これまで、中国明末の呉須赤絵をいくつか紹介してきました。
くすんだ器肌に奔放な絵付けが、日本人の詫び寂び感に合うので、大切にされてきました。一方で、呉須赤絵には疵や擦れが多く見られます。それらも、詫び寂び感を増すのに役立っているのかもしれません。
今回、呉須赤絵を眺めているうちに、はたしてこの疵や擦れは、使用に伴ってできたものかどうか、という疑問がわいてきました。
私は、呉須赤絵の擦れや剥がれが多いのは赤絵の宿命だとずっと思ってきました。それは、古九谷とよばれる色絵磁器についての私のイメージからきています。透明な上釉の上にぶ厚く色釉が塗られた古九谷では、色釉が年月が経つうちに剝脱する事が多くあります。呉須赤絵も同じだろうと勝手に思っていたのです。
呉須赤絵魚藻紋大皿:
確かに、呉須赤絵は小傷が多いです。
緑釉や黒線が薄くなっています。
緑釉、黒線の剥がれが目立ち、草花の赤線はぼやけている。
外周の黒縦紋がひどく剝脱しています。
黒線と緑釉が、スパっと切り取られたかのよう。
印判手天下一乾坤気象文字大皿:
印判文の赤線が所々、薄くなっています。
薄くなっていない部分を拡大して見ると、赤線は、透明釉の下にあることがわかります。私は、呉須赤絵の赤線も、古九谷と同じように、上釉の上に描かれているとばかり思っていました^^;) そうではなくて、呉須赤絵の赤絵は、釉下彩だったのです。表面に筋状の傷がいくつかあり、赤部分が白くなっています。しかし、他の赤絵部を見ると、このような傷はわずかです。
では、赤線がかなり薄くなっている部分はというと・・・
小さな白点がたくさん連なったように、赤が抜けています。また、上釉には、丸い穴がたくさんあいています。
赤部の色落ちが少ない所でも、上釉は相当濁っています。熔けきっていないようです。
赤色がかなり抜けた所には、小さな破片のような物がいっぱい散らばっています。
以上、赤色部の上には上釉が掛かっていて、表面の傷によって釉下の赤部が擦れることは考え難いです。また、赤色の抜け方も、外部からというよりは、釉下の赤部から始まっているように見えます。さらに、上釉は非常に薄くしかかかっておらず、なおかつ、焼成が十分ではなく完全には溶融していません。
一方、黒釉と青釉はセットで使われています。黒線で模様を描き、そこに青釉がさされています。呉須赤絵魚藻紋大皿の各部を見ていきます。
黒線もやはり釉下彩で、上釉の下に描かれています。その上釉の上に、青釉が置かれているのです。また、上釉と青釉は十分に熔けきっていません。
色釉の劣化は、多くの場合、黒釉と青釉はセットで起こっています。例えば、外周の模様部の縦黒線と青釉は、同時に抜けて白くなっています。このような事は、外部からの力によっては起こりえません。黒、赤釉の劣化も、やはり内部から起こっていると考えられます。
外周部の縦に白く抜けた部分を拡大してみます。
縦の黒線部が緑釉とともに、見事に消え、白くなっています。白くなった部分は非常に均一で滑らかです。おそらく、白化粧した面が現れているのでしょう。
青釉の所々に、小さな黒点が多数散らばっています。焼成時に無数の小さな爆発が黒釉に起こって、上釉、青釉ともに吹き飛ばされたのでしょう。
呉須赤絵では、模様の端がスパッと切れています。
これも不思議です。黒線を描く時、こんなに鋭く筆を止めることができるでしょうか。
上の写真の右上部、三本の黒線のうち、左2本の拡大写真です(少し右に傾いています)。
スパッと切れているように見える部分は、渚の砂浜の様に徐々に薄れているのがわかります。また、隣の縦黒線までアーチ形の細い黒線が続いています。
上の写真の右下部分、鍵状の黒線部の拡大写真です。
左下の湾状部は、やはり削りとられたように見えます。
これらから、黒線部の端は鋭いのではなく、元々の黒部はもっと広かったのですが、無数の小爆発によって青釉に覆われていない部分の黒釉が失われでできたものと考えられます。つまり、薄くて十分に熔けていない上釉の下の黒部は、青釉に覆われていないと、焼成時、爆発(おそらく外部との反応)によって消えていきます。そしてその小爆発は、青釉の所まで続くのです。上釉の上に置かれた青釉によって、焼成時の爆発が防がれるので、黒の消失が青釉部に達すると、そこで黒釉の消失は止まると考えられます。その結果、青釉の置かれた境界から黒部が残り、青釉の所でスパッと切り取られたような形になります。
青釉が薄く、かつ、融解が不十分で孔が多くあいている場合には、青釉が掛かっていても、黒釉の爆発が焼成時に起こって、黒釉と青釉が同時に剥がれ、白い下地がのぞくのです。
したがって、青釉がかかっていない所では、引かれた黒線は消えてしまうことになります。そういう観点から、呉須赤絵の黒線を観察すると、黒線の切れ方がすべて納得できます。
ただし、ごくまれに、青釉に覆われていない場所に黒線が無傷のまま残っている所があります。
この写真の左側には青釉は掛かっていません。上釉だけです。ただ、この部分の上釉は、他の写真の上釉よりも均一度が高く、うまく黒線部を覆っています。そのため、青釉が掛かっていなくても、爆発によって失われることなく、黒線が残ったと思われます。
以上をふまえ、呉須赤絵大皿の作成手順を推定してみます。
1.素地に白釉を二度掛けして、焼成する。
2.赤釉で草花を描き、黒釉で模様を描く。
3.上釉を全体に薄くかける。
4.黒線で描いた模様の上を、青釉でふせる。
5.低火度で焼成する。
まだまだ疑問は続きます。それは、どうして呉須赤絵の黒線はこれほど熱に弱いのかという事です。呉須赤絵の黒釉成分はわかりません。可能性が大きいのは鉄です。しかし、鉄は相当濃くないと黒色にはなりません。また、熱でこれほどまでに劣化することもあり得ません。考えられるのは、鉄に有機物を加えて発色させた場合です。たとえば、タンニンを加えれば、漆黒の鉄になります。お歯黒がそうです。タンニン鉄なら、高温で空気中の酸素などと反応して分解するはずです。黒部が上釉、さらに青釉に覆われていると、高温の空気に直接触れないので、爆発的分解を免れます。
以上は、あくまでも推定です。赤部の消失については、まだ原因を考え付きません。
今回の観察で言えるのは、呉須赤絵大皿の色落ちは、経年の変化による色釉の脱離や使用に伴う擦れではなく、焼成時に起こったものがほとんどだという事です。
ただ、多くの呉須赤絵大皿を調べたわけでもありませんし、大皿以外の品物は手つかずです。
機会があれば、また、観察、検討を加えたいと思います。
頭が下がります(素晴らしい!!!)
普通の骨董好きにとっては、「古色」として見過ごす部分な訳ですが
焼成時から「くらわんか」のような粗放な魅力を持っていたと思うと
そこに魅力を見出した当時の茶人の美意識は凄いのかもしれません。
さすが、遅生さんです。
これは、陶磁器に対する広く深い知識を有し、かつ、冷静な科学的な目を持っていないと出来ないことですね!
呉須赤絵大皿の疵や擦れが、実は後世の疵や擦れではなく、当初から、既に焼成時に出来ていたものだったとは、、、。
素晴らしい考察ですね!
ただ、私は、焼物を作っていないので、「釉下彩」という定義が分からないのです(~_~;)
これまで、私は、「釉下彩」というものは、上に書かれた遅生さんの作成手順によりますと、「1.素地に白釉を二度掛けして、焼成する。」という本焼きの段階でのことと理解していたからです。
私のこれまでの乏しい知識からしますと、「2~5」までの段階でのことは、上釉どおし間に生じる現象で、「釉下彩」とは言わないのではないかと思ってしまったわけです(~_~;)
もっとも、これは、単なる用語の問題にすぎず、鋭い新考察の前では、取るに足らないことではありますが、、、(><)
今使っている顕微装置は2代目です。10年位の違いですが、性能が格段に上がっていますね。染付で交わった線の上下などもわかる場合があります。染付の品で、筆と印判の違いなど、拡大すればよくわかります。
5000円以下の品でこれだけできるのですから、コスパ大です。
もっとも、すべての呉須赤絵が、これと同じかどうかはわかりません。もう少し、サンプルを多くしないと強くは言えません(^^;
染付磁器であれば、釉下などいわずもがなで、問題になりません。釉下彩なる言葉が頻繁に使われ出したのは、やはり、宮川香山など明治陶工が、染付以外の色釉にも、上釉を掛けて焼成する技法を開発してからだと思います。それまで、色釉は釉上に決まっていた訳ですから、画期的で、それを強調する意味で「釉下彩」という言葉を使ったのでしょう。
ところが、今回、それよりはるか以前の釉下色絵に思いがけず出会いました。色釉の脱離が多く、技術的には成功しているとは言えませんが、釉下にある色絵に敬意を表し、あえて「釉下彩」を使ってみました(^.^)
それにしても、明治よりもはるか前に、そのような技法が既に開発されていたわけですね。
それを発見した遅生さんも凄いです!
釉下彩では染付と上絵の組合せの場合にくらべ、同一平面上でより繊細な絵付けができます。特に、失透気味の上釉をかけた時、深い味わいの品になるのだと思います。板谷波山の作品にそのことを強く感じました。