は市の中心部にあり、
病院の前にSデパートがあるので毎日のように外出しながら、入院生活を送った。
たくさんの人がお見舞いに来てくださった。
日によっては横になる時間もない位次々と。
でも私が入院し教訓となったことは、
お見舞いは短時間でなくてなならないこと。
入院している者は、「そろそろ帰ってください」とは言えないのだから。
いろいろな方にお会いできるのは嬉しいし、ありがたいけれど、
時間が長くてはやはり疲れる。
私は今後気をつけようと思う。
【1997年6月13日・金】
術後16日目。
いよいよ退院の日を迎えた。
家族に来てもらって、PM~退院。
乳癌の悪いところは全部とっていただき、
リンパにも転移がない結果がでて嬉しい。
退院してからの治療は、
抗癌剤(ホルモン剤)の服用と、
7月17日までの放射線科の治療。
そして、今後は2週間後、1ヵ月後・・・外来で経過を観察していただく。
抗癌剤は2~3年飲んでくださいと指示があった。
副作用がこわい。
髪の毛が抜けたりするのだろうか・・・と不安が頭をよぎる。
退院後の最初の外来日は、6月26日。
夜は、家族で、海の見えるPホテルに行き、退院祝の祝杯をあげた。
ビールの味が格別美味しかった。
この幸せがずっと続くといいなと思いながら、楽しく食事をした。
☆★=☆★=☆★=☆★=☆★=☆★=☆★
リンパに転移していないことがわかっても、
1割の人は再発、転移があるということで、
喜びの中にも一抹の不安がありました
その悪い予感があたり、私は2度も再発をしました・・・
「癌」という病気は、それだけ怖い病気だとつくづく思います。
でも、どんどん良いお薬も出てきているので、
悲観的なことは考えず、前向きにがんばっていきたいと思います
☆★1997年の日記より★☆
1月14日の続きを綴ります。
【1997年6月5日・木】
術後8日目。
今日から放射線治療がはじまった。
手術で乳房を残した時、
すなわち、乳房を温存した時には必ず必要な治療なのだ。
放射線治療の目的は、
温存した乳房に癌が残っている可能性があるため、
放射線をあてて根治させ、
温存した乳房への再発を防ぐことであると、説明があった。
病院の資料によると、
欧米から普及したこの乳房温存手術では、
放射線治療が普通になっているとのこと。
なぜなら、放射線を当てれば術後の乳房再発が、5~10%であるのに対し、
当てなければ10~20%に再発が起こるといわれているから。
驚くのは、
この再発率を日本での報告を見ると、
放射線を当てた時の数字は1.9%、
放射線を当てないときは3.7%と欧米に比べ低い数値である。
この違いの最も大きな理由は、
日本人の外科医は丁寧な手術を行い、
病理医も几帳面に診断をしてくれているからだと考えられている。
・・・と書いてあった。
(しかし私は残念ながら3年目と4年目に2回再発した)
13:40にナースコールで「放射線科に行ってください・・・」と声をかけられ、
昨日と同じ経路で中央病棟地下2Fに下りて行った。
やはり不気味に感じた。
今日は初めての照射なので、
CT撮影をしながら
放射線を治療するところにマジックで印をつけられた。
右乳房を中心に首の辺りまで線が引いてある。
○で囲むだけでなく複雑に線が引いてある。
濃い赤紫のような色のマジックで直接肌に書かれるのだからイヤだった。
夜お風呂の鏡で見ると自分がかわいそうになった。
これだと、洋服を着ても首のところが見えるだろうな。
でも余分な部分への照射をできるだけ避けるために必要な大事な印なのだ。
癌はやっぱり怖い病気だと、強く強く感じた。
<私の放射線治療>
・ ライナック照射(高エネルギー放射腺治療)
・ 照射条件・・・MV線→4MVX線
CGY→180CGY
m→0.8m
・ 照射部位・・・右乳房
・ 照射時間・・・約1分(位置を合わせる時間を入れると10分位)
・ 照射回数・・・31回(約6週間)
・ 費用・・・3000円~5000円
・ 外来通院(予約制)・・・月曜日~金曜日(毎日)
・ 副作用・・・皮膚炎、倦怠感、食欲不振、吐き気等。
<放射線科からの注意>
1.マジックの印のところは、治療上大事なので消えないようにすること。
お風呂でこすらないようにする。
印が薄くなったら書き直してくださるとのこと。
2.皮膚(治療部位)を刺激しないこと。
直射日光に当てないこと。
3.皮膚の処置・・・治療が進んで印のところがカサカサになって
粉をふくようになったら、ベビーオイルなどを塗る。
4.火傷のようにヒリヒリと痛んだりする場合は、
軟膏を処方してくださるので申し出る。
5.時々体重を測って、体力の目安とする。
6.治療期間中は、なるべく治療優先の生活とし、体力の消耗を避けるようにし、
睡眠をよくとり、栄養がかたよらないよう気をつけ頑張ること。
7.治療中変わったことがあるときは、速やかに相談すること。
8.運動については制限はない。
☆★=☆★=☆★=☆★=☆★=☆★=☆★
生きる上で、「健康第一」と感じ始めたのがこの頃でした。
喘息も苦しかったけど、癌を患ってからは健康な人が羨ましかった。
健康である時は、健康であることへの感謝がありませんでした。
それが、当たり前だと思っていたからです。
もっと自分の身体をいたわっておけばよかったと、
つくづく反省しました・・・。
私が癌に侵されたのは、
何が原因だったのかしら・・・?と、今でも悩みます。
生きているといろいろなことにぶつかる。 何が起きるかわからない。
生きていく上では、誰もが苦しみを体験するのではないだろうか。
仕事で悩む人、病気で苦しむ人、人間関係で困っている人・・・。
苦しむことにどんな意味があるのか、苦しみの渦中にいる時には想像もできない。
でも、ずっと後になって、「あの苦しみがあったからこそ、今の自分がある」とか、
「あの苦しみを経たからこそ、人間的に成長した」とか言えるのだと思う。
幸いなことに、苦しいことがいつまでも続く事はない。
苦しみの後には必ず幸せがくる・・・ 昨日、長嶋茂雄さんの半年ぶりのお姿に感動した
脳梗塞の後遺症で身体が不自由なのにもかかわらず、
子供たちの野球教室でグラウンドまで降りて、
子供たちに励ましの言葉をかけておられた。(これは予定外だったらしい)
以前の長嶋さんに比べると、
杖をついておられるお姿が痛々しくみえたけど、でも明るい表情で嬉しかった。
私はアンチ巨人だから、これまで長嶋さんに関心はなかったのだけど、
脳梗塞を患らわれてからの長嶋さんには心からエールを送っている。
早く元気になってもらいたい。2週間ぶりに今日から仕事復帰されたみのもんたさんも、
喜びに満ち溢れておられた。
無理して元気をだし、周りに気遣いながらの復帰に、
またまた感動しもらい泣きしてしまった。
苦しみを味わった人は、優しい心がめばえる・・・
苦しみや悲しみが大きければ大きいほど、
そういう経験を積んだ人は、
他人に対しての思いやりや愛情が特に深いように思う・・・
「貴方は癌です」と言われれば、誰もが落ち込むでしょう。
私も8年数ヶ月前に乳癌を、4年数ヶ月前には肺癌の宣告を受けました。
その宣告を受けたときは、「癌=死」と考え、
明日にでも死ぬかのような悲しみのどん底を味わいました。
宣告を受ける直前まで幸せだった自分が、
宣告を受けた瞬間から悲しみの主人公になるのですから、
穏やかな気持ちでいれるはずがありません。
宣告を受けたときのショックが少しおさまりはじめ、
なんとか自分の病気を受け止める覚悟ができた時、
いろいろな不安がよぎり始めます。
最初に、家族のことが頭をかすめました。
私がいなくなったら、
夫は・・・?
息子は・・・?
どうなるだろう・・・?
そしてその後、身辺整理のことが心配になりました。
「このままでは死ねない・・・
部屋の中、引き出しの中を片付けておかなければ・・・」と、
そんな焦りもでました。
でもそういう心理状態では、
落ち着いて片付けることもできないのです。
そしてこんなことも思いました。
「生きている間に、逢いたい人に逢っておかねば・・・」という焦りです。
ただ残念なことに、
「癌」という病気を宣告されたばかりの時って、
「逢いたいけど逢えない・・・」という不思議な心理状態です。
「人生一度だけだから・・・」と、
私はいつも思います。
日頃から、
悔いのない生活をしておくことが一番大切なのかなーと。
私にとっても、これからの人生で何が起こるかわかりません。
例えばまた、癌の転移や原発性の癌の宣告を受けることがあっても、
その中に深い意味を見つけ、
「つらいけれども病気と仲良くしていこう、
残された時間を大切にしていこう」と、
プラスの感情をもつことができる人間になっていきたいと思います。
つまり、私たちにとって大事なことは、
自分を見つめ直し、
育て直していくことなのではないかなぁと
最近特に感じているのです・・・
久しぶりの昨日からの雨が、午後には止んだ。
冬の雨は、冷たくて寂しい感じがした・・・。
☆★1997年の日記より★☆
昨日の続きを綴ります。
【1997年6月1日・日】
術後4日目。
今日は日曜日なので、看護師さんの出入りも少なく、
病棟も静か・・・。
ただ、いつもの病院の雰囲気と違って、
家族連れのお見舞い客の出入りが多い。
今日は、私のところにも次々とお見舞いにきてくださり、疲れた。
横になる時間もないほどだった。
癌の告知をうけて、1ヶ月以上が過ぎた。
良性の腫瘍だと思っていたけれど、
転移する可能性が強い癌ということがわかった。
やはり・・・・そんなに長くは生きれないと思っている。
癌に関する医学誌をいろいろ読んでいて、
生存率・・・・・・と書いてある。
私は体力もないし、長くは生きれないだろう。
残された時間を楽しく充実したものにしたい。
そのためには家族に支えてもらいながら、
できるだけ多くの時間を家族と一緒に、幸せにいきたい・・・。
それが私の一番の願いである。
たった一人の息子を関東の大学に行かせたことを、少し悔やんだ。
夜、夫がお好み焼きをテイクアウトしてもらって、
病室に持参してくれた。
私が昨日頼んでいたからだけど、
ちょっと遠いところのお店まで行って買ってきてくれた。
待望のお好み焼きをいただくことができ、大満足。
そこのお好み焼は、トッピングの種類が多くて、とても美味しい。
私は、いろいろな種類のキノコが
たっぷり上にのっかてるお好み焼きをいつもいただく。
明日はいよいよ妹が関東に帰るため、
広島の味を堪能させてやりたかったし、
3人でおしゃべりしながら、お好み焼きをいただいた。
こんな楽しい時間は、いつまで続くのだろう・・・?
【1997年6月2日・月】
術後5日目。
ガーゼ交換のみ。 喘息もおとなしくなった。
ただ、精神的には寂しい・・・。
(妹が帰ったからか?癌がこわいのか?)
妹にも生活があるのだからガマンしなくては!
そして、癌も今さら悩んでも仕方ないこと、あきらめなくては・・・。
これが、私の人生だから。
【1997年6月3日・火】
術後6日目。
今日は、
手術時に創のところに入れてあった持続吸引チューブ(2本)を抜去された。
これはリンパ液を出すために必要だといわれ、
術後から、ずっとぶらざげて歩いていたのだけど、
リンパ液の性状や量をみて抜去されるそうだ。
こういう治療は大体、研修医のお仕事。
研修医のTDr.は若いし、何でも言いやすく、
こられた時はいつも、不満や質問を十分聞いてもらっているので、
私にとって貴重な存在かもしれない。
今日も抜去される時、痛かったため、
「痛い!痛い!」と何度も言ってしまった。
今日も友人が6人、次々とお見舞いに来てくださり、
嬉しかったけど、結局夕食が食べれなかった。
【1997年6月4日・水】
術後7日目。
今日は、また研修医のTDr.が抜糸をされた。
痛くて「痛い!!」を12針分連発した。
PM~ 放射線科の診察を初めて受けた。
主治医のHDr.から言われていたので、覚悟はしていたが怖かった。
自分が「癌」であることを、改めて強く感じてしまった。
癌は怖い病気なのだ!
放射線科は中央病棟の地下2Fにある。
エレベーターで地下2Fに下りると異様な雰囲気が漂っていた。
放射線科に下りて行く人は少ない。
余計に気味が悪かった。
気晴らしもしたかったので、
14:30~17:30、外出願いを出して、
病院の前のSデパートに一人で行った。
いつも行っているSデパートなのに、
2週間足らずの入院生活で、周りの空気が違っているように感じた。
思ったより元気がでなかった。
精神的なものだと思う。
私の乳癌で、特に母が胸を痛めている。
どのように慰めたらいいのだろう・・・?
☆★=☆★=☆★=☆★=☆★=☆★=☆★
思ってもいなかった「癌」に直面し、
死を覚悟しながらの入院生活でした。
でも、医学の進歩のお陰で、こうして今も生きています。
今、癌で悩んでいる方、
苦しんでいる方、頑張ってください
希望
をもって・・・!!
☆★1997年の日記より★☆
昨日の続きを綴ります。
【1997年5月29日・木】
術後1日目。
局麻のおかげか、痛みもあまりない。
自分でカーテンもあけれるし、洗顔もできる。
タオルもしぼれるし、腕も少しだけあがる。
ただ、この日記を書くのに、文字を書くのがちょっと不自由。
この回復ぶりに看護師さんも、家族も驚いている。
術後は、全麻より局麻のほうが楽みたい。
そういえば、私は全身麻酔の経験がないな・・・。
今、疑問に思うのは、
局麻でできるものを何故全麻の予定だったのかということ。
主治医にたずねたら、あいまいな返答しか戻らなかった。
すべてを納得しなくては気がすまない私の性格では、
疑問が残る・・・。
午前中、喘息の発作が出て点滴をうけた。
看護師さんから「リハビリチェック表」を渡され、
早速リハビリの説明があった。
その表に、一日目の目標は
「指の屈伸、ボール握り、肘関節屈伸、歯みがき、洗面、食事」と、書いてある。
二日目、三日目・・・と目標があり、
自分で毎日チェックして書き込んでいく。
<良くできたー○、 まぁまぁー△、できなかったー× >
私は、今日の目標はクリアできた!全部 ○!
そして、もう一つのリハビリは腕がどこまであがるかのチェック。
お部屋のドアに目盛り表を貼られ、腕を上げる練習をする。
最初は痛くても我慢してリハビリしなくては、
だんだん硬くなって腕が上がらなくなると言われ痛いけど頑張った。
でもこれは痛くて痛くて期待はずれの結果だった。
妹が一日中いてくれて、寂しくなかった。
夜、夫と息子が来て、私が元気なので驚いていた。
【1997年5月30日・金】
術後2日目。
とっても元気、元気!
でも、右手の力が出ない・・・
妹が2日間泊まってくれ、精神的ににぎやかで嬉しかった。
二人で西病棟の地下2Fの売店に買い物に行ったり、
一日中おしゃべりしていた。
今日のリハビリの目標は、
「髪の手入れ、タオルしぼり、着替え、カーテンの開け閉め」。
今日も全部 ○・・・
「相田みつを作品集」をお見舞いにいただいた。
「にんげだもの」、「しあわせはいつも」、「雨の日には・・・」、
「一生感動一生青春」の4冊と「日めくり」。
感動する言葉が多く、
病室で気がむいた時、開いて読むのに嬉しいお見舞いだった。
【1997年5月31日・土】
術後3日目。
わりと元気。
でも昨日までは妹が泊まってくれていたけど、今日はいないので寂しい。
今日のリハビリの目標は、
「振り子運動、壁のぼり、つるべ運動、肩まわし、風車、指先タッチ」、
病院の指定の道具で練習する。
夕方リハビリのテストがあった。
私の結果は・・・、
<壁のぼり→2.5cm><前方挙上→130°>
<側方挙上→120°><後方挙上→60°>
<上腕周囲 右→19cm><上腕周囲 左→19cm>
腕がよく動いている方だと、看護師さんからお褒めの言葉。
昨夜は喘息もでず、
夜中に看護師さんがまわってこられた時も気づかないで、
21:00~5:00までぐっすり眠れ、気分爽快!
土曜日なので、外来はなく病院の中が静か。
でも主治医2人はそれぞれ回診にこられた。
主治医の一人は、研修医みたい。
今日はお見舞いの方が多くて、嬉しいけど疲れた・・・。
☆★=☆★=☆★=☆★=☆★=☆★=☆★
相田みつを 「一生感動一生青春」 より・・・
「道」
長い人生にはなあ
どんなに避けようとしても
どうしても通らなければ
ならぬ道・・・・・・
てものがあるんだな
そんなときは その道を
黙って あるくことだな
愚痴や弱音を吐かないでな
黙って歩くんだよ
ただ 黙って・・・・・・。
涙なんか見せちゃダメだぜ!!
そしてなあ その時なんだよ
人間としての いのちの根が
ふかくなるのは・・・・・・。