東大寺大仏殿の勧進帳の表紙です。
木版。 12.6x 29.9㎝
表表紙と裏表紙。
紺色の地に、銀泥で蓮が描かれています。
表紙の内側です。
表表紙の内側には、廬舎那仏とそのサイズが書かれています。
裏表紙の内側には、平安時代に焼失した大仏殿を再建した、俊乘房重源像が描かれています。
東大寺の本尊、廬舎那仏を安置する東大寺大仏殿は、天平宝字2年(758)に完成しました。しかし、その後、二度、いずれも戦火で消失しています。
最初は、治承・寿永の乱のとき、平重衡など平家の南都焼き討ちによって消失し、建久元年(1190年)に再建されました。この時、大仏殿再建を担ったのが、俊乗房重源です。治承4年(1181)、重源は、大仏修理のための勧進を開始し、建久元念(1190)、大仏殿の再建が完了しました。この時、勧進帳をつくり、各地をまわり基金を募ったと言われています。能『安宅』や歌舞伎『勧進帳』のなかで、安宅の関を突破するため弁慶が読み上げたのは、この時の勧進帳です。もちろん、この物語はフィクションですし、当時の勧進帳が残っているわけでもありません。
一勇斎国芳『勧進帳』
重源上人によって再建された大仏殿は、戦国時代、永禄10年(1567)の松永久秀と三好三人衆との戦いで、再び消失しました。松永軍が、大仏殿に陣を張っていた三好軍に夜討をかけ、その戦いの中で大仏殿は灰燼に帰したのです。大仏本体も原型をとどめないほど熔け崩れました。が、まもなく、元亀3年(1572年)、山辺郡山田城々主、山田道安によって修復されました。一方、大仏殿の方も、同じ頃から再建の動きがありましたが、巨額の費用が必要なため、仮屋のままでした。それも、慶長15年(1561)、大風で倒壊し、その後大仏は、長年、野ざらしになっていたのです。
落合芳幾「太平記英勇伝 十四 松永弾正久秀」
NHK大河ドラマ『麒麟が来る』でおなじみの松永久秀ですが、これまで大悪人とされてきました。裏切りや暗殺を繰り返したというのですが、そんなのは戦国時代では普通のことでした。ですから、大仏殿放火が松永悪人説の大きな理由でしょう。ですが、大仏殿に火をはなったのは三好三人衆の方だという説もあり、真相ははっきりしません。
『特別展 東大寺公慶上人』図録、奈良国立博物館、平成17年
100年ほど風雨にさらされ続けていた大仏に心を痛め、大仏殿再建に立ち上がったのが東大寺の学僧、公慶です。何度も上京し、貞享元年(1684)、幕府から大仏修復の許可を得て、江戸、奈良、大阪をはじめ各地で、広く大仏修復、大仏殿再建の基金を募りました。元禄4年(1691)、大仏の修復が完了し、宝永2年(1705)年、大仏殿の上棟式が行われ、4年後の宝永6年(1709)、ついに大仏殿が完成しました。しかし、公慶はその完成をみることなく、宝永2年(1705)、江戸で客死し、大仏復興の先人、重源と同じ場所に埋葬されました。公慶は、13歳の時に大仏再建をちかってから、57歳で亡くなるまで、すべてを大仏殿再建に尽くしたのです。
現在の大仏殿は、公慶によって建てられたものなのです。
今回の品は、この時の勧進帳(表紙)です。
上の図録には、勧進帳が載っています。
寄進した人々の名前もあります。しかし、よく見ると、私の勧進帳(表紙)とは、内側の最初の廬舎那仏の部分が異なっています。
さらにページをめくると、もう一つ勧進帳が・・・
表紙(内側)の部分は、私の品と全く同じです。
上の勧進帳は、貞享2年の『大仏修復勧進帳』、下の物は、元禄5年の『大仏殿再建勧進帳』です。
私の品は、『大仏殿再建勧進帳』だったのです。この勧進帳は、以前の『大仏修復勧進帳』の表紙を再利用し、あらたな題簽を貼り替えて作られた物なのです。奉賀者の名を記した部分は、大仏胎内に納められました。
もう一度、今回の品をながめてみました。
確かに、表紙はボロボロに擦り切れていますが、題簽は新しい。
右上のほつれた部分をみると、内側と貼り合わせられていることがわかります。
内側も同様、こちらには、少し厚い芯紙が入っています。
この勧進帳は、長年の勧進活動の疲れから病に臥した公慶が、病の床から大仏殿再建の活動を本格的に始めた証しでもあるのです。
今回の品は、大仏修復と大仏殿再建という二度の大勧進に使われた物です。
ボロボロの表紙をあらためて手にとってみると、大仏修復・再建にかける公慶の熱意と多くの人々の願いが伝わってくるような気がします。
二度にわたって使われた勧進帳なんですか。
重みが増しますね。
何冊もあるんでしょうけれど、二度も使われているというのも珍しいし、勧進帳であるがゆえに、有り難味も増しますね。
たまに、市場に出ますが、奉賀名の部分はすべて納められているので、東大寺にしか無いのでしょうね。
ボロボロにも意味があって、うれしいです(^.^)
それに題簽の読み方もわからず、手書き辞書で調べました。
よく目にするものですが、それに名前があることも知りませんでした。
「だいせん」をしっかり覚えました。
東大寺、中興の祖なのですね。大佛殿の横に公慶堂があって、公慶上人木像が安置されています。年一回、公開されるそうですので、いつか行きたいと思います。
題簽、私も知りませんでした。何となく読んではいましたが。というのも、古書では、なくなっている事が多いです。その分、お値打ちとも言えるので関心があります(^^;)