ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

2010年8月16日、ミュンヘン中央駅(Hauptbahnhof München)にて その2

2012年05月24日 06時12分48秒 | 写真

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2010年8月16日、ミュンヘン中央駅(Hauptbahnhof München)にて その1

2012年05月23日 21時40分19秒 | 写真

 ドイツ鉄道(Deutsche Bahn. かつてのドイツ連邦鉄道(Deutsche Bundesbahn))のミュンヘン中央駅にいます。ドイツ語でいうHauptbahnhofであるだけに大きな駅で、番線の数も非常に多いのですが、駅の構造はそれほど難解ではありません。

 これからICE(Intercity-Expresszug. ドイツ語ではイー・ツェー・エー)に乗りますが、その前に、この駅の様子を撮影しておこうと思い、愛用のデジタルカメラを取り出しました。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Leiharbeit ist Menschenhandel ???

2012年05月20日 11時40分06秒 | 国際・政治

 今日の日経朝刊13面(日曜に考える)に「地球回覧」として「独経済、誰がための『奇跡』?  改革の果実、企業に偏り」という記事が掲載されています。まるで数年前までの日本の実情を見るような内容ですが、やはりドイツでも労働市場に階層化が顕著となっているようです。

 この記事に、フランクフルト・アム・マインで行われたデモの写真が掲載されています。そこに移っているスローガンが、今回のタイトルに示したドイツ語なのです。

 記事では日本語に訳せば「派遣労働は人身売買?」と訳されていますが、原語のLeiharbeitを直訳すると「貸出労働」あるいは「貸借労働」となります。「なるほど」と思わせる表現です。派遣労働の仕組みを考えると、人材派遣会社が別の会社に労働者を貸し出す、逆に言えば人材派遣会社から別の会社が労働者を借りる、ということになります。労働者が賃貸借や消費貸借などの目的物として扱われているという訳です。そもそも、人材という言い方自体が、人を人としてではなく、物として扱うことを表しています。

 ドイツ語のMenschenhandelは(直訳でも)「人身売買」です。上の仕組みからすれば、売買と言うよりは貸借ですが、売買と表現してもよいでしょう。

 Leiharbeit ist Menschenhandel. スローガンでも疑問符は付けられていますが、相当にストレートな表現です。

 マルクスの『資本論』が正当に指摘しているとおり、賃金労働自体は労働力の売買あるいは取引です。人身売買ではありません。雇用者は労働者の労働力、あるいは労働力により産み出された物あるいはものを欲するのであって、労働者自身を欲するのではないからです。しかし、賃金労働と人身売買は紙一重という部分もあり、簡単に境界を越えてしまうということも否定はできません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Claude Debussy, Sonata for flute, viola and harp

2012年05月20日 00時04分17秒 | 音楽

 2月13日付で、ドビュッシーのピアノ曲「サラバンド」について記した(「Claude Debussy, Sarabande (Pour le Piano)」)。今回は、このところよく聴いている「フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ」を取り上げておこう。

 この曲を知ったのは昨年の12月17日、青葉台のフィリアホールで行われた、ハープ奏者の吉野直子のコンサートで取り上げられたからである。毎年12月、コンサートプログラムの最後を飾るのが彼女なのであるが、昨年はヴィオラ奏者の今井信子(大学院生時代にも青葉台で演奏を聴いている)、フルート奏者のジャック・ズーンを迎え、ヘンデルの「トリオ・ソナタロ短調」、武満徹の「そして、それが風であることを知った」などを演奏したのであるが、後半も終わりという段になって、ドビュッシーの「フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ」を演奏したのである。ドビュッシーらしい美しい曲で、私にとっては大きな収穫であった。コンサートが終わってから、会場でCDを探したほどであるが、売り切れていた。

 今年になって、HMVのネット販売で、この曲も収録されているCDを購入した。奏者は全く異なるが、届いて早速聴き、コンサートのことを思い出した。以来、何かと聴いている。

 作曲されたのは1915年、第一次世界大戦中のことである。ドビュッシーは、反戦の気持ちをこめて「6つのソナタ」の作曲を構想したが、実際に完成したのは3つである。第1番は「チェロとピアノのためのソナタ」、第2番が「フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ」、第3番が「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」で、どの曲も3楽章構成であり、通常のソナタとは異なっている。

 第2番は楽器編成も変わっているが、ヴィオラが利いている。フルートもハープも華やかな音であるから、ヴィオラの渋みのある音がコントラストを作り出し、全体を引き締めているようにも聞こえる。これが他の楽器であったら、傑作とはならなかったかもしれない。

 曲の構成は、第1楽章が「牧歌(パストラール)」、第2楽章が「間奏曲」、第3楽章が「フィナーレ」となっている。

 最後に、私が購入したCDを紹介しておく。

  ・ドビュッシー  3つのソナタ・神聖な舞曲と世俗的な舞曲(ワーナー・ミュージック・ジャパン、WPCS-21066)

  奏者  リリー・ラスキーヌ(ハープ)

           ジャン=ピエール・ランパル(フルート)

           ピエール・パスキエ(ヴィオラ)

           ポール・トルトゥリエ(チェロ)

           シャルル・シルルニク(ヴァイオリン)

           ジャン・ユボー(ピアノ)

           バイヤール室内管弦楽団(指揮:ジャン=ピエール・ランパル)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

経済同友会が政党法の制定を提言?

2012年05月19日 13時10分32秒 | 国際・政治

 昨日(5月18日)付の朝日新聞朝刊4面に「政党法の制定を提言」という記事が掲載されていました。いわゆるベタ記事と言うのでしょうか、小さく目立たない記事なのですが、かなり気になりました。

 第一に、政党法の制定です。議会制民主主義国家で政党法なるものを制定し、施行すること自体が許されないはずなのですが、経済同友会が上記記事に書かれている内容のことを本当に提言しているとしたら、全く的外れで、真剣な議論の対象にはなりえない、としか言いようがありません。経済団体の提言にはよくあることですが、その時々の思いつきをしゃべっているだけという枠を超えていません。ひどい言い方をすれば、場末の酒場で交わされる親父同士のたわけた会話と似たようなものに見えることもあります。

 そもそも、日本が二大政党制となったという事実認識自体が間違っています。一歩ばかり譲って、間違っていないとしても不正確な表現でしょう。たしかに、民主党と自民党が多数の議員を抱え、他の政党からは少数の議員しか選出されないという状況が続いています。しかし、ここ20年ほど、連立政権が続いています。たとえ規模が小さくとも第三党、第四党があり、それらがキャスティングボートを握っているとすれば、それは二大政党制でないこととなります。

 おそらく、アメリカの二大政党制を意識しているのでしょう。しかし、共和党と民主党とは、世に言われるほど違いが大きいのでしょうか。現実の政治を見ていると、党議拘束もそれほど厳格ではないようですし、経済同友会が言うところの「本質的な違い」が何であるのかも明確でないところがあります。

 また、政党法に「党綱領の制定やマニフェストに盛り込むべき事項を規定し、対立軸の明確な政党政治の枠組みをめざすよう提案した」というのですが、これも或る意味で「余計なお世話」です。こういうものは、それこそ政党の自主性なり自治なりに任せておけばよいだけの話です。

 それ以上に、「マニフェストに盛り込むべき事項を規定」するという部分は非常に気になります。もっとはっきり書けば、危険です。明らかに、法律に規定した上で政党が「盛り込むべき事項を規定」しているかどうかを審査するということになりますが――しかも、党綱領にも及ばせる意図が見え隠れします――、一体誰が審査するのでしょうか。答えは、国または地方公共団体、ということになるでしょう。行政活動の監視などを行うべき立法府の議員の選挙を行政権が監視することを容認しなければならなくなります。事の深刻さをわかっている人たちの提言ではありえません。まさに場末の酒場で交わされる親父同士の会話のレベルです(いや、それ未満かな?)。

 第二に、一票の格差の問題が取り上げられています。最高裁判所が判決で実質的に勧告あるいは警告を行っていても、国会の動きが遅いので、経済同友会も取り上げたのでしょう。しかし、違憲状態のまま選挙が行われるのは望ましくないとしても、その選挙を無効とすることが果たして妥当でしょうか。実のところ、この問題は非常に難しいのですが、選挙を無効とすることで終わってはどうしようもありません。ただ、議員が選出されなかったというだけのことになりますから、違憲状態は変わらないのです。選挙は無効、これで終わり、というのでは、政策論議として落第点です。

 経済同友会がこの先の議論を進めているかどうかはわかりませんので、以下はさしあたっての私の愚考です。

 選挙を無効とするのであれば、その先は幾つかの選択肢が考えられます。

 一つ目は、選挙を無効とする判決を下した裁判所が、その判決の趣旨に従った定数配分を自ら行い、その下で再選挙を行わせるのです。問題は、明らかに裁判所の権限の範囲を越えることです。裁判所が公職選挙法の別表を改正する訳ですから。また、新しい定数配分の規定をどのようにして公布するのか、という問題もあります。

 二つ目は、選挙を無効とする判決を下した裁判所が、その判決の趣旨に従った定数配分の作成を内閣に命じ(判決の主文で命ずることとなります)、これに従って内閣が暫定的に定数配分を定め、政令として公布するという方法です。一つ目の選択肢と同じような問題はありますが、内閣が定数配分に関する政令を公布し、再選挙を実施する方法のほうが、現実性があります。あらかじめ、公職選挙法に委任規定を置けば、可能ではあります。但し、再選挙の後に行われる議会において改正法(または改正条例)を制定する必要があります。

 三つ目は、本来であれば任期満了、または失職(衆議院などの解散の場合)の故に地位を失っている議員の任期を延長し、判決の趣旨に従った改正法律を制定させることです。議会制の趣旨からすれば望ましくないのですし、憲法や公職選挙法の趣旨からしても違憲または違法となるかもしれませんが、選挙が無効とされた以上は、その選挙の前に議員であった人々からなる議会が責任をもって改正法律を制定することは必要でしょう。但し、そのような議会がいつまでに改正法律を成立させることができるかが問題で、あまりに長期化すれば無意味になりますし、期限を切っておこなわせることが可能であるかどうかもわかりません。

 他にも方法があるかもしれませんが、提言である以上は何らかの解決策を示していただきたいものです。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年は外国法の教科書の講読を行っています

2012年05月19日 09時02分38秒 | 法律学

 2012年度になってから、金曜日は東洋大学大学院法学研究科の「行政法特殊研究Ⅱ」・「行政法演習Ⅱ」(合併)を担当しています。内容は、ドイツ行政法の代表的な教科書であるHartmut Maurer, Allgemeines Verwaltungsrecht, 18. Auflage, Verlag C. H. Beck, 2011の講読です。

 以前から、おそらくは大学の教員になったばかりの頃から、外国の法律学の本を講読するという内容の講義や演習を担当したいと思っていました。4年前、本務校である大東文化大学の大学院法学研究科でも、英語の本(Alan Schenk and Oliver Oldman, Value Added Tax, A Comparative Approach. Cambridge University Press, 2007)の講読を行いました。しかし、これは正規の講義や演習ではありません。大学の時間割に掲載されている講義や演習で外国書の講読を行うのは、今年が初めてのことです。

 私はドイツ語の教師ではありませんし、そもそもドイツ文学やドイツ語学などを専攻してもいません。ただ、学部の3年生の時に初めてドイツ行政法の教科書(Ernst Forsthoff, Lehrbuch des Verwaltungsrechts, Band 1, 10. Auflage, Verlag C. H. Beck, 1973)を買い、大学院時代にはドイツ行政法学の勉強などをして修士論文を書きました。それから現在に至るまで、ドイツの法律学を参考にして研究を進めていますので、多少なりとも読むことくらいはできます。今回選んだ教科書も、実は学部の3年生の時、2冊目のドイツ行政法の教科書として7. Auflageを買ってから読み続けているものです。他にも候補はありましたが、「やはりこれだ!」ということで選びました。

 他の講義・演習であれば、法律学の教科書や六法を持参しますが、今年度の「行政法特殊研究Ⅱ」・「行政法演習Ⅱ」(合併)の場合は中級文法書と辞書を持参します。文法などの解説をする必要があるからです。学部時代に読みつぶした初級者用文法書は、大分大学を離れる際に法・政演習室に置いていきましたので、今は持っていませんが、最近の中級文法書は初級の内容も合わせたようなものがあるので、それを使うのです。大して能力がある訳でもないのですが、ドイツ語の文法や表現などについて解説をしたりするのです。これで私も「力がつくかな?」などと思っています。

 勿論、講読している本は行政法の教科書ですから、必要があれば日本の行政法の判例や学説を確認します。日本の公法学はドイツの公法学から多くを学んできましたから、行政行為論など、基本的な部分は共通しています。しかし、国が違えば人が違い、法も違いますから、行政法理論にもかなりの違いがあります。その点を追求するのも面白いのです。

 また、私自身の経験からしても言えることですが、講読には独特の面白さがあります。最初は単語の意味や文法に追われるだけで終わることが多いのですが、少しでも力がつくと、背景、文化の違い、などがおぼろげながらもわかるようになります。そうすると、別の疑問があれこれと湧いてきます。辞書に書かれている訳語の「意味」(あえて「  」付きで記していることに御注目を!)もわかってきます。

 ここ10年から20年の間に大学の履修科目が変わり、法学部でも第二外国語を学ぶ必要性がなくなりました。本当にそれでよいのか、疑問を持ち続けています。また、私が学部生であった時代には、外国法の講義が必修でして、学生は英米法、ドイツ法、フランス法の中から1つを選ばなければならなかったのですが、今は、その講義自体がないというところもあるでしょうし、あっても選択科目になっているでしょう。しかし、社会に出てからのことを考えても、専門書の講読は必要ではないでしょうか。

 ともあれ、今年は講読を行っています。私自身も文法書を再読して、復習し、準備をしております。今後、ドイツ語のことなども折に触れて書いていきます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京浜急行1500形

2012年05月16日 00時04分04秒 | 写真

今回は、京浜急行の1500形です。大師線の終点、小島新田駅で撮影しました。

Dsc02128 

 私は川崎市生まれの川崎市育ち(一貫して高津区です)で、1997年4月~2004年3月の7年間を除き、川崎市に住み続けています。最近はあまり行かなくなりましたが、JR南武線に乗って川崎駅の周辺に何度も足を運びましたし、初詣と言えば川崎大師に行ったりしました。

 しかし、神奈川県で最も古くから電車が走っている京浜急行大師線には、二度しか乗ったことがありません。一度目は、大分大学教育福祉科学部の講師(専任)であった2000(平成12)年1月3日のことで、友人と川崎大師へ初詣へ行くため、京急川崎から川崎大師まで乗りました。二度めが2009年6月25日のことで、京急川崎から小島新田までの全線を利用しました。自動車でなら川崎大師駅の周辺や産業道路駅の周辺を何度も通っているだけに、利用する機会がなかったのかもしれません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京浜急行2100形

2012年05月15日 00時04分29秒 | 写真

 久里浜線の終点、三崎口駅に出てみました。三浦市にある駅ですが、中心部からはかなり離れており、終点とはいえ、周囲には道路と畑くらいしかないような所です。この駅から油壺までの延長計画があるものの、長らく凍結されたままです。

Dsc02121

三崎口駅で2100形を撮影しました。快特(元々は快速特急)用として1998年に登場した車両で、2扉クロスシートのため、都営浅草線や京成線へは乗り入れません。

Dsc02124

 車内のステッカーです。最近は、このようにシールとしている車両が多くなりました。1999年、東急車輛製造製であることがわかりますが、特徴としてpowerede by SIEMENSと書かれていることがあげられます。VVVF装置の一部にドイツのジーメンス社が製造した機器を採用しており、この機器のために、加速時に音階のような音の変化を聞くことができました。それがきっかけで「歌う電車」などとも言われましたが、最近は日本製の機器に交換され、音階を聞くこともできなくなった、という話です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

また連休を増やしたりいじったりするのか!?

2012年05月14日 00時47分29秒 | 国際・政治

 5月12日付の朝日新聞朝刊の記事をネタとして使いますので、ブログの話題としてはどうかとも思うのですが、やはり書かざるをえません。

 「秋の大型連休 できるか  今ある祝日3日分、10月に  民主PT検討」という記事が、12日付朝刊4面14版に出ています。読んだ瞬間に疑問符がいくつも浮かび上がりました。

 他の国のカレンダーをじっくり見たことがないのでよくわからないのですが、日本は祝日の多い国ではないかと思います。実際、確認してみると祝日が全くないのは6月と8月くらいです。

 上記記事によると、祝日の数は変えないのですが、2014年から、10月に祝日を集めて秋にも大型連休をつくるというのです。実は、この構想自体が2009年に自民党・公明党連立政権の下でも検討されていましたので、今の民主党・国民新党連立政権の性格が「何だかよくわからなくなっている」ことの典型例となっているとも評価できるでしょう。

 まだしっかりと固まった訳でもないので、何とも言いようがないのですが、たとえば、海の日(現在は7月第3月曜日)、敬老の日(現在は9月第3月曜日)、体育の日(現在は10月第2月曜日)を実質的に10月に移動するのです。朝日新聞の記事では「秋の大型連休のイメージ」として、2014年10月11日(土)~10月15日(水)まで5連休とするというようなことが書かれています。つまり、13日(月)~15日まで祝日を集めるのです。しかも、やろうと思えば16日(木)と17日(金)に休暇を取り、18日(土)と19日(日)も休んで9連休にしてしまう、ということも可能です。

 別の記事には11月1日を「古典の日」として祝日にしようという動きがあることも報じられています。紫式部がその日記(有名な紫式部日記)で初めて源氏物語に言及したのが11月1日だったからという、わかったようなわからないような理由がつけられています。これ以上、祝日を増やしてどうする気なのか、と思うのですが、大体において観光だの何だのという理由なり説明なりが加えられます。

 秋の大型連休の構想に戻ると、上記記事にはもっとわからないことが書かれています。そのまま引用すると「この5連休は全国一律とはせず、地域ごとにずらす構想もある」という部分です。「交通渋滞の緩和、ホテルやレジャー施設の混雑解消がねらいだ」というのですが、バブル経済期のリゾート構想と変わらないような発想です。全国一律としているのもそれなりの理由はあるはずです。地方分権とは言いますが、こんなことは地方分権と無関係です。市制記念日などではないのですから、連休の期間が地域によって異なるのでは、経済などが滅茶苦茶になる可能性が高いでしょう。記事にも、2010年12月の世論調査(内閣府による)の結果として「全国一律の連休でないと、家族・親戚、知人と休みが合わなくなる」という意見が多かったと書かれています。当然のことです。

 大学に勤務し、講義などを担当する者としては、祝日の増加や移転には反対せざるをえません。これにはいくつかの理由があります。

 一つは五月病です。これが日本独特のものであるかどうかは知りませんが、春の大型連休で調子が狂うことは事実です。秋にも大型連休となると、社会人はともあれ、学生の調子は狂うでしょう。十月病が出ることでしょう。

 二つ目は、仮に秋の大型連休ができるとしても、大学の場合は授業日とせざるをえない日が多くなると思われることです。

 ここ10年か20年の間に、祝日が増え、とくに月曜日が祝日とされることが多くなりました。そのため、学校の種別を問わず、時間割などにしわ寄せが来ています。月曜日が祝日であるから学校が休みとなると、その分、授業回数が減ります。どこかで調整をしなければなりません。週休1日制であればまだ楽に調整ができますが、2日制となると大変です。

 また、ここ数年、文部科学省は各大学に対し、講義日数・回数の確保を厳格に要求しています。単位制の本来の意義からすれば当然ではありますが、これによって、祝日であっても平日と同じく講義を行うということが多くなりました。月曜日はとくにその傾向が強く、7月の海の日や10月の体育の日などは、祝日ですが講義日であるという大学が少なくありません。本務校の大東文化大学の場合、2012年7月16日(月。海の日)、9月17日(月、敬老の日)、12月24日(月。振替休日)は平常通りの講義日です。

 困ったことに、大学によって個々の祝日の扱い方が違っています。最近では4月30日(月。振替休日)がそうでした。大東文化大学では暦の通りに休日でしたし、早稲田大学もそうでしたので、図書館は閉まっていました。ところが、国学院大学や東洋大学では講義日でした。私は、金曜日に東洋大学大学院法学研究科で、土曜日に国学院大学法学部で、それぞれ1コマずつ講義を担当しています。このため、4月30日は講義日であったかどうか、頭が混乱しかけたのでした。結局、確認の上で中央大学中央図書館へ行きました(やはり講義日であったので、図書館も開いていました)。

 三つ目は、大型連休が増えるとしても、それほど経済効果が大きいのかという疑問です。休日が増えたからと言って財布が緩むと考えるのは単純に過ぎるでしょう。むしろ、支出は渋くなる可能性もあります。私自身、このところの大型連休は、今年を除けば近場(川崎市内、東京都内、横浜市内)へ行く程度で済ませています。自由が丘や三軒茶屋なら片道150円、六本木なら片道350円、青葉台なら片道210円、二子玉川なら片道120円か徒歩か。こんなところでしょうか。昨年は震災の影響もあって連休中も仕事の日がありました。

 仮に観光などの需要が増えるということでしょうが、車社会が発展した現在では、どこの観光地へ行くにも自家用車ということが多いでしょうから、遠方からの観光客は期待しにくくなっています。公共交通機関が衰退していれば日帰り客が多いからです。私も、大分市に住んでいた頃、福岡、佐賀、熊本、宮崎といった所には日帰りで行きました。車を運転するので、宿泊する理由がないのです。また、川崎市に住んでいる現在では、たとえば熊本県の黒川温泉に行こうという気が起こりません。宿泊料金もかかりますし、列車が通っていないようなところへ行くのが大変であるからです。バスがあるとしても本数が少ないでしょうから、結局はタクシーかレンタカーということになって、さらに支出が増えます。このように考えると、どこまで収入があり、経済状態に余裕があるか、ということになります。

 東京都内や、各地の郊外にある大型ショッピングモールの来客は増えるかもしれません。しかし、それ以外の所は、あまり期待しないほうが身のためであると思っています。

 いずれにしても、大型連休を増やすことに、それほど大きな意味があるとも思えません。節電云々と言うのであれば、夏休みや冬休みの活用を考えるほうが効果的でしょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京浜急行800形

2012年05月13日 00時14分26秒 | 写真

京浜急行を走る車両は18メートル3扉が基本となっています。しかし、700形(既に引退)と、今回取り上げる800形は4扉車です。

Dsc02111

 本線と久里浜線との接続駅である京急堀ノ内駅で撮影しました。

 800形は、現在の京浜急行の車両としては古参で、1978年の年末に登場しました。川崎大師にちなんでなのか、ダルマというニックネームを持っています。

 現在、大手私鉄では、特急車を除けば、片開き扉車はこの800形くらいしかありません(少なくとも、私は思い起こせません)。京浜急行は、両開き扉が一般化しつつあった1970年代後半でも、片開き扉に固執し続けました。おそらく、都営浅草線でのラッシュ時には不便だったことでしょう。扉の数を片側3つから4つにしたのも、他客時の対応を考えての妥協であったのかもしれません。もっとも、800形は正面非貫通車ですので、都営浅草線には乗り入れませんし、品川~泉岳寺を走行しません。そして、800形の次の2000形からは両開き扉が採用されます。

Dsc02112

  この写真も京急堀ノ内駅で撮影しました。

 800形は、京浜急行で初めてワンハンドルマスコンを採用したことでも知られます。しかも、東急や阪急などで採用されたT型ではなく、右手のみで操作するワンハンドルマスコンで、京浜急行では2000形でも採用されました。ちなみに、1500形以降の車両はT型になっています。

 なお、塗装ですが、当初は側面の窓周りも白でした。2000形が登場してから現在の色彩に変更されたそうです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする