遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

祝!gooブログ5周年!『関ケ原合戦絵巻』(2)杭瀬川の戦い

2024年07月10日 | 故玩館日記

『関ケ原合戦絵巻』では、ほぼ時系列で、出来事が描かれています。先回の木曽路の秀忠軍と真田一族に続いては、杭瀬川の戦いです。

東軍先行隊が、美濃で順調に進撃しているのを期とみて、徳川家康は、9月1日に江戸を発ちました。そして、9月14日昼頃、美濃赤坂(現、大垣市)の岡山に着陣しました。

岡山は、石田三成が布陣していた大垣城の西北3㎞に位置しています。その間を流れるのが杭瀬川です。この川は、大垣市の西部を流れ、濃尾平野に多い中河川の一つです。

この川を舞台にした両軍の小競合い、それが後に、杭瀬川の戦いと呼ばれるようになったいくさです。

関ケ原合戦のわずか半日前、しかも西軍が唯一勝利した戦いなのです。

家康到着の報に、大垣城の三成軍は動揺し、逃亡する者さえ現れました。そこで、知将、島左近は、奇襲攻撃をかけることを提案し、500の兵を率いて大垣城を出ました。その一部は杭瀬川を渡り、東軍、中村一栄隊の前で稲刈りをしました。この挑発にのった中村の兵が襲ってきた時、左近たちは敗走する風をよそおって退却しました。杭瀬川を渡って追いかけてきた中村隊に、茂みに隠れていた左近の別動隊が襲い掛かり、中村隊のみならず、救援に駆け付けた有馬玄蕃頭豊氏隊も、散々に打ち負かされました。

『関ケ原合戦絵巻』では、この戦いが下図のように描かれています。


左が西、右方が東です。大垣城は(右後方)は描かれていません。

中央の水の流れが、杭瀬川(くいせがわ)です。

左上(西北西)に小高い山(岡山)があり、家康の陣が敷かれています。

濃州岡山御本陣:

指示を出しているのは本田忠勝、家康はいないようです(床几のみ)。

有馬玄蕃頭豊氏陣屋:

中村一角一忠陣屋:

中央では、武者たちが戦っています。

左側が東軍、右側が西軍ですね。

有馬豊氏臣稲次右近、右近馬取彌五右衛門:

石田治部少輔臣横山監物:

手痛い敗北をきっした東軍でしたが、その中で、中村勢の助けに入った有馬豊氏勢の一人、稲次右近が、石田三成の臣下、横山監物を討ち取りました。家康は一番首としてたいそう喜び、稲次右近に6000石の加増をしたほどです。

杭瀬川の戦いは、『関ケ原合戦絵巻』では、敗戦の中で一矢報いた場面が描かれていたのです。この絵巻は、やはり、徳川のサイドに立って描かれていますね。

なお、家康の一代を記録した『落穂集』には、この件が、次のように記述されています。

  『落穂集』
・・・・中村が一手既に敗亡可致かと相見へ候処へ、陣所並びなる有馬玄蕃手の者共数十人馳出候、中にも稲次右近鳥毛の半月の指物にて真先に進て川を乗渡し向ふの堤へ馳上り候処へ、金の制札の頭立物を致し横山監物と名乗て稲次にかけ合せ互に馬上にて戦しが、双方馬よりをり立て組打と成る、横山ハ稲次を組伏て上へ乗懸り候処へ右近の若党かけ着て、横山が具足の締噛を取て引返し候へハ右近下よりハね返し乗掛て首をかゝんと致しける所を横山が家人かけ寄て右近の甲のしころを取候処へ、又右近が若党かけ付一刀切付候へハ、しころを放し刀を抜合、切合候内に右近ハ横山が首 を取て立上り、件の監物が若党をも切殺し其首をハ馬の塩手(四緒手)に結付、横山が首をハ馬上に引下ケ自身御旗本へ持参仕候と也

 

中村一氏臣甘利備前と浮田秀家臣飯尾太郎左衛門:

場面の中央では、二人の武者が、馬上で組み合っています。中村一氏臣甘利備前と浮田秀家臣飯尾太郎左衛門です。

飯尾太郎左衛門が甘利備前を討ち取ったのでしょうか。浮田秀家は、この日、飯尾太郎左衛門に感状を与えています。しかし、杭瀬川の戦いに関してかどうかは不明です。なによりも、中村一氏の下臣といわれる甘利備前なる人物が不祥です。歴史上、甘利備前守康という人物がいますが、武田の家臣で、天分17年に亡くなっているので、この絵の人物ではありません。このように、『関ケ原合戦絵巻』には、よくわからない場面がいくつかあります(^^;

 

せっかくですから、現地の写真をとってきました。

家康が着陣した岡山は、故玩館のある美江寺宿から一つ西(6㎞程)の赤坂宿にあります。以前のブログで紹介した曽根城址から数㎞先です。

岡山へ行くには、必ず揖斐川(当時は、呂久川)を渡らねばなりません。東軍の主力部隊はこの辺(中山道)を渡ったようです。家康は数㎞上流を渡った(東山道)といわれています。用心深い家康は、少しでも西軍から離れたルートを選んだのでしょうか。

岡山は、写真の真正面に位置しますが、低い山なので見えません。その奥が、関ケ原です。

近くまで来ました。東から見た岡山です。低い山(標高52m)です。

さらに奥(西方)は関ケ原、右の山は伊吹山へつらなります。

江戸時代以後は、家康を勝利に導いた所として、勝山と呼ばれています。現在は、全山、墓地や葬儀施設等が立ち並んでいます。

ここから、3㎞ほど南東に大垣城があります。

大垣城から岡山方面は、建物が多くて写真がとれません。当時は、相手方の様子をうかがうことができたのでしょう。

大垣城を出た島左近たちは、すぐ西を流れる杭瀬川を舞台に、東軍を翻弄したわけです。

それがどの辺であったのか、実際のところはわかりません。杭瀬川の流路が変わってしまっているからです。

戦いの場所を推定して、立札が立っていました。

一面夏草におおわれて、川面が見えません。

すぐ前を東海道線が通っています。

東海道線のガード下をくぐると、

杭瀬川があらわれます。

かなりの水量です。堤防などなかった当時はさらに流れが急で、鎧兜を着けた武者が渡るのは容易でなかったでしょう。

木や草が生い茂る原野の流れの中で、東軍を翻弄した島左近の知恵には感心します。

彼はその後すぐ、家康本陣に夜襲をかけることを提案するのですが、三成に却下されてしまいます。そして、その夜、西軍は西の関ケ原へ向かい、戦いの朝を迎えます。合戦はわずか半日で勝負がつき、西軍は大敗北に終わってしまうのです。

家康は当初、大垣城を水攻めする計画をもっていたようです。この場合も、鍵をにぎるのは杭瀬川。もしそうなっていたら、すぐ西の垂井、南宮山などに陣を張っていた毛利や小早川勢もまじえて、大決戦が長期間にわたって展開されたことでしょう。ひょっとしたら、大阪城から秀頼出陣があったかもしれません。そうなったら、ほぼ西軍の勝利・・・などという妄想が、当地では生きています(^.^)

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祝!gooブログ5周年!『関ケ原合戦絵巻』(1)木曽路の秀忠軍と真田一族

2024年07月08日 | 故玩館日記

1月に、ブログ改設5周年の記念ブログを書きました。gooブログへは、Yahooブログから半年後に移りました。ですから、今日が、gooブログでの5周年になります。

例によって、いつものガラクタよりワンランク上の品を、と探し回り、今回の絵巻物になりました。

『関ケ原合戦絵巻』20.5㎝x7.65m。江戸中期ー後期。肉筆彩色。

関ケ原合戦絵巻は、オリジナルの絵巻を写していったようで、各地の博物館や資料館に収蔵されています。絵巻にはいくつかのパターンがあり、今回の絵巻は2巻仕立て絵巻の第2巻目です。1巻目は残念ながらもってません。

関ケ原合戦の前哨戦から本戦まで、ほぼ時系列になって、右から左へと物語が展開していきます。

木曽路の徳川秀忠軍:

真田幸村と沼田城:

沼田城内:

杭瀬川の戦い:

西軍の配置:

東軍の配置:

島津ののき口(?):

大谷刑部の最後:

敗走する西軍:

大変長い巻物なので、数回にわたってブログで紹介します。

今回は、木曽路の攻防(写真の上から3枚分)です。

木曽路の徳川秀忠軍:

徳川家康は、石田三成率いる西軍との戦いに対して、まず、信州の真田を攻略すべく、秀忠を大将にすえ、徳川の主力、3万4千の大軍をおくりました。

木曽路をすすむ秀忠隊の旗印です。榊原康政、大久保忠隣、牧野康成、本多正信、真田信幸(信之)。これより以前、家康の上杉討伐に参加するため下野国に陣を張っていた真田昌幸は、石田三成挙兵の報に接します。そこで、子の信繁(後、幸村)、信幸(後、信之)と密議を開き、戦の行方がどのようであっても真田が生き残れるよう、信幸は東軍、昌幸と信繁は西軍につくと決めました。その結果、秀忠隊に信幸も加わり、昌幸・信繁と戦うことになったのです。

慶長5年(1600)9月2日、真田昌幸の居城、信州上田城を秀忠軍が取り囲みます。

台徳公(秀忠)の使番(敵軍への使者)が上田城に向かい、降伏を迫ります。

ところが、昌幸は返事を先延ばしにし、降伏に際してさまざまな要求を行い、時間稼ぎをしました。そして、秀忠を挑発し、巧妙な作戦で翻弄し続けたため、秀忠軍は信州で足止めをくらい、関ケ原合戦に間に合わないという大失態を演じることになったのです。

真田幸村と沼田城:

話しは、前後します。

家康の上杉討伐に参加していた真田昌幸は、西軍につくことを決め、急遽、居城、信州上田城へ戻っていきます(下図)。

その際、昌幸は、東軍についた信幸の居城、沼田城(群馬県沼田市)に立ち寄ろうとしました。

戦いの前に、かわいい孫の顔を一目見ておきたいと思ったからです。

城の外で夜通し陣をはる兵士達。信幸の留守を守る兵士たちでしょうか。

秀忠軍の兵という説もあります。

沼田城内:     

女たちがにぎやかに過ごしています。

向こうの部屋では、女中たちが食べ物を前に談笑中。

座敷では、女たちが幼子をあやしています。

左端の女性は、思いつめた様子です。

東軍についた沼田城主、真田信幸の妻、稲(小松殿)でしょう。信幸は、徳川家康の重臣、本多正信の娘、小松姫をめとっていたのです。今は、敵と味方にわかれて戦う真田一族。夫、信幸にかわって城をまもる稲は、西軍に与する舅、真田昌幸の申し出をきっぱりと断ります。大手門にあらわれた稲は、鎧に身を包み薙刀を手にし、「父上であっても敵である、城に入れることはできない」と言い放ったそうです。孫に会うことが出来なかった昌幸は、むなしくそのまま上田城へ引き上げたのでした。

この場面は、先の大河ドラマ『どうする家康』でも出てきました。人気のエピソードなのですね。

一説では、その後、秘かに、沼田城近くの正覚寺へ昌幸らを案内し、孫に合わせた、ともいわれています。真偽は不明です。

 

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古活花を探る(6)古代模様青銅花器

2024年07月06日 | 花道具

祖父の活花写真帖を繰っていると、なぜか気になる一枚がありました。

枯れ木の台の上に銅花瓶。花は木蓮の枝と菊?

はて、この花瓶!どこかで見たような!?

ありました、ありました。粗大ゴミ予備軍置き場の片隅(^^;

胴径(最大) 18.9㎝、口径 10.2㎝、高台径 10.1㎝、高 18.4㎝。

胴に、中国古代模様が刻まれています。

内部の底を見ると、この花瓶は一体型ではなく、底板は後から付けられたものであることがわかります。どうしてわざわざ後付けするのかわかりません。同様の底板後付けは、古銅筒型花瓶古銅唐人三脚丸型水盤でもみられました。この時代の技法なのでしょうか。

口元の内側には、なぜか三本の圏線(装飾?)。

驚くのは、胴の内側に陶磁器の胴継ぎでみられるような凸線がグルっと廻っていることです。

これは一体何??

古代模様は、上下、二本の凸線に挟まれています。

胴内部の凸線は、古代模様下側の凸線に対応しています。

この花瓶は、上下、二つのパーツを継いで作られているのですね。

どうしてこんな面倒な作りをしたのか、これまたわかりません(^^;

いずれにしても、祖父の写真のおかげで、粗大ゴミになる運命の品物を、一つ、拾いあげることができました(^.^)

 

 

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古活花を探る(5)バランスの妙

2024年07月04日 | 花道具

祖父の活花写真集から、これまでのブログで紹介した花器が使われている作品をピックアップしてみました。

この花器は、以前に紹介した蛸壷花器ですね。

写真帖の活花の中で、一番多く使われていたのは、古銅唐人三脚丸型水盤です。

祖父のお気に入りだったのでしょう。いろいろな木枝、花を活けています。

次の写真は、左側が唐人丸型三脚水盤です。

右側の三日月型釣花入の活花は、オオッとおもわせますね。あちこち探してみましたが、まだ見つかってません(^^;

こうやって並べてみると、活花のパターンが同じであることがわかります。中央に、クニっと大きく曲がった太い枝をドンと置き、その右横に嫋やかな花枝を配しています。これなら、私にでもできる!? しかし、まず、良い曲がり具合の太枝を見つけるのが大変(^^;

さて、今回の活花写真の目玉はこれ。

以前に紹介した編笠細花活けです。

一本の竹の途中から編み込んで花器に仕立てた逸品です。

しかし、長さ76㎝、底径5㎝の細長い竹の花器を直立させるだけでもヒヤヒヤものですが、それに花を活ける!果たしてうまくいくのだろうか。足元を固定する物が必要なのではないか等々、次々と疑問が湧いてきて、半信半疑のまま以前のブログを閉じたのでありました(^^;

その疑問に対する明確な回答が、この写真なのです(^.^)

口元に菊?を入れ、そこから長い枝木(椿?)を下方へ伸ばしています。

こんな不安定な形が可能か?

でも、トリック写真ではなく、現実の活花です。

考えてみれば、他の写真の活花も、これほどではないにしても、少々危なっかしい造形でした。

祖父の活花を一口で言うならば、「バランスの妙」(^.^)

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古活花を探る(4)祖父の活花作品集

2024年07月02日 | 花道具

先回の生花諸流聯合大会の写真帖につづいて、もう一冊、写真集が出てきました。

先回の写真帖よりも少し古いです。大正時代でしょうか。

祖父は、活花が完成した時、写真に撮っていったようです。当時、自前で写真を撮る事などありえませんから、その都度、写真屋さんに来てもらったのでしょうか(^^;

記録として残しておこうとした祖父の意をくんで、ブログにのせます。なにがしかの資料的意味はあると思います。

先に紹介した写真(バラ)と数点だぶっていますが、そのままのせます。

 

 

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