年に何回か、千代田区六番町へ行きます。私が公益財団法人地方自治総合研究所の「地方自治関連立法動向研究会」の一員であるためです。
ここに向かうにはいくつかのルートがあり、JRや都営新宿線などを利用するには市ヶ谷駅から歩くということになりますが、私が自宅から行く際には有楽町線の麹町駅を利用します。六番町は市ヶ谷駅と麹町駅との間にあり、麹町駅からのほうが近いと思われるからです。
さて、今回は、その麹町駅から六番町まで歩きます。この駅は麹町三丁目を所在地としていますが、地図をよく見ると北側は二番町にあります。現在も多くの施設を二番町に残している日本テレビのすぐ近くで、6番出口はこの放送局のビルにつながっています。六番町へ向かうには、6番出口か5番出口を利用するのがよいでしょう。
「日本テレビは汐留へ移転したんじゃないの?」という声が聞こえてきます。たしかに、本社は汐留、正確に記せば港区東新橋一丁目に移転しました。しかし、二番町には分室として施設が残されています。
6番出口のすぐそばに日本テレビの麹町分室があることがわかります。それにしても、私の少年時代には「4チャンネル」などということが多かったのですが、いつから「日テレ」というようになったのでしょうか。
現在、東京にあるテレビ局(CATVなどを除きます)をみると、NHKが渋谷区神南、東京都の地域局であるTOKYO MXが千代田区麹町一丁目に本社を置いていますが、民放のキー局の本社はすべて港区にあります。
このうち、TBSは元々赤坂五丁目にありますし、テレビ朝日もNET時代から六本木六丁目に本社を置いています(一時期、六本木一丁目に置いていました)。また、東京12チャンネル→テレビ東京も、当初は芝公園、後に虎ノ門に移転しているとは言え、港区に本社を置き続けています(何年か経つと六本木三丁目に移転します)。しかし、日本テレビとフジテレビは港区以外の場所に本社を置いていたのです。日本テレビは上に記したとおりであり、フジテレビは新宿区河田町から港区台場へ移転しています。また、日本テレビと異なり、フジテレビは完全な移転であり、河田町の跡地にはマンションが建てられています。日本テレビが二番町に施設を残しているのは、放送施設の都合によるという話を聞いたことがあります。
ついでに記すなら、文化放送も新宿区若葉から港区浜松町一丁目に移転しており、ニッポン放送も一時期のみ港区台場に本社を置いていました(現在は千代田区有楽町一丁目に戻っています)。ちなみにRFラジオ日本の本社は横浜市中区長者町にあり、港区麻布台にあるのは東京支社です。
この「麹町ビル西館」の北側に、名称を示す標識のない交差点があり、南側が二番町、北側のうちの東側が四番町、西側が六番町となっています。バス通りでもあるとは言え、地下鉄が通っているにしては狭い道路で、麹町駅は地下1階に改札口など、地下2階に1番線(新木場方面)、地下3階に2番線(池袋方面)のホームがあります。
そして、この交差点が「番町文人通り」の入口になっています。
麹町や番町の界隈には、明治時代から昭和時代にかけて、日本の文学史に大きな足跡を残した文人たちが居宅を構えていました。私がこの話を本格的に知ったのは、まだ私が大分大学に勤務していた頃、三遊亭圓歌師匠の落語「中沢家の人々」を聞いたことによります。圓歌師匠は六番町にお住まいで、この新作落語でも六番町界隈が何度も登場します。よく知られた話ですが、師匠の自宅は有島武郎邸であった場所にあります。
今回は撮影していませんが、交差点付近に番町文人通りの案内板があり、通りに沿って名だたる文豪の邸宅が並んでいた(時期に差があるかもしれませんが)ことがわかります。これをまずよく見てから歩くことをおすすめします。
道幅の割には歩道の部分が広く取られており、歩きやすい道路です。右側が六番町、左側が二番町です。番町文人通りは大妻通りから麹町大通りまでとされており、日本テレビ通りとの交差点は中間地点にして旧有島邸のあった中心部分とも言える箇所です。とくに六番町に文豪の居宅跡が多いようです。
但し、当時の建物は残っておらず、区画もそのまま残っているという訳でもないようです(案内板にもその旨が書かれています)。今回、私が歩いた範囲では、ほとんどがマンションなどになっています。
交差点のすぐそばにある明治女学校跡です。元からここにあった訳ではなく、1885(明治18)年、現在の千代田区飯田橋に開校し、1892(明治25)年にこの地へ移転します。しかし、4年後の1986(明治29)年には現在の豊島区西巣鴨に移転しました。1909(明治42)年に閉校しており、後継の学校もありません。
上の写真に登場する案内板には「羽仁もと子、野上弥生子ら、先進的な女性を輩出した」と書かれています。校長は巌本善治で、教員には島崎藤村や北村透谷などの錚々たる人たちが名を連ねていたのでした。それだけに、短命に終わったことが惜しまれます。
明治女学院跡から少し歩くと三つ角があり、その辺りに有島武郎、有島生馬、里見弴(この三人は兄弟)らが住んでいた場所があります。さすがに当時の建物は残っていないものの、脇道に入れば完全な住宅街です。元は広大な敷地だったのかもしれませんが、現在の様子を見てもよくわからなくなっています。
さらに進むと四つ角があります。右へ曲がれば番町小学校というその交差点のそばに、菊池寛旧居跡があります。ここも現在はマンションとなっていますが、このように案内板があり、当時の写真も残されているのがうれしいところでしょう。菊池寛と言えば「恩讐の彼方に」などを残した文豪ですが、編集者でもあり、現在の文藝春秋社を興したのも彼です。より正確には「文藝春秋という雑誌を私費で発行した」ということのようで、発祥の地が六番町なのです。
今回は案内板などを見つけられなかったのですが、直木三十五の居宅もこの辺りにあったとのことです。また、すぐ先に泉鏡花の居宅もあったそうです。
ついでに記すと、通りをはさんでちょうど反対側に某有名フォーク歌手S氏の事務所があります。
さて、番町文人通りを離れ、番町小学校へ向かう道路を歩いてみましょう。千代田区ですが、この辺りは閑静な住宅街で、自動車が通ることも少なく、歩きやすいのです(もっとも、東京では自動車よりも歩行者のほうが偉いというような場所が多いのですが)。
番町小学校は千代田区立の学校ですが、1871(明治4)年創立の伝統校です。学制が公布されたのは1872(明治5)年であることに注意してください。
この伝統という背景もあってのことなのか、名門と言うべき地位にあるようで、現在でも、麹町小学校とともに我が子を越境入学させようとする親が少なくないとのことです。公式サイトによれば、2011(平成23)年12月4日(日曜日)に創立140周年記念式典が行われており、皇太子殿下も出席されました。番町小学校のサイトには皇太子殿下のお言葉も掲載されています。
ほぼ同じ場所を反対側から撮影してみました。この道路を真っ直ぐ奥のほうへ進むと日本教育大学院大学、ベルギー王国大使館に行くことができ、さらに進むと国道20号線(新宿通り)との交差点(参議院宿舎前交差点)に出ます。
もうそろそろ、研究会開始の時刻が近づいてきました。番町小学校の交差点を右折して、会場へ向かうこととします。
研究会と懇親会(忘年会?)が終わり、これからうちに帰ろうという訳で、会場から近い麹町駅を目指します。その際に撮影した写真です。手前が六番町で、奥の左側が日本テレビの麹町ビル西館です。私は、これから有楽町線の新木場行きに乗り、次の永田町で半蔵門線に乗り換えて渋谷からそのまま田園都市線を利用します。
今回は研究会のついでということで歩き回っただけなので、動いた範囲も狭く、写真も多くありません。来年度は、或る事情により、市ヶ谷駅周辺を歩く機会も増えますので、番町、麹町の界隈はもとより、市谷など旧牛込区の様子も紹介することができるでしょう。私の好きなまち歩きの様子を、今後もブログで取り上げていきます。
また、文中には三遊亭圓歌師匠の名が登場しますが、私も大好きな「中沢家の人々」の圓歌師匠は3代目で、2017年4月に逝去されました。2019年、三遊亭歌之介師匠が4代目三遊亭圓歌師匠となっています。