札幌の隣の石狩市。
政令指定都市ではありませんが、平成17年(2005年)に合併した、旧「厚田村」と「浜益村」は、現在も「厚田区」「浜益区」として、合併前の名前を残し続けています。
同じような例は道内でも幾つかあるのだけど、これはいいことだと思います。
平成16年(2004年)に広域合併をした函館市も、かつての「南茅部町」「椴法華村」「恵山町」「戸井町」をそれぞれ「区」としておけば良かったのにと思います。
そんな「石狩市厚田区」の「聚富」という地名。
ローマ字表記のとおり、「しっぷ」と読みます。
地名の由来は、アイヌ語で「箱の形をしたもの」を意味する「シユ・オプ」に由来するとされています。
周辺に広がる川や山の形状を「箱」に見立てたということのようです。
厚田区を走る国道231号から少し海の方へ走った所にある小さな碑。
「伊達邦直主従北海道移住の地」の碑。
以前ちょっと予鈴的に書きましたが、札幌の隣の当別町の開拓の礎を築いた「伊達邦直」が、故郷仙台藩から北海道開拓に志願し、開拓使との協議により、荷揚場を使用することが認められたのが、この聚富でした。
結果的に、この聚富も土質が悪くて農地としては適さないことが分かり、明治5年(1872年)、邦直は当別町に入植することとなりましたが、そんな邦直主従の上陸を記念する碑が、現在もこうして聚富に残されています。
(当別町の記事はこちら)
この碑は平成8年(1996年)に建立されたもので、題字は、邦直の子孫で、当時の当別町長であった「伊達寿之」氏によるものです。
なるべく顔は写りこませたくないので、少々横から。
元々邦直が開拓を命ぜられたのは空知管内の「奈井江町」の辺りで、聚富はその開拓のための前身地に過ぎませんでしたが、この間に八人の新生児が誕生して将来に明るい光をみることができ、また、「本庄睦男」という作家の歴史小説「石狩川」の舞台もここ聚富であったことから、後の当別開拓の方向に定まった歴史的位置を後世に伝えるため、この碑が建立されたと刻まれています。
その碑から少し海へ向かった所で撮った一枚。
写真の先は、遠く大雪山系に端を発する大河、「石狩川」の河口付近です。
次は、この河口付近を目指してみます。