ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

再掲載:物を粗末に扱う人に

2012年12月19日 00時06分46秒 | 日記・エッセイ・コラム

 (2004年12月15日付で私のホームページに掲載した雑文を、ここに再掲載します。但し、一部修正を加えています。)

 よりによって年末に風邪をひいた。毎年恒例の行事のようなものだが、今回は、とくに夜、咳が出続けて眠ることができない。ここまでつらい思いをしたのは何年ぶりだろう。大分大学時代、実家で元旦に高熱を出したことがあるが、それ以来ではないか。

 こういう時には、どういう訳かわからないが、色々な考えが頭に浮かぶものである。どうせたいしたことはないのだけど、後で後悔することもある。或る小説家も述べているように、最初からフルに使えるアイディアは多くなく、何度も手を加えることによって、誰にでも楽しめるようなものを作ることができるのである。

 そこで、今回は、咳き込みながら、横になりながら思いついたことを書き留めておく。もう一つ、ひきこもりのことも考えていたが、それは別の機会にしよう。

 仕事柄、あちらこちらの食堂などに入って食事を取ることがある。大分大学時代には、それこそ市内中の食堂をまわっていたから、ゼミの学生からも「どうしてそんなに色々な店を知っているのか」とたずねられたくらいで、幾つかの店にはゼミ生を連れて行ったこともある(ここで店の名前を書いてもよいものか。場所だけ記しておくと、鴛野、宮崎、戸次、上野丘、宗方、中央町、府内町、鶴崎、羽屋、賀来などである)。大分を離れてからも、店の名前と場所について鮮明な記憶がある。

 そのような話はどうでもいい。私は、よほどのことがない限り、店で食べ残しをしない。きれいに食べるように心がけている。もし、食欲がそれほどなければ、時間をずらせたり、量を加減すればよいだけのことである。自宅での場合は、食べ切れなければ冷蔵庫に入れるなどの方法で保存しておく。大分市に住んでいた7年間は、野菜や果物の皮というようなものを別とすれば、生ごみの量が少なかった。

 しかし、実際に色々な店で、食べ残しをよく見かける。半分くらいしか食べていないという人もいる。とんかつなどの場合は付け合せのキャベツを丸ごと残す人もいる。野菜が好きな私には信じられないが(余計なお世話だが、栄養にかなりの偏りが出るだろうなどと心配になる。ちなみに、私の場合、大分大学時代には、夕食が野菜だけということもあった)、意外に多いようである。とくに、御飯を残しているのを見ていると、その犯人を見つけて殴りつけたくなる。無理やりに食べさせてやりたいくらいである(私が中学生の時、アメリカかイギリスでそのような歌が流行ったように記憶している)。

 何と勿体無いことか。無駄があまりに多い。物を大事にしないということなのであろうか。

 人によって、必要な食事の量が違うことくらい、誰にだってわかる。それにしても、中にはわざと残しているのではないかと思われるケースがある。あたかも、店で食事をする時は食べ残しをすることが粋なのだ、と主張しているかのような人もいるのかもしれない。

 飽食とは言ったものである。程度の差はあれ、どこの街へ行っても、それなりに食べる場所はある。そして、スーパーマーケットなどには多くの食品が並んでいる。到底、一日では捌けないほどの量である。備蓄と考えれば、近所の住民向けに最低でも2日間は保持可能であろうと思われるほどである。当然ながら、それだけの原料が必要である。しかし、現在の日本では、こうした豊かな食生活を維持するだけの生産量の何割かしか生産できていない。先進国の多くは食料自給率が高く、フランスのように100%を超えている国もあるが、日本は40%にも満たない。市場に出回っている食料品の6割から7割ほどは輸入品であるということになる。飽食は、いつ終わってもおかしくない。綱渡りと同じようなものである。

 食料だけではない。私がよく見かけたのは、鉛筆、ボールペン、ノートの類を最後まで使い切らないうちに捨ててしまう人である。これも私には信じられない。私は、パソコンを使って仕事をする現在でもノートを使う(原稿用紙を使うこともある)。学生時代に使っていたノートは、今でも大事に保存しているし、ページが余っているノートなら、とにかく何の用でもよいので使う。大分大学に就職する時に荷物の運搬のために使ったダンボールも捨てなかった(おかげで、大分大学から大東文化大学へ移る時、ダンボールの入手も多少は楽であった)。鉛筆に至っては、小学生時代に使っていた、非常に短くなっているものが20年間ほど、200本か300本くらいたまっていた。また、ボールペンについては、私の筆箱にあるものは使い捨てのものではないもの、六本木や二子玉川などで購入したドイツのロートリング、ファーバー、スイスのカラン・ダッシュをメインとしているから、芯を交換するだけである。

 コンピュータ時代になると紙の使用量が減るという夢(というより妄想)が広がったが、実際には紙の使用量は増えている。書類その他、一度見れば不要なものもある。私は、こうした紙の裏を活用している。講義でレジュメや資料などを配布すると、必ず余る。そういう時は、場合によっては適当なサイズに裁断し、レジュメなどの原稿にしてしまう。

 幼い頃、新聞の折り込み広告などには裏に何も書かれていないものが多かった。こういうものを適当に切り分け、メモ用紙や計算用紙にしていた。その頃の習性が少々形を変えただけである。カレンダーのデザインによっては、そのままポスターにしていた(私の部屋には、ヴァイオリニストの五嶋みどりとチェリストのヨーヨー・マのポスターがあるが、元々はカレンダーである)。最近では、西南学院大学の集中講義で出した最終レポートの採点やチェックなどをするために、本屋でくれるカヴァーの紙を使っている(このホームページにも載せているあの解説の基である)。

 要するに、使えるものは大事にとっておくという習性が付いているのである。こうなると、物ばかりが溜まっていくという不便さはある。しかし、何でも捨てればよいというものであろうか。ただでさえ資源に乏しい日本である。使えるものは徹底して使えばよい。そうすれば、ごみの量は減るし、工夫次第で生活がもっと豊かになる。

 ごみの多さということでは、今でも忘れないことがある。私は、大学3年生の夏、東急田園都市線溝の口駅・JR南武線武蔵溝ノ口駅付近の某スーパーマーケットでアルバイトをしていた。食料品関係にまわされ、夏の暑い日に一日の気温差が40度近くになるという環境で働いたのだが、ごみの多さには辟易した。ダンボール、ビニール袋など、こまごましたものも合わせるときりがない(ダンボールの一部はお客さんの荷物運搬用にまわるが)。時はバブル経済末期、消費量も多かったから、一日に出すごみの量が半端ではない。ゴミ捨て場と売場との間を何往復もするが、ゴミ収集車何台分かわからないくらいの量である。生鮮食料品であれば、期限が来たら捨てなければならない。お客さんの口に入らないまま捨てられる食料品も多かった。私が生産者だったら怒りは倍増したであろう。「せっかく俺が苦労して育てた作物を!」と。

 ちょうどその頃、ラジオ日本の「さわやかワイド ラジオ日本」という番組で、月曜日から金曜日の午前9時半から、地球環境財団による「われら地球人」というコーナー(朝のワイド番組の一コーナーであった)が放送されていた。たしか、10分か15分くらいの短いもので、私は、時間があれば聴いていた。それが、環境問題について私が関心を抱くきっかけになった。水質、大気汚染などがよく取り上げられたが、食糧問題なども取り上げられていたはずである。AMラジオにしては珍しいと評価してもよいほどの良質な番組だったが(これは言いすぎか?)、資金が続かず、その年の秋に終わった。アルバイトをしながら番組の中身を思い出し、世の中の大きな矛盾を感じていた(一店舗のごみの量からして、他の店と合わせた量のすごさを容易に想像できたからである)。この経験が、さらに物を大事にしようという思いを強くした。

 何故、よほどのことがなければ食べ残しをせず、小学生時代に使っていた鉛筆を20年以上も捨てず、ノートをとにかく最後まで使いきろうとするほどの性格になったのか。幼少時代に戦争を経験している私の親が驚いたほどなのであるが、どうやら、小学生1年生の時の担任の影響らしい。私自身の記憶からは既に彼方に去っているが、聞くところによると、児童が持っている鉛筆やノートをチェックし、担任がOKを出すまで新しいものを買わない、あるいは買わせないという教育方針だったようだ。給食についても同様である。このような面での教育は、児童に対してのみならず、その保護者に対しても徹底していたらしい。ここまで教育されれば私のようになるかどうかまでは保証できないが、大事なことなのではないかと思う。

 鶴見俊輔が、植草甚一スクラップ・ブック(植草甚一全集)第39巻『植草甚一日記』(1980年、晶文社)の解説「散歩の名人、その軽い足どり」で、明治・大正期の東京人の良き習慣について記している。鶴見氏が植草氏に一度だけ会った時のことである。

 「その時のことで、もうひとつおぼえているのは、食事の出てくるはじめのころに、植草さんが給仕の人に、

 『わたしは小食なので、これだけ食べられませんから、これとこれとは、おべんとうにしてください。家にもってかえりますから』

 とたのんでいたことで、明治大正の東京人のしきたりを植草さんはまもっているのだなと思った。わたしの自分の分を食べてしまったが。

 よばれた時には、食べきれない分を家におみやげにもってかえるというのは、明治大正のしきたりだったが、戦争中のとぼしい食生活をとおってかえってうしなわれて、戦後に経済がたちなおってからも、このしきたりはもどってこなかった。」

 これに限らず、言葉、他家庭のプライヴァシーの保護(必要以上に立ち入ったりしないこと)など、東京人には良い習慣が多かったが、かなりのものが失われている。その一つが、鶴見氏が述べているものである。あまりに惜しい。物を大事にするという意味で、この習慣の良さが見直されてよい。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 犬山駅で | トップ | 岳南鉄道線に乗ってきました »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記・エッセイ・コラム」カテゴリの最新記事