内閣総理大臣が辞任を表明してから、党内の動きが慌ただしくなっています。
党総裁選挙をどうするのかで議論がなされているようです。国政選挙でもなければ地方の首長または議員の選挙でもなく、団体または法人における選挙ですから、党員でも何でもない者が口を挟む必要はないのかもしれません。ただ、政党は国政や地方政治にも直接の影響を及ぼす存在ですし、全てではありませんが政党交付金の交付を受ける存在です。つまり、公的な存在です。国政に関わる政党であれば、自ずと、不文法による規律を受けることでしょう。まして、国民主権・民主主義を掲げる憲法の下に存在する政党であれば、憲法の趣旨を反映した選挙でなければなりません。
このブログにも「公職者の『後継指名』 選挙制度を無視していないか?」(2013年9月4日7時39分1秒付)で書きましたが、私は、公職者の「後継指名」や「意中の人」というような発言などについて否定的な意見を持っています。いや、これではやや控え目な表現でして、「後継指名」や「意中の人」というものは国民主権・民主主義の下において許されないという考え方を持っています。「後継指名」は、絶対王政時代や封建主義時代、または一党独裁制の国家に相応しいものです。「意中の人」に至っては、結婚相手でも探すのかと勘違いするくらいです。どちらも、国民・住民、有権者を無視した言葉です(同旨を、朝日新聞2003年3月26日付朝刊34面10版(第2大分)に掲載された「知事選語録スペシャル 平松知事、『意中の人』発言で物議」より「森稔樹・大分大助教授に聞く 『空手形』多さ端的に示す」において述べています)。
勿論、公職就任者が個人としてどのように思おうが、それは個人の自由であり、他人がとやかく言う筋合いではありません。しかし、公職就任者が立場を利用して後継者を指名するのはおかしな話です。選挙制度が「後継指名」や「意中の人」を実現するようなものであれば、それは形式的に選挙の形をとっているに過ぎず、選挙の名に値しません。
このところ、情報公開法に代表される情報管理法制度が蔑ろにされ、あるべき情報が廃棄されていたりする事例が多発しています。情報管理法制度の重要性を理解できていない政治家が少なくないのは驚くべきことですが、公民教育の貧困を象徴することなのかもしれません。
このように記す私は、この数年間、行政法の講義で情報公開法制度を扱う度に違和感とも無力感とも何とも言えない不思議な感覚を覚えます。「もりかけさくら、マスク2枚」が典型ですが、政策決定過程も非常に不透明です。「骨太の方針」などにおいて「見える化」という熟れない言葉が多用されている割には「見えない化」が進んでいるように思えて仕方がありません。もしかしたら、日本はジョージ・オーウェルが「1984」で示した二重思考が発達した国の一つなのでしょうか。