山城に 散りし桜の あとに立ち
梅士 Baishi
昨日は古墳群が広がる瀬高を歩いた。
JRウォーキングの予定地だが、日にちを間違えた
のである。
どうりで、下車する人の姿もまばらな土曜日だった。
仕方がないので、駅前のウォーキング案内の看板
をカメラに収めて歩き始めたが、案内板一つない。
これで「歩きたくなる道500選」とは厚かましい。
最初の目標は「長谷水門」だったが、地図の手掛か
りはなく、道標もなく、ただ、山を目指して1時間以上
彷徨した。
奇跡的にたどり着いたが、そっけない山城跡の様
相であった。
もしかしたら、邪馬台国の防衛線だったのではとい
う説明書きに苦労が報われた。
このあたりの遺跡群は、聖徳太子の時代のものと
論じられているようだが、不明である。
卑弥呼の時代には出雲勢力との戦が続いていた
わけであるし、平野を護る山城は当然の備えであった
ろう。
年代については、日本の文化が朝鮮半島を通って
大陸から来たという前提でのもので、要するに自虐史
観による推論である。
実際にはもっと紀元前に遡る歴史が秘められてい
るであろう。
植物の由来についても大半が大陸からもたらされた
ということになっており、その前は不毛の列島だったと
いうことになっている。
愚かな唯物史観であり、自虐史観である。
実際は逆だったのではないか。
文明は、日本から大陸にもたらされたとみるべきで
あろう。
文明の源流は日本を直系とするムー文明に由来す
るからである。
それにしても、女山神籠石Zoyama Kougoishi 列石群遺跡
の由来は神秘のベールに包まれている。
山城説が有力だが、軍事拠点としての建造物の痕
跡はない。
とすると、墳墓群を囲う霊域だったとも考えられる。
畝傍山のように、山自体をご神体として祀るのも、
その影響なのではないか。
考古学の面白さである。
これは女山遺跡群の山頂付近にある「鶏塚」と呼称
される六世紀頃の古墳と言われている。
若杉山の麓にもこうした古墳群がみられる。
古代から地域を護る霊域の文化があったとみるべ
きであろう。
人口が増えて、墓地の確保も難しくなっている上に、
宗教心や霊界思想が見失われている現代にあって、
祭政一致型の霊域の再建が求められているのかもし
れない。
日本独立宣言・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・中村梅士党