五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

安土城跡と考古学博物館・近江の旅8

2014年08月13日 | 第2章 五感と体感
近江の旅一日目は彦根。
二日目は竹生島ー菅浦ー針江ー琵琶湖大橋ー近江八幡、琵琶湖ほぼ一周。
そして、三日目。
長命寺の八百八段の階段を下から上り切り、汗だくで本堂に辿り着き、琵琶湖を一望しながら健康に長寿を祈願し、そこから近江八幡の街に出ました。其あたりの事は昨日のブログの通りです。

近江牛とぜんざいで満腹になったところで、安土城址に。

近江八幡は、いくつかの低い山が平地にぽっこりと重なるようにあるため、隣の集落が見えにくい地形となっています。そこに八幡堀が琵琶湖に繋がっているので、多くの人は舟で通行していたに違いありません。
安土城は近江八幡の街の東に位置しています。
八幡堀は、秀吉が造っていますし、安土山の南には干拓地が広がっているので、信長が生きていた頃とは違う風景を私達は目にしています。

歴史の襞を重ねたものを私達は見ているわけで、何とはなしに平家物語の書き出しが頭に浮かんできます。

新幹線で東京から京都に向う時は必ず右側の席を確保し、息吹山が見える辺りから窓に被り付き、米原、関ヶ原、そして、お天気の良いと気に見える竹生島確認し、彦根城、佐和山城跡、五個荘(小山の裾に点々と並ぶ屋並みは大好きな風景)、そして安土桃山城址、野洲川を渡るのを意識し、瀬田の唐橋を過ぎると直ぐに逢坂山トンネルに入り、山科をちらりと眺め、また直ぐに東山トンネルに入り、トンネルを抜けたら直ぐに京都駅到着となるまで、しっかりと確認します。自分でも子供みたいだと思うのですが、たぶん、おばあちゃんになっても新幹線の確認事項は止められないと思います(笑;)

ともかく、新幹線で見ていた風景の中を歩くことにようやく夢叶い、安土城跡に行きました。

しかし、
信長の館のスケールの大きさと絢爛豪華さは南蛮船でエウロパまで伝わるほどだったことをすっかり忘れており、城址の階段を見るなり、同行者含め私自身も「こりゃ無理だわ。。。」と、即座の決断。満腹なだけではなく長命寺の八百八段ですっかり疲労困憊しており、階段の写真を撮らせていただき、ついでにご朱印を頂き、次回の楽しみとして取っておく事となりました。
車で3分ほど走ると広大な敷地に信長の館と安土城考古学博物館があり、そこに行くことにしました。

結局、3時ごろから考古学博物館に入館し、出会う旅人と歴史談議で湧き、最後は学芸員と長い立ち話となり、閉館時間まで満喫することとなりました。
近江八幡から自転車を走らせてきた旅人は、これから安土城址に行くと仰り、「行くなら今から行かないと、山に登り一時間以上はかかりますよ。」と伝えると、「こりゃ急がなくちゃ~♪」と、身軽な足取りで自転車に乗って行かれました。でも、それから一時間後には土砂降りとなり、ずぶ濡れで安土山を降りたこと間違いなしです。

安土考古学博物館は、縄文からの出土品も多く展示されており、琵琶湖の歴史の深さをよく知ることができます。歴史好きの方でしたら一押しです。この日は、研究室、保管室も解放していました。鼻に付く物凄い匂いは、何らかの微生物によるものらしく、アルコール臭と重なり、鼻が曲がりそうでしたが、これもまた良い経験となりました。
学芸員の方曰く、「いやいや。今日なんか、そうでもありませんよ。二三日前はもっと凄かっし。。。」と涼しい御顔。

出土物に寄生している微生物が空気に触れ活性する臭いは、家に帰り、どんなに洗っても取れないこともあるそうです。

そんなリアルな会話を繰り広げ、夏休みならではのお得なコミュニケーションを楽しみました。

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ぜんざい食んで考えた・近江の旅7

2014年08月12日 | 第2章 五感と体感
近江の旅三日目。

近江八幡の境内には和菓子店たねやが両脇に控えています。左が洋菓子の日牟禮ビレッジ。右が和菓子のたねや。まるで助さん角さんのようです。
近隣からいらっしゃる人も多く、人気の日牟禮ロールを買うために長蛇の列です。

横浜のデパートにもたねは勿論のこと、洋菓子のクラブハリエもあり、日牟禮ロールは横目で眺めておりました。
近江八幡を訪れたお陰で、あの「たねや」の洋菓子版が「クラブハリエ」で、しかも日牟禮ロールは、日牟禮神社の名から取っていることが解り、その上、ハリエは針江だということも解り、近江八幡の和菓子屋たねやさんの勉強をさせていただきました。
日牟禮神社参拝後、30ほど待ち、たねやのぜんざいを頂きました。
日牟禮神社にたねやが入って10年だそうですが、他のお店が閑古鳥で、何だか可哀想にも思いましたが、何故これだけの勢力があるかは、ぜんざいを頂きながらの勝手な想像を皆で雑談。。。
少しは近江商人の商いの心得を学ばなければ、と、ぜんざい談議は尽きませんでした(笑)

近江牛のランチは、西川で頂きました。たぶん、お布団の西川の系列なのでしょうね。。。

近江絹糸に近江兄弟社、、、近江の有名な会社が思い浮かび、それに纏わる友人知人の御顔も思い浮かび、働き者の御祖先の偉大さも伝わり、近江の町を散策しました。

近江商人の「三方良し」。「売り手良し。買い手良し。世間良し。」の精神は、近江の位置する地形を考えると納得がゆきます。八方の情報&行動拠点とも云えるこの地の存在の大きさは、今も昔も変わらないように思うのです。

お腹も満腹となり、次に目指したのは安土桃山城址。
この続きは明日に^^。

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針江の生水(しょうすい)近江の旅6

2014年08月11日 | 第2章 五感と体感
湖北菅浦から長浜に戻らず、湖西を巡りドライブし、針江に寄り、琵琶湖大橋を目指しました。
車の旅ではないと達成することのできない琵琶湖一周。琵琶湖大橋から南は、数年前から少しずつ歩いてきたので、これで一周を果たすことができました。

菅浦で多くの時間を取ってしまったので、宿のある近江八幡には強行かなと思いましたが、目標は達成したいと思い、琵琶湖の湖西を南下。若狭湾に通ずる国道303号線を確認し、平良山地を南西の方向に眺めながらひたすら南下しました。

一見のどかな田園風景は、長きに渡り、京都の食を満たしてきた場所でもあり、都との関係性がとても深いのです。水と共生してきた暮らしぶりが未だに見ることのでき針江も以前から訪ねてみたい所でもありました。
カーナビの案内もおぼつかず、田んぼに囲まれた路を走り集落に辿りつくと、隣の集落だと教えられ、やっとのこと辿り着きました。地図を見ると湖西線の「新旭」が最寄りのようです。返って電車に乗った方が解り易かったようです。
針江生水の里とは書かれてあるのですが、人気の無い集落の中心地あたりに日吉神社があり、そこで草むしりをしている女性が数人。「針江の水の郷はここですか?」と聞くと、「ここですよ。」と答えられ、確かに湧水の水路が道路に添って縦横に張り巡らされています。
家の中に水路があり、その水場を生活に使う光景を何度かテレビで目にしていたので、そういった観光客用に建っている建物があるのかと思いきや、何もありません。
生活する人々が生活のための水路があるのみで、歩いていくうちに、湧水を溜める槽にすいかが冷やされていたり、出会った御婦人に「今は家の中の水路の槽は塞いでしまっているけれど、生活用水は全部湧水ですよ」と説明を受け、何となく確認させていただきました。
湧水の水路には階段があり、そこを降りていくと水場のような設計となっており、私が幼い頃住んでいた福井大野の水場を懐かしく思い出しました。たった二年しか大野に住んだだけですが、この水場の風景は私の大切な原型の一つだと云う事を思い起こさせられました。
たぶん、大野の水場に行かないと、私自身満たされない何かがあるようです。

そうはいっても、水の郷針江の水は、未だに暮らしと共にありました。もう少しリサーチして再度訪問したいと思いました。

水場を求めて屋並みの抜け道を歩いていると蘆の笛をこしらえている壮年の男性がおりました。小さな小屋が工房となっていて、明日の蘆笛教室に使う笛を沢山拵えているとのこと。リコーダーのような縦笛なので唇を当て息を吹き込むと自然に音が出てきます。夕暮れの長閑な出会いの中、若い住民が居ないことを嘆いていらっしゃいました。
華やかな都の台所を担っていた琵琶湖畔の農村は、長い歴史の層を重ねて強く誇り高く成っていることをひしひしと感じます。

日吉神社にお参りし、針江の集落を後にしました。

夕暮れを堅田に向かって走ると、このあたりからは大きな店舗が並び、一気に賑やかになります。琵琶湖大橋からこの日走った琵琶湖の風景を眺め、琵琶湖巡りの目標達成に納得し安堵致しました。

琵琶湖一周はおよそ200キロだそうです。大津まで回らなかったものの、菅浦の半島を廻ったお陰で200キロ近く走りました。

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湖北菅浦・近江の旅5

2014年08月10日 | 第2章 五感と体感
昨日の続きです。

菅浦は琵琶湖の真北に位置し、南に伸びた半島の突端から西側の少しばかり東西に湾を持つ場所にあります。半島の東側は湖から切り立った山がそびえており、今は奥琵琶湖パークウェーと称する路はあるもののここ数年の天候で道路脇の山肌が崩れ、一方通行となっています。ですから賤ヶ岳側から入ることができず、トンネルを越えた大浦から入ることとなります。相互通行できているのは大浦から奥琵琶湖パークウェーの見晴らし台あたりまでとなります。

西側の大浦から半島を歩いたほうが緩やかですが、狭い道しかなかった頃は、湖畔を辿り、山道を歩き、菅浦に辿りつきますが、東側からですとかなり厳しい山道であったのではないでしょうか。
どちらにしても菅浦集落の東西二か所の入り口には、「四足門」があります。

この門は、四本の柱に茅が葺かれており、一見、どこでも目にする小さな山門なのですが、招かれざる侵入者と見なした場合、この四足の柱を支え、抑えている大きな石を取り除くと、集落の外側にバタンと倒れる仕組みになっているのです。
大きな石で支えられている四本の柱に加え、山門の屋根は集落の外側には大きく葺かれており、左右非対称の重さとなっているので、石を取り除くと自然と外側に倒れるようになっています。

集落を歩いているうちに、番号のついた「第12作業場」と書かれた小さな小屋があることに気付きました。
資料館のYさんが、昔から集落で作ったものを船で運び、商売をしていたと説明してくださったように、今もその作業場で仕事をしている方もいらっしゃるようで、機械音が鳴り響く作業所もありました。
昔は、竹細工が主だったようですが、作るものは時代と共に変化していったことを窺い知ることもできました。

人類の移動について、「一つのコミュニティは100人が限度であり、それを超えると、内乱が起きやすくなる。内乱が起きれば意を反する者はそのコミュニティを出ざる得なくなる。」と習った事を思い出し、昨日のブログにも書いたとおり、ある程度の家屋数を維持し、それを超えない共同体を守り通してきた事は、「惣」という掟と同時に大切な事であったことがよく理解できました。

竹生島を間近に望み、信仰し、その上、頑なに守り通した淳仁天皇に対する忠義も菅浦の文化を深くしていったのでありましょう。

「高島のあどの港を漕ぎ過ぎて塩津菅浦今かこぐらむ」万葉集9-1734

長浜から竹生島に向かうと右手に菅浦の半島が見えてきます。集落は見えませんが、この歌の雰囲気は味わう事ができます。

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湖北のかくれ里菅浦・近江の旅4

2014年08月09日 | 第2章 五感と体感
琵琶湖の北、福井と敦賀に抜ける分岐点でもあり、いにしえの合戦に度々登場する木本を敦賀側に行くと賤ヶ岳があります。ここも有名な賤ヶ岳の合戦場であり、先日の大河ドラマ「黒田官兵衛」にも登場しました。嬉しいことに賤ヶ岳を見た日に賤ヶ岳の合戦の場面がドラマで放映され、大河ドラマをワクワクしながら拝見しました。

かくれ里と云われている菅浦は、その賤ヶ岳の南に向かって細く伸びる半島の突端にあります。菅浦に湖畔に立つと目の前に竹生島を望むことができます。

もともと「かくれ里」と云われる所以は、白洲正子が琵琶湖の古刹に魅せられて書いた「かくれ里」に登場するそうです。
私は、白洲正子さんの審美に左右されたくないという気持ちが若い頃からあり、未だ文章を読んだことはありませんが、今回の旅でそろそろ読もうかな、と、思い始めています。

菅浦が何故歴史学的に注目さているか。

それは、文書(もんじょ)の多さにあるようです。これらの文書は戦国時代を経ても、陸の孤島ということで焼き討ちにも遭わず守り通せてきたわけです。現在は滋賀大学に保管されているとのこと。
奈良時代、淳仁天皇(天武天皇が祖父)が、この地に住まい、その末裔が代々住んでいるというような伝説もあり、菅浦の須賀神社を参詣する時には長い参道を裸足で歩く風習がつい最近まであったそうです。
陸からこの半島を歩くにはかなりの難所で、舟を使って行き来をしていたようで、古くからある港もありました。気象上の理由なのか否かは解りませんが、この港の入口が、小さな船の幅ぐらいしかないことが印象に残りました。

長きに渡り「惣」という掟があり、この惣を頑なに守ることで、集落を守り続けてきたのです。これが文書の多さにも繋がっているようです。ともかく、記述する、記録するのです。集落の者であっても掟を守らない者は容赦ありません。
集落の家は百ぐらいであり、それ以上増やさず、民家は湖畔にあり、民家の背後にはセリ立つような山があるのですが、階段を上った高い位置には、集落とは思えないくらいの寺社があり、今はほとんどが跡を残すだけとなっていますが、未だに集落の規模にそぐわない数の寺が民家の屋並みの上に並んでいます。

半島の東側の付け根には大浦があります。菅浦から東側を辿っていくと山を切り開いた田んぼがあります。この田んぼも中世の頃から地権争いで地を流しながら守り抜いた田んぼだそうです。
昭和46年に道路が出来るまでは、菅浦には分校の小学校しかなく、大浦の中学に通うには船を使ったそうです。それでもその頃は半島の途中までしか舟で渡ることしかできず、山道や湖畔の道をを4キロ歩いて学校に通ったのだそうです。

淳仁天皇と孝謙天皇との確執も興味のあるところで、天智天皇亡き後に琵琶湖の地でこのようなことがあったのかと思うと、歴史の紐解きに益々引き寄せられていく心地良さを感じました。

私達が菅浦・須賀神社の袂にある資料館を訪れると、「本来は締まっていて、中に入るには予約が必要なのです。でも、今日予約した人がいるので、どうぞどうぞ。。。」と、声を掛けてくださり、運よく入ることができました。私の情報では13時~16時まで資料館に入れる、、、と書いてあったと伝えると、それは間違いです、ときっぱり言われましたので、もし、行きたい方がいらっしゃいましたら、事前予約をお願いします。

この資料館を予約をしていた方が、管理者のお一人であるYさんのお姉さまのお婿さんだったということもあり、自分が生まれ育った場所がこういうところだったのか、ということを同行の友人達と熱心に語りながら資料を見入られていました。
その方は長浜に住んでいても、菅浦には中々来ないそうです。白洲正子の「かくれ里」を読んで初めて故郷のことを知ったということを嬉しそうに語っておられました。

お陰さまで、私達ともう一人、この偶然にあやかった東京からの一人旅の壮年のおじさまは、語り部の様な説明を受けることができたのです。このおじさまも、なかなかのもので、二時間に一本しかないバスを乗り継いでやってこられたそうで、バス停でバスを待つお姿が何ともいい雰囲気でありました。

旅人と暮らす人々と共に綾成すことに歓びを感じてこそ、旅と云えるのかもしれません。

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竹生島詣・近江の旅3

2014年08月07日 | 第2章 五感と体感
竹生島、江の島、宮島と云えば三大弁天ですね。

江の島は常に私の中にある風景の一つ。宮島の厳島神社は数年前に参拝。
あとは竹生島参拝というところで、なかなか機会に恵まれませんでした。
この度、ようやく念願が叶ったわけです。

私達一行は近江八幡の宿を8時に出発し、長浜には8時40分に到着。9時の連絡船に乗り、30分ほどかけて島に着きました。

背後には息吹山、進む方向の左手には平良山地を望み、謡曲竹生島の道行きをそのまま再現していることに堪らなく感動しているうちに竹生島の神社の鳥居が見えてきました。

仁和寺の二条天皇に寵愛された平経政(正)は、北陸での源氏義仲との戦いの前に竹生島を詣で、琵琶を奏で奉納したと伝えられており、竹生島宝物館では惟盛が奉納したと伝えられている笙を拝見しました。

竜神様がダイナミックに波を蹴立てて天に昇る姿を思い、歴史上に名を残す人物が次々と竹生島を詣でたことを想像すると、自分の手足がしっかりと地に着く様な安定感を得たのです。

交通手段が馬や牛車、ほとんどの人が徒歩であった時代、聖地と云われる場所に辿りつく感動は、私とは比べものにならないくらいのものだったと思います。
舟を漕ぎ、聖地を目指しながら琵琶湖の風景をゆったりと眺めていた人々と私が見たものが同じであることを今回はとても強く意識しました。

太古の昔、琵琶湖の水を求めて住みついた人々の歴史は、平家物語よりもはるかにさかのぼります。少なくとも7,8千年の歴史を物語る遺跡や遺物もこの地の魅力を高める所以でありましょう。

「聖地と云われる場所は、1センチ足りとも移動しない」という聖地の定義をふと思い出し、長きに渡り人の祈念を重ねた場所はやはり、何かある、、、と、痛切に感じた竹生島詣ででありました。

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ひこにゃんとの出会い 近江の旅2

2014年08月06日 | 第2章 五感と体感
息吹山を右手に望みながら関ヶ原を過ぎると米原。米原から暫く走ると彦根です。

彦根の井伊直弼氏といつかは向き合わないといけないな、と、思いつつ、先延ばしにしていたことには訳があります。

私の夫の祖先は水戸藩であり、桜田門外の変に関わりがあります。
当時の流れからすると、色々な見方があるのでしょうが、これを書き出すと長くなるので止めておきます。
ともかく、彦根に足を踏み入れることを躊躇していたわけですが、直系の夫はそんなことは気にせず彦根を何度か訪れています。つまり、私だけの問題でもあったわけです。

彦根城の袂に歴史資料館があります。私が到着した時間が丁度ひこにゃん登場の時間と重なり、どうせ来たのだからひこにゃんに会う事にしました。

ひこにゃん登場の前に、ひこにゃんについての説明があり、それによると、

「ひこにゃんは、身体が弱いのであまり動きません。疲れやすいので直ぐにお休みします。音楽もありません。」
「ひこにゃんは、一切声をだしません。この芝生から出ませんので、皆様は、この中に入らないでくださいね。」

なるほど、やってきたひこにゃんは、静静と歩いてこちらに向かい、蝉しぐれの中、ポーズを取り、少し動くと静止します。

観覧者は、高ぶる声を出すことなく、やはり静静と「ひこにゃん、可愛い。。。」と、呟きます。

子供もオバサンも多いのに、ひこにゃん登場を静かに見守る人々。。。

歴史資料館の重厚な建物の屋根を見上げるとしっかりと井伊家の紋。それを背景に静静とパフォーマンスするひこにゃんに、井伊家に入るための禊ぎができたようなカタルシスが起き、ひこにゃんに受容されたような気分になり、ちょこっと重たい気分だったのが軽やかになり、彦根城天守閣まで上ることが出来ました。

井伊家の審美眼甲冑の美しさに息を飲み、井伊直弼の茶人としてのセンスは抜群であることも理解でき、能舞台の見所に座り、井伊家の洗練された品の良さに、暫し心を奪われておりました。

彦根城天主の山を降りると井伊直弼が生まれ育った楽々園があり、程好い広さの庭園があります。

るろうに剣心の映画に登場する白壁は、楽々園であることも教えていただき、無事に彦根城を歩くことができました。

楽々園と駐車場の間に井伊直弼の銅像があり、もちろんそこに手を合わせ、彦根を後にしました。

結果的に、ひこにゃんのゆるさに助けられた様な。。。そんな彦根巡りでありました。

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近江の旅其ノ一

2014年08月05日 | 第2章 五感と体感
近江の旅から戻りました。

奈良京都に加え、通う場所が一つ増え、今回が三度目の近江の旅です。

私が5歳から7歳の時まで、福井の大野に住んでいたので、北陸本線で米原まで行き、開通したての新幹線に乗り両親の東京の実家と往復していた記憶は鮮明にあるわけですが、何故か琵琶湖の景色が記憶にないのです。
ただ、今回の旅で見ていた風景が自分の記憶の襞にありそうなことを感じ取ることもでき、意味のある旅ができました。

台風の進路も気になりましたがお天気に恵まれ、近江八幡を拠点に琵琶湖一周を果たし、主に湖東、湖北を中心に歩きました。

一日目は、6時に車で出発し、13時には彦根に到着。彦根城を丹念に見学。近江八幡へ。
二日目、長浜から9時発の船に乗り、竹生島へ。長浜から余呉湖を確認しながら賤ヶ岳を経由し、合戦の雰囲気を体感し、湖北の半島で今も陸の孤島と呼ばれている菅浦を訪問。その資料館で説明を受けることが出来、町並みを散策。そしてひたすら南下し、針江の生水の里になんとか辿りつき、琵琶湖大橋を渡り近江八幡に到着。
三日目は、近江八幡の街巡り。牛肉の西川で近江牛ランチ。日牟禮神社参拝後、和菓子の老舗たねやでぜんざい。お腹が落ち着いたところで安土桃山城址へ。あまりの広さに歩くことを断念し、近くの立派な考古学博物館に。ここがたいそう面白く、学芸員の方と話が弾み、結局閉館時間まで堪能。そこから近江商人発祥の町、五個荘をドライブ。
四日目は、予定していた息吹山は止め、湖東三山の寺、百済寺、金剛輪寺、西明寺と加賀大社へ。そしてまた7時間近くかけて帰路に。

帰りの名神は、息吹山が頂上まで見え、富士山の山小屋の灯も見え、遠州灘の夜景を愉しみ、近江の旅を無事終えました。

ざっと、こんな行程でしたが、明日から訪問先の所感をぼちぼちと書かせていただきます。

今日は猛暑の中、洗濯物との戦いです(笑)

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葉月の始まり

2014年08月01日 | 第2章 五感と体感
真夏日が続く今日この頃。
7月で夏の体力の全てを使い果たした感があり、これから立秋後の残暑が長いことを想像すると、随分な覚悟が要りそうです。

今年はタイミング良く7月末に主な仕事を一旦区切りをつけることができ、9月に向けて養生しながら準備できる一カ月を過ごすことができそうです。ここ数年、この月に展覧会をおこなっていたので、それが無いと云うことで心身の余裕が格段と違います。

そのようなわけで、年に一度の真夏の大掃除ぐらいは始めようとぼちぼちとやり始めました。慌ただしい年末を少しでも楽にする工夫の一つとして役に立っています。

なるべくゆるりと楽しみながら、ぼちぼちと葉月を上手に暮らすのが理想ですが。。。月末の発表会の稽古もあり、冷や汗かく日々も続きそうです。出来の悪い弟子を叱咤激励してくださる師匠に甘えつつ、これもまた楽しみたいものです。

何を愉しむか。楽しむか。

幸福な解釈の幅を広げて、葉月を過ごすと、たぶん、健やかな秋を迎えられるのでは、と、思います。

今日から日経新聞で、東大寺長老の森本公誠師の「私の履歴書」が始まりました。私の誕生日月に掲載とは、なんというプレゼントだろう、と、これまた幸福な気分で第一回を拝読させていただきました。期待通りの文章です。
連載期間、奈良に行かずとも大好きな東大寺と共に寝起きができることは、私にとっては大きな幸せです(笑)

よき夏をお過ごしあれ^^//ブログは三日ほどお休みします。

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