ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

日曜日夕方の高津交差点

2024年04月29日 07時00分00秒 | まち歩き

何となく、iPhone15 Proで高津交差点を撮影しました。

 一見、何の変哲もない交差点ですが、実はここが神奈川県道14号鶴見溝ノ口線の終点です。交差点から奥に伸びるのが県道で、「大山街道」、「溝口大通り」の標識が取り付けられています(次の写真でわかります)。また、県道はここで終わるものの、大山街道は多摩川(写真では手前側)に向かって伸びています。

 元々、溝口の街はこの神奈川県道14号鶴見溝ノ口線沿いが中心であり、江戸時代から続くお店がいくつか存在します。上の写真にあるお茶と秤の田中屋、その少し奥にある灰吹屋薬局本部(現在は店舗がありませんが、歴史的建築物は残されています)がそうです。かつての高津町役場の所在地にある大山街道ふるさと館や糀ホールも大山街道沿いにあります。陶芸家の濱田庄司が育った場所には碑が建てられています。

 ちなみに、田中屋で売られている武州茶は美味なのでおすすめします。私はここ何年か、田中屋でしか緑茶の葉を買ったことがありません。

 左右に通るのが国道409号で、川崎市民の間では府中街道とも呼ばれています。国道246号との交差点である溝口交差点が国道409号の起点で、その起点から川崎市幸区の幸町交番前交差点までが神奈川県道9号川崎府中線との重複区間となります。あのアクアラインも国道409号の一部であることを御存知の方はどれほどおられるでしょうか。

 先程、溝口の中心が元々はこのあたりにあったと記しました。そのことは、田中屋の真上にある公証人役場の存在からでも明らかでしょう。神奈川県道14号鶴見溝ノ口線は、ここから奥に進み、二ヶ領用水を渡り、溝口神社の前を通って高津区役所東側交差点で大山街道と別れて左に曲がり、洗足学園や川崎北税務署の前を通り、千年(ちとせ)、子母口(しぼくち)、明津(あくつ)を通過し、末吉橋、鶴見駅のほうに進んでいきます。

 それにしても、溝口3丁目や2丁目もビルが多くなりました。南武線武蔵溝ノ口駅・田園都市線溝の口駅の前の商店街が賑わっていた1980年代には、ここまで高層建築物が多くなかったと記憶しています。

 

 1枚目:iPhone15 Pro、RAW。24mm、F1.78。14MP、4382×3286。ISO 800、1/33S。

 2枚目:iPhone15 Pro、RAW。77mm、F2.8。12MP、4032×3024。ISO 1250、1/25S。

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溝口4丁目、国道409号の歩道にて

2024年04月23日 01時15分50秒 | まち歩き

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溝口緑地の桜 2024年春

2024年04月15日 00時00分00秒 | まち歩き

今年は桜の開花が遅かったのですが、4月に入ってから、うちの近所でも満開となりました。iPhone15 Proで撮影した写真を載せておきます。

 溝口4丁目、高津図書館のすぐそば、というより同じ敷地と言ってもよい場所に溝口緑地があります。ここに桜の大木が2本あります。今年も花を咲かせました。夜には、近所にお住まいの方が軽いライトアップをされることがあります。

 左側に旧大山街道、右側に高津図書館があります。また、この緑地にはメタセコイアの木もあります。東急田園都市線高津駅から歩いて3分ほど、国道409号(府中街道)と旧大山街道との交差点である高津交差点からであれば徒歩で1分か2分ほどで着きますが、静かな場所です。

 高津区で桜と言えば、かつての高津図書館の所在地、溝口南公園(溝口3丁目)、二ヶ領用水、梶ヶ谷第一公園、緑ヶ丘霊園、富士通ゼネラルの本社などが思い浮かびます。溝口緑地には、本数こそ少ないのですが、たくさんの花を咲かせる立派な大木があります。春になる度に、見事なものだと感心しながら見ています。

間近に花をとらえてみました。

最後の写真だけ、撮影日が異なります。もう花も終わりになろうとする頃、葉桜になりかけています。

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東急砧線中耕地駅の跡

2024年04月08日 00時00分00秒 | まち歩き

2011年3月25日に歩いてから約13年ぶりに、東急砧線中耕地駅の跡を歩きました。今回は、その時に撮影した写真を掲載しておきます。

 実は、中耕地駅跡についてはこのブログの「再掲載:東急大井町線途中下車(1)二子玉川駅(その4)」にて取り上げており、砧線の歴史についても少しばかり記しました。今回、若干の事柄を追加するつもりです。

 上の写真に「砧線中耕地駅跡」の石碑が登場しています。「人知れず、世田谷区東玉川2丁目に」に登場した「新奥沢駅跡」の石碑と同様のもので、設置者が同じであることは容易に推察できます。手前には隣の駅を示したタイルが埋め込まれていることがわかります。右のほうに向かうと二子玉川駅(砧線廃止時は二子玉川園駅)、左のほうに歩くと吉沢駅です。二子玉川駅は歩いて5分くらいで到着すると思われますが、吉沢駅跡までは歩いて10分以上かかるでしょう。

 砧線の跡は「花みず木通り(砧線跡)」と名付けられています。単線の路線であったためか、道幅は狭く、一方通行でないのが不思議なくらいです。ただ、歩道の幅は広く取られています。道の手前は玉川3丁目、奥は玉川4丁目です。ちなみに、砧線の代替バスである玉06系統(何故か高津営業所の所管路線)は、この道路のすぐ南、玉川高島屋本館のすぐ北側の道路を通ります。

 歩道にはこのようなタイルも埋め込まれています。当時の中耕地駅の様子ということでしょう。ただ、イメージによるのか、残された写真などに忠実であるのかはわかりません。車両はおそらくデハ60形でしょう。砧線の晩年にはこのデハ60形のみが使用されていたそうです。私は、小学生時代にこどもの国で静態保存されていたデハ60形を見たことがあります。ただ、早くも荒廃してしまい、解体されています。

 (なお、東急のホームページに「鉄軌道事業 歴代車両」が紹介されており、デハ60形の写真も掲載されています。)

 石碑の側面には設置者として世田谷区と「玉川地団協」の名が彫られています。「玉川地団協」は「新奥沢駅跡」の石碑の設置者でもある玉川地域活動団体連絡協議会のことです。ただ、いつ設置されたのかについての説明は何もありません。

 ここで、東急砧線の歴史について「再掲載:東急大井町線途中下車(1)二子玉川駅(その4)」への補充をしておきましょう。

 砧線は、玉川電気鉄道により、1924年に開業します。玉川線と同様に多摩川で採取された砂利を運搬するために建設された路線であり、当初は軌道であったようです。1938年、玉川電気鉄道(玉電)が東京横浜電鉄に合併され、その数年後には東京急行電鉄の一路線となります。1945年に軌道から鉄道に変更されましたが、実態は軌道のままであり、玉電の車両が使用され続けました。廃止されたのは1969年5月のことで、玉川線と同時でした(世田谷線は残りました)。玉川線の場合は首都高速3号線および東急新玉川線(現在の東急田園都市線渋谷〜二子玉川間。なお、この区間についても実は様々な経緯がありました)の建設のために廃止されたのですが、砧線については詳細がよくわかりません。全線が単線であって距離も短く、あまり需要がなかったのかもしれませんし、玉川線の車両が使われていたために車庫の関係があって廃止されたのかもしれません。

 少しばかり「花みず木通り(砧線跡)」を歩きました。吉沢橋付近まで真っ直ぐに伸びています。桜並木も続きます。かつて、砧線の電車はここを進んで吉沢駅および砧本村駅まで走っていました。私は砧本村駅跡を訪れたことがあるのですが、吉沢駅跡はありません。玉06系統のバスで通過しただけです。吉沢橋の近くに吉沢駅跡があるという話を耳にしたので、機会があったら訪れてみたいと考えています。

 同じ「花みず木通り(砧線跡)」ですが、方向が逆になります。奥に進むと中耕地駅跡、そして二子玉川駅に向かいます。砧線の電車は、中耕地駅を出ると、現在の新二子橋の下を通って国道246号(二子玉川駅前を通る道路も国道指定がなされています)を横切ると右に大きくカーブし、現在の玉川高島屋東館駐車場の裏を通って玉川線に合流していたようです。そのカーブの痕跡は田園都市線の車窓からでもわかります。

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2024年春も、溝口3丁目の桜

2024年04月06日 00時00分00秒 | まち歩き

 溝口3丁目にあった帝京大学医学部附属溝口病院が二子5丁目に移転して、もうじき7年になります。しかし、今は駐車場の入口となった旧病院正門の右側に植えられている桜は、今年も花を咲かせました。

 今は駐車場となっている場所に、病院の建物がありました。その裏には高津湯がありましたが、現在はマンションになっています。この写真では見えませんが、溝口3丁目には現在も帝京大学の溝口研究棟があります。この数年で、少しばかりの変化がありました。というより、街は少しずつ変わっていくものです。

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西浦橋にて

2024年04月05日 00時10分00秒 | まち歩き

うちから少し歩くと、川崎市の歴史などを語るに欠かすことのできない二ヶ領用水に着きます。

溝口では、この二ヶ領用水が2丁目(または1丁目)と3丁目との境界になっています。春になると桜並木が我々を楽しませ、和ませてくれますが、今年は少し遅くなりました。

今回は西浦橋の上で撮影しました。残念ながら、この橋の名称の由来はわかりません。

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ようやく桜

2024年04月02日 00時00分00秒 | まち歩き

4月になり、うちの近くにある高津小学校の桜の花が咲いていました。

下の写真は、私が持っているiPhone15 Proのズームを15倍にして接写したものです。

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町田市の鶴間公園

2024年03月16日 00時18分40秒 | まち歩き

東急で最も長い駅名である南町田グランベリーパーク駅から歩いて数分、南町田グランベリーパークの隣に、鶴間公園があります。そこに、世界で最も有名なビーグル犬と謎の鳥が……。

昨年秋から使用しているiPhone15 Proで撮影しました。この写真(加工済み)の他に何枚か撮影していますが、15倍ズームでもかなり良いものが撮れました。

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人知れず、世田谷区東玉川2丁目に

2024年03月10日 00時00分00秒 | まち歩き

 今から20年ほど前のこと。或る本を読んでいたら、世田谷区東玉川2丁目に、廃駅の跡が残されているという話が書かれていました。私が全く知らない場所でもないので、一度は見に行こうと思っていました。場所も或る程度の見当は付いています。しかし、車で行くことは楽であっても、その場所に停めることはできません。

 ようやく、この辺りを歩く機会に恵まれました。そこで、廃駅の跡を探します。知る人ぞ知る、と記すというより知名度が高いというべきでしょうか。Googleの地図でも検索することができます。環状8号線の近くで、田園調布駅の北側で東急東横線および東急目黒線の上を通り、少し歩くと左側に一方通行の道が分岐します。中原街道への近道で石川台駅のほうに抜けられる道です。その道を少し歩くと、あまり目立たない石碑があります。

 この石碑こそ、廃駅の跡です。というより、これくらいしか駅が存在していたことを示すものはありません。石碑には「新奥沢駅跡」と記されています。

 東横線および目黒線からは少し離れていますし、両線に新奥沢駅があったという事実は聞いたこともありません。石碑から北東のほうに目黒線の奥沢駅がありますが、新奥沢駅跡とは何の関係もないようです。

 石碑のそばに何の説明板もなく、いつ、誰がこの地に設置したのかも全く書かれていないくらいなのでわかりにくいのですが、実は、この「新奥沢駅跡」こそ、悲劇の池上電気鉄道新奥沢線の終点、新奥沢駅があった場所なのです。

 新奥沢線は、現在の東急池上線を建設した池上電気鉄道が1928年に開業させた路線です。起点は雪ヶ谷駅(1933年に調布大塚駅と統合されて移設され、後に現在の雪が谷大塚駅となる)で、当初は国分寺方面までの路線として計画されました。そこで、暫定的に新奥沢駅までのわずか1.5キロメートル足らずの路線として開業しました。途中、田園調布学園の近くに諏訪分駅が設けられており、当初は複線だったという話もありますが、すぐに単線化されました。

 池上電気鉄道は、現在の目黒線および東急多摩川線を建設した目黒蒲田電鉄と競合関係にありました。おそらく、新奥沢線は目黒蒲田電鉄の牙城を切り崩すための先鋒と考えられていたのではないでしょうか。しかし、本線たる池上線を建設する段階で起点および終点を変更する、開業時に電車が間に合わないということで駿遠電気(静岡鉄道の前身)から電車を借りる、五反田駅から白金方面への延長を計画して五反田駅を山手線の上に作ったはよいが計画を中止するなど、迷走していたような池上電気鉄道です。新奥沢線を建設しても、国分寺方面にまで路線を伸ばすことは無理な話でした(そもそも、本当に国分寺方面に路線を建設するつもりであったのでしょうか)。奥沢には既に目黒蒲田電鉄の目蒲線が通っていますし、もう少し足を伸ばせばやはり目黒蒲田電鉄が建設した二子玉川線(現在の大井町線の自由が丘駅から二子玉川駅まで)が建設中でした(1929年に開通)。

 二子玉川線の建設には玉川全円耕地整理組合も関係していたようです。二子玉川線の建設、さらに尾山台駅周辺の歴史を紐解くと、必ず玉川全円耕地整理組合が登場します。それだけ重要な存在であった訳で、その組合と目黒蒲田電鉄との間に深い関係があった訳です。もとより、目黒蒲田電鉄の総帥、五島慶太の手腕と才覚を忘れてはなりません。

 それに対し、池上電気鉄道にはそのようなものがありません。むしろ、新奥沢線を延伸するならば、玉川全円耕地整理組合が進めていた耕地整理事業や土地区画事業の障害になりかねなかったでしょう。仮に新奥沢線を新奥沢駅から国分寺方面に延伸すると(具体的にどのようなルートが想定されていたのかはわかりませんが)二子玉川線と並行してしまう可能性があったからです。目黒蒲田電鉄の地盤を侵食することにもなる訳ですから、何としても新奥沢線の延伸を阻止しなければならなかったのでした。

 結局、目黒蒲田電鉄は1934年の秋に池上電気鉄道を合併します。そして、1935年の秋に、目黒蒲田電鉄は新奥沢線を廃止します。営業していたのは僅か7年程です。そして、新奥沢線の痕跡は「新奥沢駅跡」の石碑くらいしか残されていません。

 石碑が立っている場所はマンションの敷地です。ここに駅があったことはすぐにわかるとしても、ただそれだけであって、他に何も残されていません。付近にはマンションが何軒かあり、近くの交差点まで奥沢駅からの商店街が伸びていますが、この商店街と新奥沢駅とは関係がなかったかもしれません。石碑は、歩いてようやく見つかるほどに目立たないものなので、すぐそばの道路を何度も車を走っていた私も気づけなかったのです。

 ここから石川台駅のほうに向かうと東玉川交差点で、奥沢駅から伸びてきた自由通りと交差します。東玉川交差点を直進すると奥沢小学校、さらに東玉川小学校の前を通って石川台駅の近くに出ます。同交差点を右折して自由通りを進むと雪が谷大塚駅の近くに出ます。

 おそらく、新奥沢線は環状8号線と自由通りとの間を通っていたのでしょう。今となっては完全な住宅街で、こんな所に電車が通っていたとは信じられないくらいですが、一方通行の道路が環状8号線と自由通りとに並行するように通っており、私が歩いてきた、田園調布学園中等部・高等部の真裏にある細い道が新奥沢線の跡のようです。単線であれば小型の電車くらいは走ることができる程度の幅です。もっとも、新奥沢線が廃止されてから宅地化がさらに進んだと考えられるので、廃線跡が残っていないのも当然のことでしょう。一説によると、諏訪分駅の跡は道路の形状でわかるそうですが、今回はその辺りを歩いていません。

 この石碑のすぐ右の道路を真っ直ぐ進むと環状8号線、田園調布中学校の真向かいに出ます。環状8号線が区境になっており、手前が世田谷区東玉川2丁目、奥が大田区田園調布2丁目です。

 今回、私は田園調布駅の東口、六間通りを歩いていて「新奥沢駅跡」の石碑の存在を思い出しました。古書店の田園りぶらりあが既に閉店しており、残念に思っていると、時間帯のためか、田園調布学園の生徒たちが帰宅のために駅に向かっていました。「そうだ、田園調布学園の近くに諏訪分駅があったらしいから、そこから北西に向かえば新奥沢駅の跡にたどり着ける!」と頭に浮かび、この20年ほどの思いを胸にして歩いたのでした。

 但し、田園調布駅からでは少し距離があります。六間通りを歩いたのでは遠回りでして、駅の改札口を出たら東横線および目黒線に沿うように北上して環状8号線に出て、歩道橋を使って道の反対側に出て、蒲田方面に歩きます。環状8号線が大きく右に曲がる箇所を左折し、一方通行の道路に入って奥沢小学校、東玉川小学校のほうに歩けば着きます。

 初めて行かれる方は、奥沢駅から歩くほうがよいでしょう(急行通過駅ですが)。同駅から自由通りを南下し、奥沢区民センターの手前を右に入ります。そこが奥沢親交会という商店街になっているので歩き続けます。お好み焼き屋およびライドシステムという会社が入っているビルが面している交差点を右に曲がると、環状8号線からの一方通行の道路です。すると、左側にコインランドリーが見えてきます。その隣のマンションの駐車場の所に石碑があります(交差点があるのでわかります)。

 前述のように、Googleの地図でも検索できますから、それを頼りにするほうがよいかもしれません。

 

 〔追記(2024年3月15日)〕

 或るルートで、石碑の設置者について情報を得ました。匿名の方でした。この場を借りて御礼を申し上げます。

 「新奥沢駅跡」の石碑は、玉川地域活動団体連絡協議会が1984年に設置したとのことです。ここの他に、中耕地駅跡、玉電用賀駅跡など、14年間をかけて173本を設置したというのですが、同協議会は既に解散しています。

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再び、二子新地駅付近の甍

2024年03月09日 15時00分00秒 | まち歩き

二子新地駅付近を散歩していた時に、久しぶりに通りかかりました。

残念ながら休業日でした。

この後、高津駅まで歩き、珈琲の詩でコーヒーとシナモントーストを楽しみました。BGMはモーツァルトの弦楽四重奏曲です。

カウンターの近くのホワイトボードに書かれている譜面の曲を当てるとよいことがありますが、今回は曲がわからなかったのでパスしました。

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