ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

再掲載:東急大井町線途中下車(1)二子玉川駅(その5) 

2017年05月23日 00時00分00秒 | まち歩き

 〔今回は、「待合室」の第441回「東急田園都市線途中下車(14)・東急大井町線途中下車(1) 二子玉川駅(その5)」として、2011年9月15日から同月22日まで掲載したものです。写真撮影日である2011年3月23日当時の様子をお伝えしたく、文章に修正の手を加えておりません。〕

 砧線中耕地駅跡からさらに西のほうへ歩いています。吉沢駅跡までは少しばかり距離があり、二子玉川駅から離れてしまうのですが、途中まではたどってみようと思っています。現在は静かな住宅地ですが、砧線が通っていたころはどのような所であったのでしょうか。

 砧線は、この道路(線路跡ですが)を真っ直ぐ進み、吉沢に向かっていました。おそらく、上の写真の車道が線路跡でしょう。ここは歩道の幅が広いので、歩きやすいのですが、自動車を利用する立場の者にとっては、何とも勿体無い使い方とも思えます。この車道では一方通行であり、歩道のほうまで幅を広げれば両側通行になるからです。

 一方通行は不便なものです。但し、住宅地にとっては望ましいものかもしれません。自動車の交通量が少なくなるでしょうし、それによって静寂が保たれやすくなるからです。狭い道路で両方から車が来たら、車同士も歩行者もたまりません。

 時々、ホームセンターに行くと、庭先に置くオブジェが売られています。おそらく、この蛙達もそのようなものでしょう。置き方によるのかもしれませんが、かわいらしく、粋でもあります。

 歩道にあるマンホールの蓋です。ここに砧線が通っていたことを示す絵が書かれています。廃止直前のものではなく、開通当時の車両がモデルになっているようです。玉川電気鉄道時代の車両でしょうか。砧線も玉川線も、多摩川の砂利を運搬するための路線でした。首都圏の鉄道路線には、砂利運搬を目的としていた路線が少なくないようです。

 これも歩道で見つけました。かなりデフォルメなどがなされていますが、砧線をモデルにしたことは明らかです。玉川線および砧線が廃止された後も残った世田谷線を、2000年まで走り続けたデハ70形、デハ80形、あるいは砧線で最後まで使用されたデハ60形がモデルでしょうか。集電装置がパンタグラフではなく、ビューゲルになっています。玉川線用に登場した車両で最初からパンタグラフを備えていたのは、現在は宮崎台駅の電車とバスの博物館に保存されている「ペコちゃん」ことデハ200形、および、玉川線最後の新車にして、世田谷線に残って長らく活躍し続け、最後までつりかけ駆動のまま残ったデハ150形だけでした。

 吉沢駅跡はまだ先です。しかし、もう二子玉川駅からかなり離れてしまいましたので、引き返すこととしました。閑静な住宅街が続きますが、砧線が現役であった頃は田園地帯だったのでしょうか。それにしても、廃止とは勿体無いことでした。単線のままでは発展性がありませんし、さりとて複線化も難しかったかもしれません。それに二子玉川から砧本村まで2キロメートルほどと短い路線でした。存続には厳しい条件ばかりが揃っていましたが、残されていればそれなりに意義のある路線であったかもしれません。玉川線は廃止された後に地下路線の新玉川線として1977年に復活し、現在では田園都市線の一部となっています。世田谷線は残されています。砧線は純粋な廃止路線で、これは東急で数少ない例となります(他には新奥沢線があるだけです)。

 

 さて、砧線の跡を歩き続けましたが、そろそろ二子玉川駅に戻ろうと思います。まだ寄りたい所があるからです。ただ、同じ道を戻っても面白くありません。駅から少し離れた所に以前からある商店街を歩き、最近は人通りが多くなった柳小路のそばを通っていきます。

 二子玉川商店街を歩きます。駅から少し離れていること、玉川高島屋の裏にあることから、二子玉川によく行く人であってもこの商店街を歩く人は少ないかもしれません。完全に地元の商店街という感じもします。奥に見える高架橋は国道246号線で、右側に進めば新二子橋、そして溝口へ行きます。左側に進むと瀬田、三軒茶屋、渋谷方面です。

 新二子橋の下に来ました。元々、ここで下の道路と直結する予定があったようで、車道がこちらのほうに下っています。しかし、開通以来、自動車は通れません。歩行者と自転車のための通路となっています。

 御覧のように、ここから新二子橋に上がることができるのは歩行者と自転車だけです。奥に柳屋のビルがあります。懐石料理屋なのですが、このビルは目立ちます。何年も前からあります。どうやら、このビルが駐車場になっているようなのです。私は一度も入ったことがないのでよくわかりません。

 

 玉川高島屋の本館(左側)と南館(右側)を結ぶ連絡通路が見えてきました。はるか奥のほうには田園都市線も見えます。

 日本最初の郊外型百貨店ですが、私はそれほど利用していません。南館が専門店街になっており、その3階と4階にある伊東屋にはよく行きますが、それ以外の店のことはあまり知りません。紀伊国屋書店もあるのですが、一時期、品揃えが悪くなったこともありました。最近はまたよくなってきています。

 柳小路と言われる通りです。横丁というには道幅が少し広いでしょうか。このあたりが有名になったのは1990年代くらいからでしょうか。大学院生時代にも柳小路の周辺を歩いたりしていますが、現在ほど店が多くなかったことを覚えています。結婚してまもなく、妻とここを歩き、夕食をとったことがありました。

 

 柳小路から二子玉川駅に戻ってきました。ドッグウッドプラザが見えます。右側のツタヤとケンタッキーが入居している建物はかなり前からあり、とくにケンタッキーは、少なくとも私が高校生であった頃から営業を続けています。

 二子玉川駅に戻ってきました。こちらは西口で、改札口を出るとすぐにライズです。この駅も再開発によって大きく姿を変えたのですが、改札口の位置などに大きな変更はありません。現在はどうかわかりませんが、私の高校生時代、夏恒例の花火大会(川崎市と世田谷区)が行われる時は、自動改札機を全て停止させ、臨時の切符売り場も置かれました。屋台で乗車券などが売られていたようなものです。JR東日本が自動改札機を次々に設置する時期よりもはるかに前から、この駅では自動改札機が運用されていたのです。

 ここから東口に出ますが、道路から何からが変わってしまいました。バスターミナルも移動しています。

 ライズです。右側がオフィスビルのような位置づけで、左側がショッピングモールのような位置づけです。我々も、時々ですが利用しています。曜日によっては、少し奥のほうでイベントが行われたり、自動車販売店が見本の自動車を置いたりしています。

 大井町線の各駅停車が3番線に停車しています。1977年に新玉川線が開通した時は、内側の2番線と3番線が新玉川線で、外側の1番線と4番線が大井町線(当時は田園都市線)でした。1979年に田園都市線の大井町~二子玉川が旧称の大井町線に変わり、1番線発着と4番線発着とがありましたので、方向幕の色まで変えていました。1番線着が黄緑の地、4番線着が黒の地でした。二子玉川~溝の口の複々線化事業が進行し、田園都市線が1番線と4番線、大井町線が2番線と3番線になりました。

 新玉川線用としてデビューした8500系のうち、8638F(上の写真の編成。上り側がデハ8600形8638番で、下り側がデハ8500形8538番)から8641Fまでは5両編成で、当初から大井町線用と位置づけられていました。もっとも、登場したばかりの頃は田園都市線で運用されており、10両編成でした。


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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2018-07-17 09:55:34
確か車道ではなく歩道の部分が旧砧線だったと思います
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そうかもしれません (川崎高津公法研究室長)
2018-07-17 21:17:10
砧線の跡はよく残っているのですが、中耕地駅の跡など一部を除けば、現地にあまり詳しい説明(案内板など)がなかったと記憶しています。
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