なぜ、大高興先生は貴重なコレクションを寄贈することにしたのでしょうか。
読売新聞 昭和52年8月16日の記事が「風韻堂雑録」に掲載されています。
「きずな」――恩師との”約束”果たす より
◇紅白マンジュウ失敬
忍び込んだ真っ暗な職員室で、目当てのマンジュウをがぶりと一口やった時だった。パッと電気がついて、入り口に担任の塩谷雄馬先生が立っていた。
昭和十四年。西郡岩崎村黒崎小学校のあすは卒業式という前の晩だった。
当時、私は複々式授業が行われていたこのへき地校の六年生。級長だったから、卒業生二十三人を代表して答辞を読むことになっていた。だが、卒業式のために準備されたアンコ入りの紅白マンジュウが食べたくてしょうがない。一日がまんすればいいのに、それができず、つい職員室にしのびこんだ。
雄馬先生は名前の通り馬づら。やせて小柄な先生と”犯行現場”で向い合いながら「親にいわれたらどうしよう」「同級生に知られたら答辞が読めなくなるのでは」。そんな不安が胸をふさぎ、多分、私の顔は血の気を失っていたことだろう。
◇罪に”二人だけ”の密約
その時、塩谷先生は「そんなに食べたければ食べろ。オレも一つ食う。その代わり大人になったらだれにもできないことを一つせい。そうすれば罪を許してやる」とおっしゃった。自分もまんじゅうを食べ、以来、この事は二人だけの秘密になった。
先生は終戦後間もなく亡くなったが、約束を覚えているのが自分一人になってしまうと、どうにも落ち着かない。折にふれ「だれにもできないことを一つせい」という先生の言葉が頭に浮かんでくる。
◇貴重な文化財県に寄付
四十七年、意を決して私は一万一千二百一点の文化財を県立郷土館に寄贈することにした。四十年かかって集めた命の次に大切にしていたコレクションの数々。ロックフェラー財団からは一億円で譲渡してほしい、国内の博物館からは五千万円で譲ってくれとの申し込みがあったほどの貴重な文化財だ。
妻も「売れば鉄筋の病院を建てられる」と反対したが、私は歯をくいしばってコレクションを全部手放した。寂しくて、郷土館開館の日は泣けてしょうがなかった。
そのあと、小学校時代の通信簿を持って日本海を見おろす丘にある岩崎村の先生の墓に報告に行った。「約束を果たしましたよ。これならだれにもできないことでしょう」。卒業からちょうど三十三年目のことだった。
◇塩谷先生の偉大さを知る
また、この事件で先生は人を許すということの大切さを教えてくれた。もし、あの時、許してもらえず逆にうんとしかられていたら、私はどうなっていたかわからない。その意味で先生は真の教育者であり、忘れ難い恩師だ。
しかし、男はつらいもの。正直言ってマンジュウ一個がえらく高いものについたと思うこともある。
*************************************************
新成人の皆様へ
この塩谷雄馬先生からの「だれにもできないことを一つせい」という言葉を伝えたいと思います。