「あっ
うらかみてんしゅどう(浦上天主堂)が
見えるよ
」
平和こうえん(公園)のうらから、ゆるい坂道を
行くと、
ながさき(長崎)で、もっとも・有名な「原爆犠牲者」、
ながいたかし(永井隆)
の、記念かん(館)
に、
つきます
永井たかし(隆)は、「被爆文学の頂点
」に立つ、『長崎の鐘』
を
書いたことで知られる、
クリスチャンの
お医者さん


タイトルの「長崎の鐘」とは、永井さんもくらしてた、
このあたりの
シンボル
、
「浦上天主堂」の かね(鐘)
のことです。
(※爆心地近くなのに壊れなかった、長崎復活のシンボルです
)
さて・・、げんばく(原子爆弾)が、おとされた時
、
永井さんは、「長崎大学の放射線科」に、つとめて
いました。
原子力を けんきゅう(研究)していた・医者が、
みずから、ひばく(被爆)してしまう
という、
うんめい(運命)の
皮肉
さらに、このげんばく(原爆)で、妻を亡くし、
自分も
じゅう(重)症を 負ったにも
かかわらず
まわりの「被爆者」を、必死で 救おうとした
、
医者としての
正しきこうどう(行動)
そして、
うらかみ(浦上)クリスチャンを 代表する、
ふっかつ(復活)への
ちかい(誓い)・・
そういうものが、合わさった、彼のエッセイ『長崎の鐘』
は、
戦後ながらく、
世界的な 反きょう(響)を
よびました




うちのチット
は、かつて、ここ・「如己堂
(にょこどう)」
に
来たことが あります
「己の如く、隣人を愛せよ
」と、ネーミングされた、
たった・2じょう(畳)の、ついのすみか(終の棲家)・・

「
勝つために 負傷した筈だったのに、
今は
負けるために 負傷したことになっている
この人々こそ、
最も残酷な悲歎の淵に
投げ込まれたのである。
これを慰め救いあげる者は、吾をおいて
他にない。」
という、
『長崎の鐘』の一せつ(節)が、ひびきます

しかし・・ このたび、20年ぶりの再ほう(訪)を
前に、
永井さんの本を
いろいろ・読みなおした
チットは、
「
昔、あまり気にならなかった、彼の『科学者』としての面が
今回
ずいぶん目についた・・」
と
語りはじめたのです。。
それは、げんばく(原爆)のさん(惨)状
に
みまわれながらも、
原子力のいりょく(威力)に こうふん(興奮)を おさえきれない、
「学者・永井隆」の 声

『長崎の鐘』前半、永井さんは、こくめい(克明)に
ひがい(被害)状況を
記し
、
じょうほう(情報)なんて、ほとんど・入ってこない
ながさき(長崎)で、
今後、世にもおそろしいことになる
、と、「放射能の影響」
を
かなり・高度に
よそく(予測)しています
<『長崎の鐘』より、一部・抜粋>
「 かねて 原子物理学に興味をもち、
その一部面の研究に従っていた
私達数名の教室員が、
今ここに その原子物理学の学理の結晶たる原子爆弾の
被害者となって
防空壕の中に倒れておるということ、
身をもってその実験台に乗せられて 親しくその状態を
観測し得たということ、
そして 今後の変化を 観察し続けるということ、
まことに 稀有のことでなければならぬ。
私達はやられたという悲嘆、憤慨、無念の胸の底から
新たなる真理探究の本能が 胎動を始めたのを覚えた。
勃然として新鮮なる興味が、荒涼たる原子野に湧きあがる。」

・・・・ みんなが知っているのは、命つきるまで
「戦争反対」と平和を
うったえつづけた
、
永井さん。。
でも、「悪用すれば、地球を破滅せしめる
」と けいかい(警戒)
しながらも、
じんるい(人類)のはってん(発展)と、文化向上
のため、
原子力そのものに、
きたい(期待)をかけていたらしい・永井さんが、
「平和利用」が あやうく
、だれも・コントロールできない
とわかった、
今の、原子力をとりまく状況を
見たら、
いったい、どう・考えるのだろう・・? 
「
あーあ、、『長崎の鐘』を、昔みたいに
純粋に読めないよ
福島原発事故が起きた
2011年、
もし永井隆が生きていれば
103歳か・・。
永井さん、『戦争で、原子力など進歩もあったけど、
これだけの人命と、お金とを 平和文化の方へ使ったら、
原子力より
もっと先の学問が、
私たちの手の中に入っていたでしょう』
って
言ってるんだよね
なんという、頭脳・・
長生きして、「もっと先の学問」を 導いて
ほしかったわ・・。
でも、、
あの人と、『長崎の鐘』に、これ以上の試練は
与えられないよね
やっぱり、
永井さんが
生きてなくて
よかったか・・。」
と、
チットが、天国のほうを見て、つぶやきました。。
(その8、「稲佐山駐車場のベストな時間帯」に、つづく)