ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

再掲載:東急池上線途中下車(4)・東急大井町線途中下車(2) 旗の台駅(その1)

2017年05月24日 00時00分00秒 | まち歩き

 〔今回は、「待合室」の第436回として、2011年8月20日から同月27日まで掲載したものです。写真撮影日である2011年4月7日当時の様子をお伝えしたく、文章に修正の手を加えておりません。〕

 しばらく、池上線を取り上げていません。洗足池、池上、大崎広小路の各駅周辺を歩いたのですが、私にとっては利用する機会が多くない路線ですので、必然的に利用する駅も少なくなり、取り上げるのも難しいのです。

 そもそも、池上線は、他の東急各線とは全く異なる歴史を持ちます。地図を見ると、池上線と目黒線・東急多摩川線が並行するように通っています。目黒線・東急多摩川線は2000年8月5日まで目蒲線でしたから、その頃の感覚に戻って記すならば、終点は目蒲線も池上線も蒲田ですし、起点は目蒲線が目黒、池上線が五反田で、山手線では一駅違いです。ここに池上線の、或る意味では悲劇的な歴史が隠されています。そして、今回取り上げる駅も、池上線の歴史を象徴する面を持っています。

 なお、今回は東急大井町線途中下車シリーズの第2弾も兼ねています。

 4月の或る日、大崎広小路駅から池上線に乗り、旗の台で降りてみました。池上線と大井町線の乗換駅で、池上線は地上の1番線(下り。雪が谷大塚、蒲田方面)と2番線(上り。荏原中延、五反田方面)、大井町線は高架の3番線・4番線(下り。大岡山、溝の口方面)と5番線・6番線(上り。中延、大井町方面)となっています。改札口は3箇所あり、池上線は1番線と2番線が別の改札口となっています。

 大井町線の急行運転開始のための工事によって改善されましたが、それまでは東急で最も乗り換えに不便な駅でした。池上線と大井町線の上りとの乗り換えはよかったのですが、池上線と大井町線の下りとの乗り換えの場合、いったん階段を上がり、また階段を下りて南のほうへ行ってまた階段を上がるという面倒な構造となっていたのです。

 こちらは1番線の改札口です。池上線の下りと大井町線のための改札口となっています。昔ながらの私鉄の駅という感じです。池上線は3両編成で走っていますので、適度な大きさと言えるのかもしれません。

 何年か前まで、右に写っている踏切とは別に、もう一つ踏切がありました。構内踏切というもので、文字通り、駅の構内にあり、ホーム同士の連絡のために使われるものです。つまり、駅の外には出られませんし、外から自動車や自転車が入ってくることもありません。バリアフリーの観点からすれば跨線橋に勝りますが、電車が接近してから発車するまでの長い時間、踏切の遮断機が降りているために、利便性では跨線橋に劣る所があります。そのため、東京都23区内からはほとんど姿を消しており、現在、東急線で構内踏切が見られるのは池上駅だけとなりました。

 ちょうど蒲田行の1000系が到着しましたので撮影しました。元々は東京メトロ日比谷線直通運転用として東横線にデビューした車両ですが、車両の長さが18メートルで池上線にはうってつけのサイズであったためか、新車として池上線にも投入されました。この時は、池上線で実に64年ぶりの新車として話題になりました。現在は、ワンマン運転仕様のものが池上線と東急多摩川線に走っています。実は、1000系の登場の過程に池上線の、或る意味で悲劇の歴史がよく表れています。

 1922(大正11)年10月、池上電気鉄道が蒲田から池上までを開業させました。現在の池上線の起点は五反田ですから、終点から開業したことになります。こんな路線も珍しいかもしれません。しかも、池上電気鉄道は当初から混乱、迷走という状態を続けました。本来、起点は目黒、終点は大森が想定されていたのですが、大森駅付近での土地買収がうまくいかなかったらしく、蒲田に変更されました。しかし、これでは東急の母体である目黒蒲田電鉄と起点・終点が同じとなり、完全に並行する路線となってしまいます。そこで起点を五反田に変更したのです。また、開業時に新車を走らせるはずであったのに、手配が間に合わず、急遽中古車を購入しています。

 1923(大正12年)、池上から雪ヶ谷(後に調布大塚と統合される)までが開業します。同年、目黒蒲田電鉄の目黒~沼部が開業しており、ここに池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄の敵対関係が公然となり、決定化しました。しかし、同年のうちに沼部~蒲田を開業させ、五島慶太という、鉄道史に大きな足跡を残す辣腕の経営者の下、田園調布のために開業したとも言える目黒蒲田電鉄と比べるならば、池上電気鉄道は劣勢に立たされていたことは否定できません。

 1927(昭和2)年、池上電気鉄道は雪ヶ谷から桐ケ谷(大崎広小路と戸越銀座の間にあった駅)までを開業させ、同年に桐ケ谷から大崎広小路まで、そして翌年に五反田までを開業させました。この先の延長も考えられていたため、現在の五反田駅がビルの4階に相当する高さにあるという構造になっているのですが、山手線の内側は公営交通機関が担当するという交通政策のため、五反田で止まりました。駅の構造からして中途半端な印象を受け、池上電気鉄道の運命がよく見える形で示されているように思われます。

 1927年には、目黒蒲田電鉄が大井町線の大井町~大岡山を開業させています。これが池上電気鉄道に止めを刺すことになります。池上電気鉄道は、雪ヶ谷から国分寺までの路線を構想していました。そのほんの一部である雪ヶ谷~新奥沢が、1928(昭和3)年に新奥沢線として開業しました。しかし、既に目黒蒲田電鉄が大井町線のために土地を確保していたこともあって延長はかなわず、盲腸線となってしまいました。ここにも池上電気鉄道の迷走ぶりが如実に表れています。結局、1934(昭和9)年に池上電気鉄道は目黒蒲田電鉄に買収されてしまいます。

 以上の、池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄の歴史が、旗の台駅にも大きく関係するのですが、それについては機会を改めることといたします。


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