盆なれば 大宰府跡など 参りけり
中村 梅士 Baishi
昨日は旧暦の盆、ゆっくりしたかったが出勤した。
ところが、招かれざる客状態だった。
数年分の講義資料を邪魔だとばかりに段ボールにつめ
られて押し返されていたのに憮然とした。
貴重な資料だったが、大半を廃棄して職場を出た。
思い立って、西鉄に飛び乗り、都府楼をめざした。
気にかかっていた岩屋城に大宰府政庁跡から参上しよ
うと思ったからである。
禍転じて福となす機転である。
旧暦の盆にはふさわしい墓参だった。
大宰府政庁跡を訪れるのは初めてだった。
荒れ果てた遺跡かと思っていたが、公園のように整備
されていた。
大きな礎石に古代のロマンを感じた。
大伴旅人や山上憶良らが梅の花を愛でたであろう、今
は昔の皇居である。
大宰府政庁跡には、建物の大きさをうかがわせる礎石
群が残るだけだが、朝鮮半島からの防衛のために西の都
を筑紫の奥座敷に移したのが大宰府建設のいわれだと言
う。
朝鮮半島の拠点だった百済を失ったからである。
博多には皇族が多く住まっていたことが分る。
勇壮な七重の塔もあったと言うが、焼失したあと、大
木の入手が困難なために再建されないまま、今日に至っ
ていると言う。
博多の真言宗の名刹東長寺に五重塔が建立されたのを
うらやましげに解説していた。
心柱となる大木が建立のカギだったのだ。
「俺の昼飯」みたいなごっつくまずい弁当で腹ごしら
えをして、岩屋城を目指した。
政庁跡を突っ切って、山道を登り始めた。
初めての地とあって土地勘がない。
四王寺山(しのじやま)の中腹291mにある山城で
ある。
大した標高ではないが、厳しい直射日光と猛暑でふら
つくほどだった。
猛暑の山歩きも街歩きも無理だと悟りつつ、高橋紹運
の墓地にたどり着いた。
旧暦盆の墓参である。
恨みの念など全く感じられなかった。
潔い玉砕だった。
猛暑体力の限界を感じながら、もうひと上りした。
遂に、「嗚呼壮烈・岩屋城跡」の玉砕の地に立った。
小さな街の公園程度の狭い丘の上で、763名の城兵
全員が玉砕したというのである。
守りの難しい簡素な山城のこと、息子、立花宗茂が守
る本拠立花城への攻撃を遅らせるための玉砕覚悟の戦い
だったようである。
まさに壮烈な戦いだったろう。
小説を読みながらも涙なしには読めない戦さだった。
岩屋城を慰霊して太宰府天満宮方面に下山することに
した。
今年の集中豪雨で土砂崩れがあり、車道は通行止めの
ままだった。
車の気配のない車道をよたよたと降りて行った。
なるほど、道路の半分が削げ落ちている。
そこをすり抜けて途中、道路の真ん中に座り込んでし
まった。
頭から水を注いで洗礼し、再び下山の道をたどった。
途中、立ちより温泉のホテルに救われた。
ジンジンとくる冷水に浸かり、サウナでさらに汗を流
した。
残暑厳しい天満宮にも立ち寄ったが、アジア系の旅行
者が溢れている。
支那人までが浴衣姿で参拝している。
自由と宗教性に飢えているのだろう。
それにしても試練と達成感のある旧暦盆の慰霊の旅だ
った。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
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