岐阜にも緊急事態宣言が出ています(愛知と連動(^^;)。
ずっと巣籠り状態なのですが、最近、NHKで円空特集をやっていたので、こんな時こそ円空さんと思い、出かけることにしました。
向かう先は、円空が開基したと言われている中観音堂です。休日なのに、電話を掛けても誰も出ないし、やはり閉館でしょうか。まあ、ダメもとで出かけることにしました。
やっぱり閑散として誰もいません。
外に置いてある円空仏のレプリカなどをながめてぶらぶらし、
横にある円空上人産湯の井戸を覗いたりしていました。
まあ、今日は帰ろうかと思っていた時、
「よろしければ見ていってください」
と声がかかりました。
地元の人で、午前中当番とのこと。
寒い中でウロウロしているのを見かねたのでしょう。まるで仏様のような人です(^.^)
中観音堂はこれまで何度も訪れているのですが、今回は、他に誰もおらず、心ゆくまで円空仏を見ることができました。
高 222.0cm
この十一面観音像が中観音堂の本尊です。
ここにある17体の円空仏のうち最大で、観音堂の中央に置かれ、その両脇に他の円空仏が配置されています。
観音堂と円空仏は、地元の人々によって大切に守られてきました。現在は脇に円空資料館が併設され、地元の人が毎日、交代で詰めています。
円空の生誕地には諸説ありますが、現在、美濃の国のこの地、羽島市上中町中が最も確からしい所だと考えられています。寛永9(1632)年、美濃国(羽島市上中町中)で生まれた円空は、幼い頃、母親を洪水で亡くしました。円空が全国行脚をし、12万体もの円空仏を彫ったのは、母親を供養するためだったと言われています。円空仏がたたえる微笑みは、母親の面影が投影されているのかも知れません。
新幹線羽島駅から数km東南東のこの場所は、西に長良川、東に木曽川の2大河川に囲まれた水田地帯です。河川の配置がこのようになったのは天正十四年の大洪水以降です。それまで、長良川、木曽川ともに定まった流れはなく、多くの分流がこの辺りを流れていました。堤防などは何もなく、毎年洪水にみまわれました。その頃、この辺りは、美濃ではなく、尾張だったのです。ですから、信長が美濃を攻略するには、多数の分流、特に、一番西の大きな分流、境川(現在は排水路に近い小河川)を越えて西へ侵攻せねばならなかったのです。
天正十四年の大洪水以降、木曽川の本流は、数km東に変わったため、この地は、地理的には、尾張から美濃になりました。江戸時代に入ると、徳川御三家尾張藩は、慶長13年(1608)木曽川左岸に、「御囲堤」と呼ばれる大堤防を築き、藩内を洪水から守りました。西側の地域はそのままですから、この地の洪水はかえって増加しました。西の美濃側には、慶安3年(1650)、「篭堤」と呼ばれた堤防が築かれたましたが、この堤防は「尾張より低きこと3尺たるべし」というもので、増水時は、西の美濃側の堤防が決壊するようになっていたのです。
円空が生まれたのは、寛永9(1632)年です。ですから、当時、この地は尾張藩の犠牲となり、毎年のように激しい洪水に襲われていました。円空の母親もその犠牲になったのでしょう。
本尊十一面観音像の背面には四角にくりぬいた痕があります。内には円空が使った鉈が入っていて、「中を見た者は目が潰れる」と言われてきました。そのため、この観音像の内部を見た人は誰もいませんでした。
この度、地元の人々は意を決して、内部調査を行うことにしたのです。350年ほども闇の中に閉ざされていたのは、小型の銅鏡とボロボロになった九重経、そして、数珠と思われる透明の玉類でした。これらは母親の遺品の銅鏡、供養の経典、仏具と考えられ、ここが円空生誕の地であることの裏付けとなりました。
30.3㎝、ヒノキ
阿弥陀如来像 66.0㎝、ヒノキ
102.5㎝、ヒノキ 103.5㎝、ヒノキ
114.2㎝、クス
28.0㎝、ヒノキ
68.5㎝、ヒノキ
不動明王像 73.9㎝、ヒノキ
57.5㎝、ヒノキ
45.0㎝、ヒノキ
この地は、濃尾平野のまん中に位置します。地形的に上流で降った雨が集まりやすく、繰り返し大洪水に襲われました。人々は、円空仏にすがりながら、日々を送ってきたのでしょう。
中観音堂を守ってきたのは、100軒ほどの地元集落の人たちです。多くの家には、小さな円空仏が残されいて、大切に受けつがれています。
それも地元の人が守り繋いできたと言うところが価値があると思います。
円空の仏像の何か物言いたげな口元に、いつも「ええっ?何?」と問いかけ
たくなる気安さが好きです。
切れ長の目の笑いを見ると、ついつられてしまいます。
なかなか、ゆっくりと、貸し切り状態で訪れることは出来ないでしょうね。
羨ましい限りです。
円空さんの生まれたところは、遅生さんのお住まいの近くなんですね。
その辺の土地が、毎年、洪水に見舞われていた様子は、以前読んだ「頂上至極」(村木 嵐著 幻冬舎 2015年10月20日第1刷発行)という本に書かれていましたので、なんとなく分かりました。
その辺の事情も理解しますと、円空さんの人となりをより一層理解出来ますね(^_^)
円空仏の特徴は、ずっと人々の身近な所にあって心の支えとなり、大切にされてきたことです。中には、人々が病気退散や願い事をするたびに手で触られたり、子供たちの遊び相手となってきたりして、大きく摩耗している物もあります。
表情が何ともいえないですね。
私も、非常につらい思いをしていた頃、円空仏に救われたことがあります。
美濃や飛騨はくまなく歩いています。ウチの数軒先の小さな寺にも円空仏が残されていました(今は無住、他所で保管)。しかも、あの時代、蝦夷地にまで行っています。
各地を行脚した後、最期は、今回紹介した生誕地から十数km上流の長良川畔、弥勒寺に洞を掘り、食を絶って即身仏となったと言われています。
上人と呼ばれる由縁ですね。
そうなのです。円空様。上の国、伊達…
特に上の国
http://www.town.kaminokuni.lg.jp/hotnews/detail/00000384.html
是非ご覧ください~~!
立派な像ばかりですね。円空初期の作と言われています。全く驚きます。
どうして北海道まで行ったのでしょう。円空は、しばしば山で修行行っています。北海道行きが修行だったのでしょうか。
蝦夷地には義経伝説も多く、また室町時代には河野氏が館を作ったり…ウスケシ
http://www.asahi-net.or.jp/~DG8H-NSYM/hako-date.html
または、キリシタン関係とか。
キリシタンが割と早くに入ってきていました。
金を発掘する人々を相手に布教したり…
と思って調べると、ちょっと関係があるかもしれません。キリシタン。
後で、記事にしてみようと思います。
おやすみなさい~!
円空と同じく美濃出身で明治初期、全国を放浪して多くの絵を残した蓑虫山人も津軽に長く滞在しています。
北の果てまで旅をした二人は、追われる義経をおもうところが大きかったのでしょうね。
キリシタンとなるとさらに興味がわきます。
十一面観音像は、僕がお世話になるお寺のご本尊でもあります。
円空仏、味わい深いものであることを、今回改めて知りました!
僕の街のお寺には、かつてこの地で活躍された、柴山清風さんの仏様があります。
そのお顔も、今回の円空仏のように古典的微笑をたたえてマス。
沢山彫っているので、意外と身近に残っています。名古屋の荒子観音には非常にたくさんあります。
知多方面は比較的少ないですが、それでも数点はあります。たとえば、
常滑市奥条 宝樹院 聖観音像
東海市養父町 妙乘院 聖観音像
東海市加木屋町西郷門 普済寺 不動明王座像