このところ、我々(夫婦)は、日曜日となると21時からNHK教育テレビの「クラシック音楽館」を見ています。1990年代には「芸術劇場」であった枠で、その番組も私はよく見ていたものです。はっきり言って、今の「クラシック音楽館」より「芸術劇場」のほうが質は高かったのですが(「クラシック音楽館」はNHK交響楽団に偏りすぎています)、終わり頃に室内楽などの放送があり、これが私の楽しみともなっています。
先週からであったか、それより前であったかどうかを覚えていませんが、「没後20年・武満徹の室内楽」という枠がありました。14日には武満の遺作である"Air"(フルート独奏、無伴奏)、21日には「海へ」(アルト・フルートとギター)、「そして、それが風であることを知った」(フルート、ヴィオラおよびハープ)の演奏が流されました。最後の曲では吉野直子さんがメンバーの中に入っていますが、2011年12月17日、青葉台のフィリアホールにおける吉野さんのコンサートでは、フルートのジャック・ズーンさんによる"Air"と、ズーンさん、吉野さん、そして今井信子さんによる「そして、それが風であることを知った」を聴いています。また、今井さんのヴィオラ独奏による"A String around Autumn"を、大学院生時代にCDで入手し、何度となく聴いてきました。
いずれの曲も傑作であり、日本の作曲家がこのような作品を手掛けたということこそ、誇りとしてよいでしょう。現代音楽に分類されるものであり、ポップスには不可欠である調性などの意味がない曲ばかりですが、実に自然に響き渡ります。通常は、クラシックであれポップスであれ、音楽家が一定のルールに従って音を配列するものですが、武満の音楽の場合は、様々な音が漂い、生き生きと飛び回っている空間の一部をそのまま抜き取ったものであるかのように聞こえるのです。そう言えば、詩人の大岡信さんは、1996年2月21日付の毎日新聞夕刊によせた追悼記事において、武満の音楽の特色を「音を自由に呼吸させてやる」点に求めていました。ここに多くの現代音楽との違いを見出すことが可能でしょう。
また、彼の音楽の多くに共通する特徴として、テンポと空間をあげることができるでしょう。全ての作品を耳にした訳ではありませんが、少なくとも、代表的とされる作品のほとんどにあてはまります。先日放送された3曲がまさにそうでして、かなりゆっくりとしたテンポ、音を運動させるために広くとられた空間です。この空間が音で埋まることはありません。そもそも、目の前の広大な空間を音で埋め尽くそうという無駄な努力が見られません(これは、とくに"Air"に顕著ですが、他の曲にもあてはまります)。そのためか、一種の開放感を覚えることすらあるのです。前衛音楽の中には(見せかけだけあれ、実際上であれ)破壊やヒステリックさに満ちているものが少なくないのですが、これらは武満の音楽に無縁のものと言うべきでしょう。
以上の点は、例えば"November Steps"に強く見られます。オーケストラ、尺八および琵琶のための作品ですが、武満が意識していたか否かは別として、ここで日本人の伝統的精神と現代社会との葛藤を余すところなく表現されているように思えます。現代人が抱える構造的不安が、これほど自然に、的確に描写された、あるいは反映された作品が、(彼の他の作品を除いて)他にあるのでしょうか。
そして、不思議に思われることを以下に記しておきます。常々、創造という行為に終末はあっても完成というものは存在しないのではないか、と考えています。例えば武満徹の作品の一つ一つを見るならば、完結している、と言えるかもしれません。しかし、全体としてみるならば、まだまだ発展の余地がある、とも考えられます。これは、むしろ優れた芸術はそのものの内に新たな発展への可能性を秘めている、ということを示すものです。本当に優れた音楽家の死は、彼の有する大きな創造の泉が涸れないうちに訪れ、全てを途上のままに断ち切るものです(勿論、彼の年齢とは全く無関係の事柄です)。それだからこそ、武満の死が我々に問う意味は計り知れない、と言わざるをえません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます