北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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銀座通り

2024-07-01 19:52:16 | 函館

 

市電「十字街」電停を降りた側にある道路。

片側二車線ですが、車通りはそれほど多くはないようです。

 

 

その一角に、このような解説板がありました。

現在は営業しているお店も少なく、閑散としている感が否めない場所ですが、かつては函館一の繁華街として繁栄していた場所だったのです。

 

「函館一」と書きましたが、解説板にある大正10年(1921年)当時の函館は、札幌や仙台よりも人口が多い(全国で9番目)、東京以北最大の都市で、その中心が、現在の十字街周辺でした。

解説板にもあるとおり、料亭、カフェ、映画館、劇場が立ち並んでいたそうで、公募により、東京の「銀座」にあやかって、「銀座通り」と名付けられ、現在もその名前が残っています。

現在の片側二車線の広い道路は、同年に発生した大火を受け、防火線として拡幅整備されたもので、両側の建物全てを不燃性の鉄筋コンクリート造りとし、函館市内では初めて、車道と歩道とを区別する道路として整備されました。

 

 

今ではすっかり人通りも少なくなっていますが、往時を偲ばせる雰囲気は、今でも残されています。

 

 

 

おなじみ、「ラッキーピエロ」の店舗。

ここは、当時床屋だった建物を、現在も使用し続けています。

 

 

 

小さな魚菜市場。

現在も「銀座」の名前を残し、周辺住民の台所として、生活を支えています。

 

 

 

「小野商店」さんというこちらの建物は、かつてはホテルとして使われていたそうです。

 

 

この建物の1階にあるパン屋さんの看板。

行こう行こうと思っているうちに、残念ながら閉店してしまいました。

この建物も、当時から残っているものなのでしょうね。

 

 

私も何度かお世話になった、函館市内でも一番大きいと思われる眼科病院。

ここには、幕末期の1857年に、幕府直轄の綿羊飼建場が設置され、10頭の羊が飼育されていたという歴史があります。

この向かいには、非常米の備蓄蔵があり、辺り一帯が「蔵前」と呼ばれていた時期もあったそうです。

 

 

現在は雑貨屋さんとして使われているこちらの建物は、かつて銭湯でした。

 

 

写真のこの辺りには、歌手の瀬川瑛子さんの祖父が、「蘭亭」という中華料理店を営んでいました。

瀬川さんご自身は東京の生まれだそうですが、函館にゆかりがあったということは知りませんでした。

 

 

 

現在改修工事中のこの建物。

以前はホテルとして使われていましたが、かつては、北海道最初の常設活動写真館「錦輝館」がありました。

「活動写真」というのは今でいう「映画」のことですが、先程の解説板にあるとおり、この界隈には「映画館、劇場」が立ち並んでいました。

今でこそ、「映画館」と「劇場」は一緒にされることが多いですが、当時は、活動写真が見られる「映画館」と、芝居が見られる「演劇場」は明確に区別されていたそうです。

 

 

 

ここは、先日紹介した「高田屋屋敷跡」の前ですが、この道路は、現在「金森赤レンガ倉庫」付近から高田屋屋敷に船で乗り入れるための掘割を埋め立てて整備された歴史があります。

 

 

赤丸が、高田屋屋敷跡付近。

青線が、箱館奉行所と高田屋嘉兵衛が協力して、湿地であったこの周辺一帯の水はけを良くするために人工の掘割を通したところでした。

この掘割は、後に、近くに掘られた「願乗寺川」という水路と繋がりますが、流域を中心に、当時の函館の人口約50,000人中約800人とも言われるコレラによる死者が発生したことなどから、汚染源とみなされて埋め立てられ、青線の部分は現在に至る「銀座通り」として整備されることとなりました。

 

 

 

先日も紹介した「高田屋屋敷跡」。

ここにあった嘉兵衛の邸宅に、七福神の恵比須が祀られていたことから、この一帯は1965年まで「恵比須町」と呼ばれていて、埋め立てられた通りは、「恵比須通り」「高田屋通り」と呼ばれていました。

 

 

 

 

「末廣町」というのは現在もある地名ですが(現在は「末広」と書きますが)、この街路灯も相当な歴史がありそうですね。

 

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日本基督教団函館教会

2024-06-27 20:42:45 | 函館

 

西部地区にある教会をこれまで三つ紹介してきましたが(「カトリック元町教会」「函館ハリストス正教会」「日本聖公会函館聖ヨハネ教会」)、西部地区には、比較的狭いエリアの中に、四つのキリスト教宗派の教会が、集まるように建っていることでも知られています。

四つ目は、私がトライアル(実地試験)を突破しているガイドコースには入っていないのだけど、他の三つと同じくらい歴史ある教会です。

 

 

 

 

 

「日本基督教団函館教会」。これまで出てこなかった、プロテスタントの教会です。

函館におけるプロテスタントの歴史は、アメリカ人宣教師のM・C・ハリス氏が、1874年に伝道したのが始まりとされています。

解説板にも書かれていますが、その頃函館では、ドイツから来日していた代理領事が、「外国人が日本の国体を汚し、天皇を廃そうと策している」という極端な排外思想に捉われ、外国人殺害の目的で来函していた旧秋田藩士に惨殺されるという事件が起こっていました。

事件を受け、ハリス師は、護身のために拳銃を携帯するよう知人に勧められましたが、武器を持つのは恥であるとして、海に投げ捨てたという逸話が残されており、それどころか、町の人々と積極的に交流を重ねていたことでも知られています。

 

 

排外思想の犠牲 - 北の風に吹かれて~独り漫遊記~

東京オリンピックの招致セレモニーで一躍流行語となった「おもてなし」。これはオリンピックだけの問題ではなく、例えば我が町函館も、「観光基本計画」の中で、2023年...

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1877年に最初の会堂が落成した後、大火による建物の焼失、再建が繰り返され、1931年に、現在の鉄筋コンクリート造り2階建ての会堂が完成しました。

会堂内では、1981年にドイツ製のパイプオルガンが設置され、現在でも神聖な音を奏でています。

今回は日中に行ってみましたが、この辺りの教会群は、夜になると綺麗にライトアップされるので、もう少し日没が早くなったら行ってみようと思っています。

実は、夜の教会群を回るというガイドコースもあるので、そちらにもいずれ(目標は9月末まで)チャレンジしてみたいと思います。

 

 

「基督」と書いて「キリスト」と読むのは有名ですが、何故「基督」と表記されるのかはずっと疑問だったので、この機会に少し調べてみました。

元々「キリスト」とは、ギリシア語の「khristos」(「油を注いで清められた者」の意)に由来するとされ、日本に伝来した当初は「キリシト」と発音されていたこともあったそうですが、中国イエズス会によって「基利斯督」と音訳され、それが縮小されて「基督」と表記されるようになったというのが有力説だそうです。

私は大学受験を控えていた高校3年生のとき、全国の大学のガイドブック的な本を読んでいて、東京にある「国際基督教大学」のことを知りましたが、最初は「きとく」と読んでしまい、後に「キリスト」と読むと知ったときは衝撃だったのを覚えています。

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高田屋嘉兵衛の足跡

2024-06-25 21:17:35 | 函館

 

市電「十字街」電停から、「谷地頭」方面に向かって少し歩いた所にある大きな像。

これはなかなかの規模ですよ。一体誰でしょう?

 

 

 

これは、函館の歴史に大きな足跡を残した、淡路島出身の商人、高田屋嘉兵衛の像です。

 

1769年に淡路島で6人兄弟の長男として生まれた嘉兵衛は、1796年に、「辰悦丸」という船で初めて箱館に来航してきました。

当時、箱館は人口約3,000人程度の小さな村で、現在の道南地方では、近江商人が幅を利かせていた松前・江差が栄えていましたが、嘉兵衛が箱館にやってきた理由としては、後に、黒船で知られるペリー提督が「綱知らずの港」と激賞した箱館港の安全性を重視したとか、度々江戸に出入りし、幕府が蝦夷地を直轄地にして箱館に奉行所を置くという情報を幕府から事前入手していて、そんな箱館の将来性に賭けたとか、様々な説があります。

蝦夷地を直轄地とした幕府は、1799年に、嘉兵衛に択捉航路の開設と、翌年には17か所の漁場開拓を命じ、その功績を認められて、嘉兵衛は「蝦夷地定雇船頭」という重要な役に任ぜられ、商人でありながら名字帯刀を許されるなど、幕府と強固な関係を築くこととなりました。
 
択捉島17か所の漁場開拓では、アイヌ民族を登用し、不漁であっても賃金を補償したとされています。
 
この他にも、1806年に箱館が大火に見舞われた直後には、大坂(現在の大阪)から自費で職人を招いて7か所もの掘り抜き井戸を設置したり、現在の金森赤レンガ倉庫一帯を埋め立てて蝦夷地最初の造船所を建設するなど、産業面でも大きな功績を挙げており、また、本業の商売においても、入港に当たり、太陽、星、風の流れをしっかりと読んで時間を判断し、指定どおりの時刻に着いたことで、地元商人の強い信頼を得ていたとされています。

 

 

この像は、嘉兵衛の没後130年の節目の年に当たる1956年に建立の機運が盛り上がり、1958年、函館開港100年を記念して、函館出身の彫刻家である梁川剛一氏の手で製作され、かつて嘉兵衛の屋敷があったとされる場所に近い、「護国神社坂」の下に建立されました。

 

 

 

「護国神社坂」の全景。先にあるのが「函館護国神社」です。

 

 

銅像の近くに、もう一つ碑が建立されています。

 

 

 

「日露友好の碑」。

高田屋嘉兵衛の大きな功績として外せないことに、ロシアの海軍少佐・ゴロヴニンが幕府の役人に捕縛された「ゴロヴニン事件」において、ロシア側の報復として国後島で捕えられ、一旦はカムチャツカ半島へ連行されるも、帰国後に奉行を説き伏せて、ゴロヴニンの釈放に尽力したということがあります。

先程の銅像は、幕府の代理人としてロシア軍艦へ乗り込んだ際の、正装の仙台平の袴、白足袋、麻裏草履を履き、帯刀した姿とされ、右手には松前奉行からの論書(さとしがき)、左手には艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣類を持っている姿が再現されています。

この碑は、1999年、ロシアよりゴロヴニンと、ロシア軍艦の艦長であったリコルドの子孫が来日し、高田屋嘉兵衛七代目を交える形で、その深い友情と邂逅を記念して、日露友好の永遠のシンボルとして建立されています。

 

 

 

 

銅像から少し離れた一角。現在はグリーンベルトになっています。

 

 

ここは、高田屋の屋敷の跡地。

嘉兵衛の跡を継いだ弟・金兵衛が、幕府の許可を得て5万坪(東京ドームの約3倍)もの土地を借用し、その一角に大邸宅を建てたとされています。

 

 

 

 

 

屋敷跡前の道路。

別な記事で紹介しますが、ここは、屋敷に船で乗り入れるための掘割を埋め立てて整備されています。

 

 

ゴロヴニン事件解決後、嘉兵衛は1818年に淡路島に戻り、その後再び箱館を訪れることなく、1826年に亡くなりました。

嘉兵衛は、二弟の嘉蔵を兵庫支店において関西地方のマーケットを把握させたほか、三弟の金兵衛には、箱館で、江戸や松前藩との交渉を行わせ、やがて日本の三大豪商と呼ばれるまでに経営手腕を発揮していましたが、幕府と強いパイプを持つ嘉兵衛の影響力によって、それまで道南で幅を利かせていた近江商人たちは多くの利権を奪われる形となり、奪回の機会を狙っていました。

そんな中、高田屋の雇船がロシア船と友好のために実施した「旗合わせ」が密貿易と疑われ、金兵衛は江戸で厳しい取り調べを受けた後、1833年には、箱館本店ほか三つの支店の財産を没収されてしまいました。

その没収された財産総額は、当時の国家予算の実に25%に相当するとされ、それが一夜にして没収されたということで、箱館は、それまでの繁栄から一転、町から火が消えたような状態になってしまったそうです。

そんな高田屋一族の歴史が刻まれたこの場所、観光ではなかなか訪れる機会のない場所かもしれませんが、現在に至る函館の発展の基礎を築いた人物にゆかりの場所として、訪れてみる価値はある場所だと思います。

 

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ベイエリアを歩こう~2024 その5~

2024-06-22 19:58:23 | 函館

今日の午後、一週間後に迫ったガイドデビューに備え、現地で一人リハをしてきました。

最大の課題である時間配分は、話す内容を整理すれば何とかという感じで、当たり前の話だけど、どのチェックポイントで何を話すかを頭の中で整理することが重要になってくるんだろうなと思います。

緊張しっぱなしだと思うけど、せめて天候に恵まれてくれればと思います。

 

 

ここまでの快晴は望みませんが、雨風さえなく、歩きやすい陽気であるといいなと思います。

ということで、ベイエリア編の最終章(本当はまだまだあるんだけど、ひとまずここで区切ります)は、全て過去に紹介している場所ですが、復習を兼ねてということで。

まずはこちらのチェックポイントから。

何やら角錐系の構造物が見えますね。

 

 

「北電」と書いてありますが、これは「北海道電力」のこと。

そう、これは電柱なのです。

 

 

「北電」の前身である「函館水電会社」が建立したという、現存するコンクリート柱では日本最古となる電柱。

これまでも何度か触れてきましたが、明治期から昭和初期にかけて、函館は100戸以上が焼失する大火が実に26回も発生していていました。

この電柱は、1921年に発生した大火の復興事業の一環として設置されたもので、当時の電柱は木製が主流でしたが、当時頻発していた火災を考慮して、鉄筋コンクリート製の電柱を設けたとされています。

解説文に、「耐用年数を越えてもなお現役」とありますが、細かい部分(というか電力会社の考え)によって解釈が分かれるものの、財務省令では、コンクリート柱の耐用年数は42年とされています。

しかるにこの電柱は、昨年が建立100周年。耐用年数の倍以上現役として稼働していることになります。

 

 

そして、この電柱から少し離れた所にある、もう一本の電柱。

これは1996年に建てられた物ですが、元々、最古の電柱と同型の物が道路を挟んで設置されていたのが、1971年に道路工事によって撤去されてしまい、撤去から25年経って再建されたものです。

当時、2本の電柱は「夫婦電柱」と呼ばれていましたが、現存する2本は73年も差があるため、夫婦どころか、お爺ちゃんと孫娘、いや、どうかしたらひいお爺ちゃんかもしれない感じですかね。

 

電柱と言えばコンクリート製というのが一般的なイメージかとは思いますが、近年新しく建てられる電柱は、コンクリート製から鋼管製に変わりつつあります。

そう遠くない先、コンクリート製電柱自体が珍しいという時代が来るのかもしれませんが、そのような時代になったとしても、この2本は、機能が果たせなくなることがない限り残存していてほしいと思います。

 

 

 

最後は、こちらの像を紹介します。

 

 

女の子のようですね。

 

 

赤い靴を履いていますよ。

ということはもしかして・・・・

 

 

 

そうなんです。野口雨情作詞の有名な童謡「赤い靴」に登場する女の子の像なんです。

それって横浜の歌なのではと思われることと思いますが、諸説あるものの、実は函館が舞台とされているのです。

 

どういうことかと言いますと、この像のモデルである「岩崎きみ」ちゃんという女の子は、1903年、母親の「岩崎かよ」さんに連れられて本州から函館にやってきました。目的は、札幌から車で1時間半ほどの所にある「留寿都村」の農場に移住するためだったそうですが、体も弱く幼かったきみちゃんを連れて行くのは無理と判断したかよさんは、函館に在住していた宣教師のヒュエット牧師(近くにある「日本基督教団函館教会」)にきみちゃんを託したとされています。つまり、この函館が母子の別れの地になったというわけなのです。

その後、きみちゃんは牧師と共に渡米するはずでしたが、横浜で病死してしまいました。

そのことを知らないかよさんは、留寿都村で結婚した夫とともに札幌に移住しましたが、そのとき隣に住んでいたのが、「赤い靴」の作詞者である野口雨情夫妻で、かよさんから話を聞いた野口雨情が、きみちゃんをモデルに「赤い靴」の詞を書いたとされています。

野口雨情は当時、札幌の山鼻地区というエリアに住んでおり、このことから、山鼻地区の住民、学校関係者などが、歌詞に込められた歴史や雨情の思いを後世に伝えるべく協議を重ねた末、このエピソードを広く後世に伝え、「赤い靴」を歌い継いでいくことで、地元の「山鼻公園」という公園に「赤い靴」の歌碑が建立されています。

 

 

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実際にはきみちゃんは亡くなっていたということですが、野口雨情がそのことを知らなかったために、「異人さんに連れられて行っちゃった」という詞が書かれたということなんですね。

赤い靴の少女にちなんだ像は、他にも、横浜や小樽、東京の麻布十番などにありますが、児童福祉活動などに取り組む市民団体「はこだて赤い靴の会」が、親子の絆の大切さを伝えるべく、2009年8月、函館開港150周年に合わせて、この像を設置しています。

 

 

とまあこんな感じで、ベイエリア編はひとまず締めたいと思います。

実はここまで書いてきた文章は、各種資料を参考にして作った、ガイド用のオリジナルテキストの文章を、ほぼそのままコピペしたものです。

なので、どことなく文語体ではなく口語体になっている部分もありますが、お読みいただける皆様にも、その方が雰囲気が伝わるかなと思って、そのままにしておきました。

まだまだネタのストックはありますが、今後もこんな感じで続けていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

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ベイエリアを歩こう~2024 その4~

2024-06-21 19:44:05 | 函館

 

2017年12月に撮っていた写真。

ベイエリアの整備事業が着手された時期で、完成後のイメージ図が描かれていました。

 

 

 

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それから約6年半。

函館を離れている間に、再整備事業が完了していました。

 

 

遊歩道が広く整備され、ゆったりと歩き回ることができるようになっています。

 

 

その一角にある、小さなブロンズ像。

 

 

なかなかのイケメンのように見えますが、誰でしょうねえ・・・。

 

 

ボートに乗っているのかな?しかも裸足?

 

 

正解は、同志社大学の創立者として知られる「新島襄」のブロンズ像でした。

2013年に放送された大河ドラマ「八重の桜」で、綾瀬はるかさんが演じた主人公の伴侶として登場していましたが、実は函館にも縁の人物なのです。

 

新島襄は、現在の群馬県である安中藩の下級武士の家に生まれ、元服後、アメリカの地図書きに触れたり、幕府の軍艦操練所で洋学を学んだことから、当時は鎖国のため禁止されていた海外渡航を夢見るようになりました。

西部地区のほぼ中心部にある「基坂」の中腹に、かつて「諸術調所」という、五稜郭を設計し、「東洋のレオナルド・ダ・ヴィンチ」とも呼ばれていた「武田斐三郎」が教授をしていて、蘭学や砲術、航海術などを教えていた幕府直轄の学問所があり、襄は、この諸術調所に入るために、1864年に箱館にやって来ました。鎖国下にあって、横浜や下田よりも警備が手薄な箱館であれば、海外渡航もたやすいという思いもあったと考えられています。

折悪く、武田は江戸へ帰ってしまっていたため会うことは叶いませんでしたが、塾頭であった長岡藩士「菅沼精一郎」に、ロシア領事館付きの司祭であった「ニコライ」を紹介され、そこに匿われながら英語を学ぶと共に、ニコライに対しては古事記を読み解き、日本語を教えるという関係になっていました。

「ニコライ」については、先日アップした「ハリストス正教会」の記事で、幾つかのエピソードを紹介していますので、再掲します。

 

 

函館ハリストス正教会~ガンガン寺とニコライと~ - 北の風に吹かれて~独り漫遊記~

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このブロンズ像は、彫刻家の「峯田敏郎」氏によって作られた、「記念撮影 未来への始まり-海原-」というタイトルで、2002年に建立されました。

襄が、箱館から密出国すべく、小舟に乗り込んで外国船に向かう姿を再現していますが、密出国のために船に乗り込んだ現場は、実はこの場所ではありませんでした。

 

 

 

ということで、続いては、その密出国の場へとご案内します。

こちらの解説板のとおり、先程のブロンズ像から約350m西へ向かった所にあります。

 

 

 

 

ニコライに匿われていた襄は、剣術指南でロシア領事官に通っていた「澤辺琢磨」と知り合い、襄から脱国の意思を告げられた澤辺は、先日の記事で触れた、「日本最初の気候測量所跡」の「福士成豊」に話を繋ぎました。福士は外国人居留地のイギリス人「ポーター」の商会に努めながら英語を学び、外国船船長や奉行所役人にも顔が効いたことから、密出国の手はずを整えることに協力しました。

襄が脱国したのは6月14日(旧暦)でしたが、この日は澤辺が神主をしていた神明社という神社の例祭の日で、皆が浮かれて警戒も緩むと読んだ澤辺の智恵付けにより、1艘の小舟で沖に出た後、湾内に停泊するアメリカ商船「ベルリン号」に辿り着き、密出国に成功しました。発覚すれば関係者全員死罪も免れないと言われたほどの決死行で、そのとき奉行所の役人に見つかるも、顔の効く福士がうまくとりなしたとされています。

その後の襄は船主などの援助でアメリカで学び、かのクラーク博士からも教えを受けたとされ、キリスト教が解禁になった1874年に帰国し、後に同志社英学校(現在の同志社大学)を創設しました。

 

 

この記念碑は1952年に同志社大学から函館市に寄贈されたもので、「男児決志馳千里 自嘗苦辛豈思家 却笑春風吹雨夜 枕頭尚夢故園花」という、襄が上海で作った漢詩が自筆の碑文として刻まれています。

「我は大志を抱き、遥か異国の地へ馳せ参じる。このことは自ら選んだ辛苦であり、家族のことなどは思っていられないが、風が吹き、雨が降る夜には、家族のことが枕元で夢に浮かぶ」というような趣旨の詩と思われています。

 

 

最後に、「襄」というのは実は本名ではなく、乗船していた「ベルリン号」の船長であった「ジョセフ」の略称として授かったもので、本名は「七五三太」(しめた)と言いました。

 

 

碑の側の海。

初志貫徹すべく、ここから旅立ったということになるのですね。

 

 

 

グーグルマップにスポットとして登録されていませんでしたが、場所は↑のとおりです。

 

 

続いてはこちら。

 

 

「東浜桟橋」とあります。

桟橋として現役ではありませんが、ここも、ベイエリアの散策スポットとして外せない場所です。

 

 

ここは1871年に設置された桟橋で、元は木造でした。北海道の玄関口であった青函航路の発着場所として利用されましたが、1908年に青函連絡船が就航し、函館駅の横に新たな桟橋が開設された1910年以後は「旧桟橋」と呼び名が変わりました。

小型船や作業船が多く往来し、対岸の七重浜へ海水浴客を運ぶ発着地となっていた時代もあり、北洋漁業全盛期には、船が出入港する拠点として賑わいました。

1959年にコンクリート製で整備され、2018年10月からの岸壁改良工事・緑地整備工事を経て2022年4月に生まれ変わり、新たなビュースポットとして、ベイエリアの憩いの場となることが期待されています。

 

 

 

 

そして、その隣にあるのがこちらの像。

 

 

 

 

明治以降北海道の玄関口となった函館の上陸地である東浜桟橋(旧桟橋)に、開道100年を記念して、1968年に建立された記念碑で、ヒグマと船のいかりがモチーフになっています。

一見「シロクマ」のようにも見えますが、「白いヒグマ」であることがポイントです。

碑を設計したのは、当時早稲田大学教授だった函館出身の「明石信道」氏で、かつてJR函館駅前で営業していた棒二森屋などの設計も手がけた方です。

 

 

 

続いてはこちらの建物。

現在は、海上自衛隊の函館基地隊があり、以前仕事で何度かお邪魔したことがあります。

 

 

ここにはかつて、「箱館運上所」という、現在の税関に相当する役所が置かれていました。

 

 

当時の建物がこちら。

海上自衛隊の建物が新たに建てられたとはいえ、残しておいてほしかったなと思います。

 

 

函館基地隊の裏側。

1876年7月18日、明治天皇の函館行幸の際、ここから船に乗って横浜に戻り、二日後の7月20日に無事に到着したのが、現在祝日となっている「海の日」の由来とされています。

特にそのことを示す解説板はありませんが、エピソードの一つとして紹介しました。

 

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