はなやか
な、西洋人・居留地
、グラバーえん(園)
その主は、
トーマス=ブレイク=グラバー
という、スコットランド人です。
グラバーは、江戸時代のおわりに 来日し、
ばくふ(幕府)をたおそう
とねらう、日本人志士と 交流。
あっという間に、「長崎実業界の顔
」
ともいうべき
大商人に、
成長しました
お茶、船づくり、石炭・・と、なんでも商い、
さっちょう(薩摩や長州)に、武器をながし、
大名とも 取引して、キケン
な つなわたり(綱渡り)
を
しながら、
大もうけ
、した後、とうさん(倒産)
という
波乱の20代を、
すごした・グラバー。
明治に入ってからも、政府や、財界から たよられ、
日本の「富国強兵政策
」を、ささえました
そんな
グラバーには、
あとつぎ息子
が、いました
日本人女性との間に もうけた、くらば・とみさぶろう
(かんじ:倉場富三郎)
です。
とみさぶろう
は、お父さんが作った・この家
と、
ながさき(長崎)における地位
とを、
ソフトに 受けつぎました
日英ハーフの とみさぶろうは、同じ・日英ハーフの妻、
「ワカさん」
を
えて、
お父さんよりも、日本人社会に なじみました
日本・イギリス・それ以外・・
ながさき(長崎)には、さまざまな国の人が
いる
その「橋渡し役」を、自分がやってみたい
とみさぶろう
は、商人をこえた・存在
を めざし、
社交界を、もりあげて いきました
それは、名士クラブである
、「内外倶楽部」を
しゅさい(主宰)したり、
「長崎・諏訪神社
」の 氏子にもなる、など、
てってい(徹底)
していました
・・・が、しかし
そんな・とみさぶろう
の 人生を、
「太平洋戦争」
が
ひねりつぶします
イギリス人ハーフである・とみさぶろう
に、スパイようぎ(容疑)
が
かけられたのです
したしかった・外国人たちは、次々と 日本を
去り、
なれしたしんだ・家
(グラバー住宅)も、
「長崎造船所が見下ろせるから」
という理由で、立ちのかされ・・、
引っこし(越し)先
では、けんぺい(憲兵)に
かんし(監視)されて、
近所の人とは そえん(疎遠)になる・毎日。。
「日英の架け橋
」どころか、手のひら返して 「毛唐」よばわりを
受け、
ふうふ(夫婦)は、家に 引きこもって、戦争の間中、
たえしのぶしか
ありませんでした。。
そんな中、あいさい(愛妻)・ワカさん
が、とつぜんの
病死・・
さらに
自分が、もりあげてきた
ながさき(長崎)に
げんばく(原子爆弾)が
投下・・
しかも
、せんそう(戦争)がおわると、
今度は
どこからか、
「倉場富三郎は、戦争に協力した財界人」
との声が
あがり、
「戦犯」として つかまるのではないか?
との
うわさが
たちました。
ねむれなくなるほど・追いつめられた
とみさぶろう
は、
せんそう(戦争)がおわって
11日目に、
首をつって 死んでしまいました。。
・・・・・
日本での栄光を きわめつくし
、政府から
かんしゃ(感謝)されまくって
人生をおえた、
父・グラバーと、
日本にそむかれ、ぜつぼう(絶望)の果てに 「孤独死」した、
息子・くらばとみさぶろう。
そんな・かなしい、家ぞくの物語が この「グラバー園」
に
あるなんて、
思ってもみなかった
クリンでした・・
でも、せんご(戦後)、グラバー家のひげき(悲劇)をも
丸のみにして、
ながさき(長崎)のまち(街)は、力づよく、ふっかつ
(復活)しました
そのかげには、
「長崎の復興のために、使ってほしい。」
と
とみさぶろうが、いしょ(遺書)
とともに
のこした、
10万円という、ばく(莫)大な お金の存在が、あったそうで、
クリン、
これは、決して 忘れてはならないことだ
って
思いました
グラバーえん(園)を
大切にしながら、
とみさぶろう
が、くれた・気もち
を、大切にしたい
って
クリンは、思いました
(その18、「大浦慶の功労金」に、つづく)