江戸時代の日本は、「鎖国」とかいいながら、
実は、
オランダや 中国(清)と
ぼうえき(貿易)を
していました
そのまど(窓)口となったのが、ながさき(長崎)
で、
オランダ人と 取引をしていた・出島や、
中国人との取引を行っていた、とうじんやしき(唐人屋敷)
という、
「中国版・出島」が、つくられたそうです
れきし(歴史)にくわしい
チットによると、
さこく(鎖国)下での「長崎貿易」の主役は
出島ではなく、
この、「唐人屋敷」における、
中国人との取引
のほうだった、
とのこと
ながさき(長崎)にやってきた・中国人は、
げんざい(現在)の
「館内町」あたりに
つくられた、
「唐人屋敷」という名の 居住空間に かくり(隔離)され、
ここで、きこく(帰国)するまでの、数ヶ月を
すごしたそうです。
広さは、出島の2・5倍は あったそうですが、
そこには、
2000人の 中国人男性が、
きほん・「外出禁止」で くらしていたから、
(なかなか、たいへんなことも あったろうな・・)
と、すいさつ(推察)されます
(居住区のまわりは、ほり(濠)・・)
「唐人」と、丸山ゆうじょ(遊女)の、命がけの恋
など、
この場所にも、さまざまな
ドラマが
あったらしいけど・・
今、「唐人屋敷」の こんせき(痕跡)を 示すものは、
4つの、中国式の たてものだけ・・。
すなわち、「土神堂」
「天后堂」
「観音堂」
「福建会館」 が、まばらにあるだけ、です。
・・・ここを、平日の昼間に 歩いて、「異国情緒」
を
かんじるのは、
むずかしいものが あるかも・・。
でもでも 「唐人」たちが、もたらした文化は、
その後
きっちり、
ながさき(長崎)に 息づいた
って
クリンは ききました
たとえば、「長崎くんち」で、ひろう(披露)される、
じゃおどり(龍踊り)
は、
「唐人屋敷の土神堂」のさいじ(祭事)を
うけついだものだと
いうし、
「唐人」が行っていた・死者のくよう(供養)は、「精霊流し」
として、
ながさき(長崎)の
ふうぶつし(風物詩)に なっているそうです
「中国では 人が死ぬと、幽霊になるって
考えられていた
みたいね。
だから、よみがえった幽霊のために、遺体に
履物を
はかせてたんだって~。
唐人屋敷の中には、昔、幽霊堂と呼ばれる・お堂があって、
夜になると、そのお堂から、よみがえった死者の
ならす
履物の音が、
コツコツ・コツコツ・・」
と、
チットが、かいだん(怪談)を 話すのをきいて、
それは、完全に「キョンシー」だとしか・思えない
と、
80年代生まれの
クリンのあたまは、
あのゾンビの姿で、
いっぱいになって しまいました
すると、
チットも 同ちょう(調)し・・
「『霊幻童子』ね~~ なつかしい~~わたしらの世代で
中国の幽霊っていったら、
キョンシーを
思い出さない人は
いないかもね~
あの、手を前に出して、ピョンピョン前に
はねるやつ、
よく
友達と、
まねして遊んだわ~~
あいつら、
黄色いお札を貼ると、動きが止まるんだよね」(チット)
「ヘンなの、つけないでよ」
(その25、「崇福寺のこうもりマーク」に、つづく)