池袋駅の東口。
今では東京を代表する「都心」のひとつとなってるけれど
実はこれだけ発展したのは戦後になってから。
江戸時代にはこの周辺は「中西の森」と呼ばれていて
それが明治になってから実業家・根津嘉一郎(東武鉄道などの創設者。根津美術館などで有名)の敷地となり「根津山」といわれるようになりました。
根津氏の所有になる前後には
明治天皇が雑司が谷で行われた近衛連隊の演習の観閲のために
この地に行幸され、お野点もされた記録があり
最近まで記念碑がたっていましたが
画像の左側のとおり再開発工事のために、撤去されてしまったようです。
いまでもこの周辺は湧水があるのか
隙間から現場をのぞくと、露出した土に水がたまっていました。
この付近に、水窪川といわれる川の水源があったようです。
川はここから北へ流れ出していました。
池袋駅は明治35年に、それからさかのぼること17年前に開業した
目白駅と板橋駅の間の信号所でしかありませんでした。
そのころも、湿地に農家や牧場が点在しているだけだったようです。
今では考えられない閑散ぶりです。
今では東京を代表する「都心」のひとつとなってるけれど
実はこれだけ発展したのは戦後になってから。
江戸時代にはこの周辺は「中西の森」と呼ばれていて
それが明治になってから実業家・根津嘉一郎(東武鉄道などの創設者。根津美術館などで有名)の敷地となり「根津山」といわれるようになりました。
根津氏の所有になる前後には
明治天皇が雑司が谷で行われた近衛連隊の演習の観閲のために
この地に行幸され、お野点もされた記録があり
最近まで記念碑がたっていましたが
画像の左側のとおり再開発工事のために、撤去されてしまったようです。
いまでもこの周辺は湧水があるのか
隙間から現場をのぞくと、露出した土に水がたまっていました。
この付近に、水窪川といわれる川の水源があったようです。
川はここから北へ流れ出していました。
池袋駅は明治35年に、それからさかのぼること17年前に開業した
目白駅と板橋駅の間の信号所でしかありませんでした。
そのころも、湿地に農家や牧場が点在しているだけだったようです。
今では考えられない閑散ぶりです。