最初にお断りです。今回は、私の「川崎高津公法研究室」に掲載していた「待合室」の、次の記事の再掲載です。
第390回:「東急田園都市線途中下車(6) 二子新地駅(その1)」(2010年11月21日〜28日掲載)
第391回:「東急田園都市線途中下車(6) 二子新地駅(その2)」(2011年11月28日〜12月4日3掲載)
いずれも、写真撮影日は2010年10月23日です。誤字脱字を除き、内容を修正しておりません。したがいまして、後の事情変更なども一切反映しておりません。御注意ください(但し、今回は追記のようなものがありますが、その部分については〈 〉で記します)。また、文中にある「別室19」は、2015年11月26日0時30分33秒付で「2003年12月30日の長津田駅周辺」としてこのブログに再掲載しておりますので、御覧いただければ幸いです。
私が田園都市線を通勤路線としたことで始めた東急田園都市線途中下車シリーズでは、これまで、三軒茶屋、高津、池尻大橋、桜新町、そして長津田の順に取り上げてきました(長津田だけは別室19として取り上げています)。路線を行ったり来たりと、順番は乱雑になっていますが、これは私の都合によるものです。今回は第6弾として、二子新地駅の周辺を取り上げます。10月下旬に3台目のデジタルカメラを買いまして、その日に散歩し、撮影してきました。実は体調が悪く、前の日に病院へ行って診断を受けたのですが、歩けるのであれば少し歩いたほうがよいという判断で、近所を散歩した訳です。
ちなみに、シリーズ化する前に渋谷、溝の口、青葉台、中央林間の駅(またはその周辺)を取り上げていますが、これらについても改めて取り上げる機会があるでしょう(ただ、いつになるかがわかりません)。
渋谷から田園都市線に乗り、二子玉川を出発して二子橋を渡ると川崎市高津区に入り、すぐに二子新地駅に到着します。急行および準急は止まりません。また、大井町線の緑各停も止まりません。田園都市線の中では利用客が少ないほうに入るためなのか、のどかさすら感じさせる駅でしたが、複々線化を機に改築されており、以前とはだいぶ印象が変わりました。
新しい路線というイメージがある田園都市線ですが、二子新地駅は1927(昭和2)年、玉川電気鉄道の二子新地前駅として開業しています。当初は玉電の駅であった訳です。戦時体制の強化とともに輸送力の増強が課題となり、二子読売園(現在の二子玉川)~溝ノ口(現在の溝の口)は大井町線に移管されます。以後、1963(昭和38)年に大井町線が田園都市線と改称され、1977(昭和52)年に現在の名称である二子新地に改称されました。
二子新地駅の4番線に、御覧のような階段が設けられています。これは、年に一度、二子橋で川崎市の市制記念多摩川花火大会が行われ、この駅が最寄となるために設置されています。普段は使われません。
川崎市の市制記念日は7月1日です。市制記念多摩川花火大会は、市制記念日に近い7月中に行われていたのですが、この時期には雨が多かったためなのか、この何年かは8月中旬に、世田谷区たまがわ花火大会と同時に行われています。会場への最寄り駅は二子新地と二子玉川です(会場の関係で高津も最寄駅となります)。最近はどうかわからないのですが、1990年代には、田園都市線の電車が二子橋を普段よりもかなり速度を落として走り、花火を電車の中からじっくり楽しむことができました。
途中下車と言いますが、実は当日、電車には乗っていません。二子新地駅までは高津駅のほうから歩いてきました。元々が玉電の区間であっただけに、二子新地駅と高津駅の間は近く、600メートルくらいしか離れていません。散歩にはうってつけです。この辺りは区画整理が行き届いておらず、細い道が入り組んでいて覚えにくいのですが、自動車の通行量も少ないですし、所々に梨畑などもありますから、散歩のコースとして楽しめるはずです。
二子新地駅には長らくエレベーターがなかったのですが、現在は設置されています。私が立っているのは道路の上で、ここが諏訪と二子との境界になっています。右が諏訪で、左が二子です。ちなみに、二子は、現在の川崎市の地名としては「ふたご」と読みます。しかし、駅は「ふたこ」ですし、二子橋も「ふたこばし」と読むのが一般的です。
二子から諏訪に入り、二子新地駅前の商店街である松栄会に入りました。以前から人通りの少ない商店街ですが、肉屋、魚屋などが健在です。最近は魚屋をみかけなくなりましたが、この商店街にはあります。
商店街の名称は、諏訪の一本松に由来します。上の写真で手前のほうに進んでいきますと、その一本松があった場所に着きます。現在は石碑が立っています。今からおよそ400年前、この地に信州の豪族の諏訪左近頼久が訪れ、開拓をしました。そして諏訪大社にこの松を植えたのです。幹の太さは7メートル、高さは25メートルにも及んだといいます。残念ながら、1965(昭和40)年に切り倒されました。寿命であったようです。
松栄会の通りを一歩脇に入ります。「松栄会」の看板はあるのですが、住宅街になっています。高津区は、諏訪、二子、北見方、溝口、坂戸など、幅の狭い道路が多い所です。
新地という言葉は、関西方面ではよく耳にします。曽根崎新地、飛田新地などが有名でしょうか。JR東西線には北新地駅があります(JR大阪駅とつながっています)。元々は「新しく居住地として開けた土地。新開地」、あるいは「新しく手に入れた領地」を意味し(デジタル大辞泉によります)、そこから遊郭を意味することがあります。関東では新地という言い方を関西ほどには使わないようで、あまり耳にしません。その中で、二子新地は駅名にもなっている珍しい例です。
二子新地駅周辺は三業地でした。三業とは料理屋、待合、芸者屋の三業種のことで、これらの営業が許可される地域を三業地と言います。関東ではこの三業地という表現がよく使われており、東急線の沿線では新丸子駅周辺と二子新地駅周辺が代表的な三業地でした。新丸子駅の近く、とくに綱島街道沿いにはホテルなどが多く、かつての三業地の雰囲気が残っていますが、二子新地駅のほうにはそのような雰囲気がほとんどありません。
〈この記事を最初に「待合室」に載せてからかなりの年月が経過した或る日、駅から少し離れた、多摩川に近い場所に、現在も料亭があることを知りました。〉
二子新地駅の改札口が左側にある箇所です。つまり駅前に出ました。1980年代に私が自転車でよく通りかかった頃よりも、奥のほうは店が増えたような気がします。この道を奥に進むと旧大山街道との交差点があり、その周辺が、かつて三業地であったことをよく偲ばせる場所とも言えます。
旧大山街道との交差点に近づいてきました。信号の先は多摩川で、土手と新二子橋(国道246号線)がかすかに見えます。交差点を右折すると二子橋で、土休日ともなるとバーベキューの会場としてにぎわいました。あまりにごみが多いことなどから、川崎市は有料化しました。また、バーベキューで訪れる人が多いことからこの商店街にも人があふれたのですが、トイレを借りるだけという人も多かったようで、私が何度か歩いて見たところでも、商店街の売り上げなどにはつながっていないように思えました。
右のほうに、かつてパチンコ屋とゲームセンターがありました。1980年代まではあったはずですが、いつなくなったのかはわかりません。覚えているのは、木の床で歩く度にかなり大きな音がしたことです。旧大山街道にも、駅から少し離れた所に小さなゲームセンターがありましたが、現在はゲームソフトの店になっています。もっとも、二子橋を渡って二子玉川駅周辺まで歩けばパチンコ屋とゲームセンターがありますし、高津駅周辺まで歩けばボウリング場があり、そこにゲームコーナーがあります。
駅前というと必ずと言ってよいほどパチンコ屋がある、と思われる方も多いでしょう。首都圏では、確かにそのような所が多いのですが、例えば代官山駅周辺にはパチンコ屋がありません。川崎市内でも、たとえば二子新地駅、高津駅、津田山駅の周辺にはパチンコ屋がありません。高津駅の近くには1980年代までパチンコ屋があったのですが、1990年代にはなくなっていました。津田山駅の周辺には昔からありません。また、武蔵中原駅の周辺も、高架化以後、かなりの時間が経つまではパチンコ屋がなかったのです。田園都市線には、他にも周辺にパチンコ屋がないという駅がいくつかあるはずです。
パチンコ屋やゲームセンターの話はともあれ、二子新地駅の周辺は、商店街の規模が小さく、住宅が多いものの少し離れると梨畑などがあり、少しばかり時の流れがゆっくりと流れているかのような印象を受けます。駅から北見方にかけての狭い道をゆっくりと歩いたり、自転車で走ったりすると、不思議な気分を味わうことができます。そう言えば、対岸にある二子玉川駅の東口も、再開発事業が始められる前は二子新地駅周辺と同じような、のどかさを覚えさせる空気が漂う所でした。
これから、二子神社のほうへ歩いていきます。
二子新地駅の西側に出て、旧大山街道を南下します。溝口方面に少し歩くと、二子神社があります。現在の町名は「ふたご」なのですが、神社や橋は「ふたこ」の読みとなっています。高津区に生まれ育った私は、高津区に根を下ろしている親族の影響もあって「ふたこ」と言うのですが、どちらが正しいのでしょうか。また、このような環境におかれてきた私は、最近の「みぞのくち」の発音がおかしいことが気がかりです。正しくは、「ぞ」から「ち」まで高いまま発音します。最近のように「の」まで高く発音して「くち」で下がるというように訛りません。
高津区二子と言えば岡本かの子、つまり岡本太郎の母親です。彼女はこの二子の旧家である大貫家の人です。大貫家と言えば、現在は二子二丁目公園となっている場所が大貫病院でした。現在は公園とマンションになっています。二子神社から旧大山街道を溝口方面に歩くと数分で着きます。
神社は二子1丁目にあります。鳥居を抜け、多摩川のほうに歩くと神社があり、そこに岡本太郎の作品が置かれています。
旧大山街道は、二子橋から二子新地駅の西側、二子1丁目と2丁目の境界を通り、高津図書館の前を経由して、国道409号線との交点である高津交差点に出ます。ここからJR武蔵溝ノ口駅・東急溝の口駅方面に向かう道路は県道鶴見溝ノ口線となります。大山は伊勢原市にある山の名前で、大山阿夫利神社があります。私は、小学生の時に一度だけ行きました。ケーブルカーに乗ったことを覚えています。
その大山に向かう街道に、二子宿と溝口宿がありました。高津交差点を境にして北側が二子宿、南側が溝口宿であったという話がありますが、歴史学の文献(インターネットではありません)を読んでいませんのでよくわかりません。現在、旧大山街道での溝口と二子の境界は高津交差点ではなく、高津図書館(ここの所在地は溝口4丁目)の近くにあります。高津交差点の南側は溝口3丁目、北側は溝口4丁目です。ちなみに、溝口4丁目1番は高津駅のすぐそばにあるのですが、高津駅の所在地は二子4丁目1番1号です。
二子神社です。右の道路が旧大山街道です。奥のほうに進めば二子橋で、かつては渡し船があったところです。
旧大山街道でも、二子と溝口では違いがあります。古い家屋は溝口に多く、二子には歴史的に価値があって案内板がそばに置かれているような建物がほとんどありません(案内板はたくさんあるのですが)。その中で、二子神社は昔ながらの雰囲気を濃厚に漂わせています。もっとも、二子と溝口の違いは旧大山街道沿いに集中して表れているような感じでして、一歩裏道に入ると、非常に細く、入り組んでわかりにくい道ばかりで、あまり大きくない家屋が多いという共通点があります。また、マンションも増えています。
二子神社に着きました。参拝でもしようかと思ったのですが、何故か賽銭箱の前に柵が張られています。右奥に道路があって、すぐに多摩川の堤防があります。付近は完全な住宅街となっています。
田園都市線で二子橋を渡る際に、西側のほうを見てください。そうすると、上の写真にある前衛彫刻が見えてくるはずです。これが岡本かの子文学碑で、彫刻は彼女の息子である岡本太郎の作品であり、「誇り」と名付けられています。
岡本かの子は東京の青山に生まれましたが、そこに二子の旧家、大貫家の別邸があったということで、彼女はこの二子で育っています。歌人、仏教研究者、小説家として活躍し、また、岡本一平と結婚し、太郎を生んだのでした。
下のサムネイルの写真は、いずれもこの文学碑の下のほうにある解説板などです。
神社の境内には小さな公園がありますが、遊具には子供がいません。その後ろに大木があります。私が小学生の頃には、このような公園にはたくさんの子供がいたものですが、もうかなり前から、公園で遊ぶ子供の姿をあまり見かけなくなりました。私が歩いたのは土曜日の午後ですが、右側の多摩川の河川敷で遊んでいる子供が多いのでしょうか。
二子橋です。手前が道路、奥が田園都市線の橋梁です。バーベキューで有名になりましたが、その場所は田園都市線の高架下と言ってよいところにあります。この橋を渡ると世田谷区玉川で、二子玉川駅周辺も見えます。奥のほうに見える高層建築物は再開発によるものです。私は、再開発の前の二子玉川駅東口にあったのどかさが好きでした。急行停車駅とは思えない雰囲気があったのです。
国道246号線は、現在、新二子橋のほうを通っていますが、かつては二子橋を通っていました。そして、1966(昭和41)年3月まで、田園都市線の電車は二子橋の道路の上を走っていました。二子橋の部分だけは単線で、道路の真ん中に線路が敷かれていたのです。最近まであった名古屋鉄道の犬山橋のような感じであったようです。同年4月に溝の口~長津田の開業を前に、田園都市線専用の橋が完成し、切り替えられています。
川崎市側にあります。こちらは「ふたこばし」と書かれています。旧大山街道と多摩沿線道路(川崎市主要地方道幸多摩線)との交差点である二子橋交差点のそばにあります。
多摩沿線道路にはサイクリングコースがあります。小学生の頃には二子橋と丸子橋の間などをよく走りました。また、宇奈根から東名高速道路の下を通って宿河原の稲田中学校の前を通り、登戸へ出たり、多摩川を渡って小田急の和泉多摩川駅まで走ったりしたものです。私が通っていた県立多摩高校も多摩沿線道路沿いにありました。この場所というのが、ドラマ「岸辺のアルバム」でも有名な多摩川水害の現場のすぐそばです。今はどうなのかわかりませんが、毎年1月、多摩高校では大師強歩大会が開かれ、宿河原から二子橋、丸子橋を通り、何故か途中から東京都大田区側を歩き、六郷橋からまた川崎市側に戻り、川崎大師まで歩いたのです。
二子橋ができたのは大正14年、西暦に直せば1925年のことです。それまで、ここには橋がなかったのでした。渡し船が活躍していたのです。聞いた話によると、橋が架かってからも渡し船はあったようです。何故、長らく橋を架けなかったのか。技術的な問題もあるのかもしれませんが、江戸時代の政策が後世に大きな影響を与えているとも考えられます。東海道の大井川が典型的な例で、江戸幕府は意図的に橋などを架けさせなかったらしいのです。これは技術などについてマイナスの効果を持ったことでしょう。
上の案内板も二子橋交差点のすぐそばに置かれています。信号を待つ間、こうした案内を読んでみたりするのも楽しいものです。この交差点から南へ、旧大山街道を田園都市線溝の口駅のほうまで歩けば、そこには歴史がたくさん詰まっています。川崎市でもこうした場所は意外に少ないので、散歩にはうってつけです。
最近は通勤のために電車で二子橋を渡る訳ですが、時には自転車で旧二子橋(国道246号線の新二子橋に対する表現です)を渡ったり、歩いて渡ったりすることもあります。二子玉川駅のある世田谷区玉川も、私にとっては徒歩圏内であり、自転車走行圏内です。
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