11月1日、朝刊とともに「きょういく朝日」の神奈川版11月号が入っていました。今回はトップ記事が「公立小中学校の『選択制』曲がり角 自治体に見直しや廃止の動き」でしたので、切り抜いておこうと思い、残しておきました。
この学校選択制は、規制緩和(現在の民主党政権では規制改革)の一環として、1997年、当時の文部省が「通学区域制度の弾力的な運用について」と題する通知を発したことに始まります。1998年、三重県の紀宝町が小学校について導入し、2000年に東京都の品川区が導入したことによって有名になりました。2003年度に学校教育法が改正されたことにより、地方自治体の独自の判断で導入することが可能となり、採用例が増えていきました。
もっとも、現在まで、例はそんなに多くありません。神奈川県では逗子市の例が目立ちますが、2011年度から2013年度まで休止しています。川崎市は導入していないはずです。
きょういく朝日11月号の記事によると、小学校および中学校に学校選択制を導入していた栃木県の鹿沼市は2010年度に廃止しています。これが最初の例かどうかはわかりませんが、逗子市が休止、2011年度に群馬県の前橋市が廃止しており、埼玉県の三郷市も2012年度に廃止する方向にあるということです。また、東京都の江東区は、2009年度に「徒歩で通学できる学校(―小学校。引用者注)に限定しています(徒歩圏内にいくつも小学校があるような地区は少ないと思うのですが)。
規制緩和の一環とはいえ、導入する市町村が多くないということは、制度の入口の段階で問題があるということを意味します。沖縄県の竹富町を舞台とした教科書問題で明らかですが、地区ごとに採択教科書が決定されるのであれば、学校選択制を採用してもどれほど大きな効果があるのかわからないということにもなります。これでは、制度の狙いとされた「各校の特色」は弱められる可能性もあります。
そもそも「特色」という言葉が曖昧で、無意味なものにもなりえます。市町村の教育委員会で学校ごとの特色なり強化事項なりを定めるのであれば、「特色」は出るかもしれません。しかし、これでは学校選択制の狙いでもある学校間の競争は生まれません。学校自体がイニシアティヴを持ち、「うちの学校では◎◎に力を入れています」、「本校では◆◆教育を強化しています」、などの宣伝をし、実際にそのためのスタッフ作りをすることができないと、学校ごとの競争は難しいでしょう。それに、規制緩和論に共通する、競争による質の向上という、わかりやすいだけに単純なテーゼが正しいかどうかも、厳しく吟味される必要があります。
上記記事では前橋市の例が紹介されています。読んだ瞬間に疑問が浮かびました。前橋市は、どうやら学区制を残していたようです。人によっては、ここに失敗の原因を見出すかもしれません。学区制は選択制と矛盾するからです(さらにいえば、市町村内に限定することも矛盾するのですが、この点は脇へおいておきます。私立との選択の余地もある訳ですから)。このような所で学区外の学校を選択すると「自宅のある地域で開かれる子ども会の行事などに参加する機会が減少」したとか、「特定の中学校について入学する生徒が大きく減り、部活動が成立しない」とか「教師の数が少なくなって教科担任制が維持できない」というような問題が出てきたようです。
以上の問題点は、勿論、学区制があろうがなかろうが生じうるものです。ただ、地元との結びつきが弱くなるのは否めないでしょう。首都圏であれば小学校から私立に通っている子どもたちが、こうした傾向を持つようです。数年前に世襲政治家の問題が大きく取り上げられましたが、小学生の頃から都内の有名私立学校に通っていれば、おのずと了見は狭くなるかもしれません。これは当時にもなされた指摘です。
この記事では指摘されていませんが、私が選択制で懸念するのは、人間にはいろいろな性格があり、性質があるということ、様々な家庭環境があり、経済事情があるということ、これらの基本的なことが十分に理解されないまま、子どもが育ってしまうのではないかということです。他人の立場に立ってみるというのは、(そんなことが十分にできるという訳ではないとしても)必要なことですが、これは幼少の頃から観察力などを身につけなければならないことです。地域にもよるでしょうが、学区制がない場合、小学校や中学校には、地元の商店街の子、大手企業のサラリーマンの子、農家の子、父子家庭、母子家庭など、経済状況だけでも多様な子どもたちがいます。勿論、いじめ、学級崩壊など、深刻な問題を生みやすいのは事実でして、これは何としても解決しなければなりませんが、価値観から何からが違う中で、つまり、多様な人間の中で育つということは、大人になって社会生活を営むために重要ではないでしょうか。挫折し、そこから立ち上がるという経験は、なるべく早いうちに体験するほうが良いのです(大人になってからでは遅すぎます)。
たまたま、福岡での集中講義期間中に辛酸なめ子さんの『女子高育ち』という本を買って読んだのですが、その24頁におかしなことが書かれています。長くなりますが、引用します。
「ある日、家族旅行で行ったかんぽの宿でたまたま読んだ、『ゆうちょ優秀作文集』的な冊子に掲載されていた聖心女子学院の中学生の作文に、擬似お嬢様体験で調子に乗っていた私は軽く打ちのめされました。他の作文は、親が病死して貧しくなったけれどミカン箱を机にしてがんばって勉強している、というような苦学生の美談が多かったのですが、聖心の子の作文には『おかかえの庭師が庭に新しく池を造ってくれた』という、浮き世離れした貴族的で優雅な世界観が描かれていたのです。自分のお嬢様ごっこなどとても遠く及ばないと完敗しました。」
この本の内容が内容なので(「無いようなので」ではありません)、かなりの部分を割り引いて考えなければならないのですが、随分と浮いた話です。こんな子どもが成長すれば、おそらく、社会の様々な事象に目を向け、思考するような大人にはなれないでしょう(まして、解決する能力などつきません)。同質の子どもたちの中で育った、温室育ちの野菜のようなものです。おそらく、貧困問題、格差問題など理解できないに違いありません。どの程度の評価を得ている本かわかりませんが、私は、仮に娘が生まれたとして、その娘を女子校に入学させようとは思わなくなりました。
少しばかり脱線気味になりましたが、学校選択制で極端な(とは言えないかもしれませんが)可能性が出ているようにも思えたので、参照してみました。選択制が義務教育の段階で広く行われるならば、早いうちから選民意識などが植え付けられるのではないかと考えるのです。そうでなくても、きょういく朝日の記事にもありますように、「選択基準で上位を占めるのは『伝統校』、『進学のしやすさ』『部活動の種類の豊富さ・強さ』が中心で、『各校の特色』などはそう大きな要因ではありませんでした」ということです。そもそも、義務教育の段階で「各校の特色」を強く出すのは筋違いであるということも言えます。
他方、定着したとされる例も紹介されています。東京都品川区です。詳しい内容はきょういく朝日の記事に譲りますが、漫然と導入されたのではなく、それなりの計算に基づいていると考えられます。小学校は「ブロック選択制」、中学校は「自由選択制」となっています。小学校を完全に自由な選択制としなかったのは賢明ではないでしょうか。また、品川区では学力定着度調査を行っており、この結果が公表されています。単純に学校間の競争に陥るような運用を避ければ、非常に良い教育成果を生む可能性の高いものとも言えます。教員にとっても良い刺激となるでしょう。私も教員であるから記しますが、教育の特殊性を強調して惰性に走るような者が多いのは事実ですから。
おそらく、学校選択制を成功させるためには、それこそ地域の特性などに左右されるのではないでしょうか。地域の事情を十分に斟酌しなければ成功しません。たとえば、例に出しては申し訳がないのですが、過疎市町村でこの制度を導入しても成功しません。人口の少ない所では県単位で行わなければなりませんが、これはどう考えても非現実的です。人口密度が高いというところでなければ成功しないでしょう。
他の地方自治体での成功例を知り、視察して、自分のところでもやってみようと考える地方自治体は多いのですが、物まねでも失敗している所は少なくありません。品川区で成功しているからといって、他で成功するとは限りません。単なる模倣が良くないのは、彼我の違いを考慮に入れないからです。それに、成功例は合格体験記と同じで、それぞれの個別性に左右されます。むしろ、失敗例から学ぶほうがよいのです。
以上を念頭に置き、敢えて記しますと、中学校はともあれ、小学校では選択制は早すぎるように思われます。いや、人間の発育過程を考慮するならば、小学校の6年間は長すぎるかもしれません。よくわからないのですが、学校選択制を小学校で導入するというのであれば、本来、義務教育全体を再検討すべきであったのかもしれません。
また、学校選択制を成功させるためには、学校教員そのものが鍵となります。現在の制度を前提とすれば、小学校と中学校では求められる能力が違うでしょう。また、教科によって異なります。小学校については、音楽、美術、書道、体育、家庭科を専門担当に任せるとしても、基本的にあらゆる教科を担当できることが必要です。そうすると、教員養成課程での教育は中途半端です。しかし、あらゆる教科科目を万遍なく教えることができる教員は、おそらくほとんどいないでしょう。それならば、中学校と同じように教科によって教員が異なるほうが正しいあり方と思われます。英語教育はとくに専門性が要求されるでしょう。事は人事ですので、学校教員のあり方は重要です。
さて、ここからは長い余談です。
私は1997年度から2003年度までの7年間、大分大学教育福祉科学部に勤務しておりましたが、そこで問題となったのは教員採用試験の合格率の低さです。教授会で出る資料を見ると、大分大学は国立大学でワースト5の中に入っていたのです。もっとも、これにも様々な要因がありますから、拙速な印象論は記したくありませんが、国立大学の教員の中には、信じられないかもしれませんが大学が教育機関であるということを理解できない人も少なくありません。困ったことに、若手の教員にこういう人がいたりします(受験生にはわからないことなのが非常に残念な話です)。
どこからか矢が飛んで来て、私の後頭部を直撃しそうですが、山羊である私自身の経験によるところを敢えて記しておきます。私は大分大学の助教授であった時、或る会議で同世代(但し、私より年上)の教員に対し、「大学が教育機関であることは当然だろう? そんなこともあんたはわからないの? 研究機関というならば、大学はシンクタンクに負けてるよ!」という趣旨のことを言いました。教育機関と研究機関のそれぞれの要素が高い次元で調和しているから、高等教育機関としての大学なのです(弁証法を思い出してください!)。
また、これも困ったことですが、教員養成課程の教員には教員採用試験至上主義の人が多く、どうかすると学校の教員になるつもりの無い学生を露骨に差別するという人もいたりします。最初から可能性を摘み取っているような愚考・愚行ですが、思考回路が狭いのでしょう。
おかげで、大分大学時代の私が卒業論文指導を担当していた時、私のところに志願する学生の中には、学校の教員になりたくない、社会福祉関係の職業につきたくない(私は社会福祉関係の課程も担当していました)、という人も少なくなかったのです。多様性を重視する私にとっては非常に楽しいゼミで、とくに助教授時代の2年間は、学部で最も賑やかなゼミと揶揄されたほどでした。これを私は半ば意図していました。最初から閉じこもっているような人になって欲しくなかったのです。
あれこれと書きましたが、学校選択制を導入している、あるいは導入することを検討した地方自治体の方々に申し上げます。教員への面接試験をしっかりと、時間をかけて行ってください。そして、最近では大学教員の採用で行われているように、模擬授業を行ってください。とくに数学について必要です。高度な教育能力は、学部と関係がありません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます