何か書き残しているような気がしてぐずぐずしていたのですが・・・・
日本近代文学館の太宰治展に来て、この旧前田家本邸の見学をすることになったのだから
もしかしたら太宰治と前田利為はどこかで接点があったのかもしれない、と思いました。
前田利為は情報収集の役割があったことと、一時期、弘前第八師団長であったことがその理由です。
また弘前藩は近衛家と近い関係にあり、近衛家と前田家は親戚関係にあったようです。
もし、何らかの接点があったとして、太宰治は作品のどこかに前田利為の何かを埋めこんでいないでしょうか。
1942年頃の作品では「右大臣実朝」があります。
ふと妻美知子が、太宰治が「右大臣実朝」執筆のときに寝ても覚めても「実朝」で頭がいっぱいになったと書いてあったことを思い出し、津島美知子「回想の太宰治」を読み返してみました。
・「右大臣実朝」に太宰は実朝の和歌を片仮名で入れているが、平仮名を片仮名に変えただけでなく、あるいは漢字を片仮名に、平仮名を漢字に直して、諸伝本のどれにもない自己流の表記をしている。その道の専門家の意向を無視しても、「太宰の実朝」を書き表したかったのであろうか、と思うものの「波」を「浪」と、「浪」を「波」とことさら変えて書いているなど、変更のための変更のような感じを受ける。
・「右大臣実朝」に入れた金槐和歌集の和歌の表記について上記のように太宰流に書き改めたことは、どう考えたらよいのか、真意が不可解である。
「右大臣実朝」から
アラ磯ニ浪ノヨルヲ見テヨメル
大海ノ磯モトドロニヨスル波ワレテクダケテサケテ散ルカモ
これは前田利為の最後に重なるように感じられます。
加えて「右大臣実朝」の中で名高い アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ
の1行も前田利為にふさわしい台詞のようにも思われたりします。