雪が積もったばかりの頃に行ってみた市内の公園。
いきなりですが、場所はこちらです。
地下鉄東豊線「月寒中央」駅1番出口から出てすぐの所にある「つきさっぷ中央公園」です。
国道36号に面しているこの公園を国道側から見ると、こんなレリーフが目に入ります。
サイロの絵から、酪農に関するものかなと一瞬思いましたが、もっとスケールが大きい、地域の開拓の歴史に関するものでした。
札幌市と豊平町の合併。そう、この辺りはかつて「豊平町」という独立した町で、この公園は、当時の役場の跡地なのです。
地域の開拓と言っても、「※八紘学園」にも割と近いことだし、酪農に関するものということでも間違いではないのかもしれませんが。
※「八紘学園」とは?
八紘学園の歴史 - 北の風に吹かれて~独り漫遊記~
昨日紹介した、「北海道農業専門学校農産物直売所」の近くに、何やら歴史を感じさせる建物があります。二棟並んでいるサイロが印象的です。 この古...
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「和處」と書かれているこの碑は、昭和33年(1958年)、国道36号の拡幅と舗装工事の完成を記念して建てられたものです。
自分の職業にも大いに関わってくるものと知り、これは機会を見てPRせねばと思っていました。
その隣にあるこちらは「交通安全の碑」。
「豊平交通安全協会月寒支部」の創立30周年を記念して、昭和52年(1977年)に建立されたもので、この場所で、室蘭~札幌を結ぶ国道36号の交通安全を祈り、人々や車の通行を見守り続けています。
公園の隣にあるこの建物。
先程、「つきさっぷ中央公園」が豊平町役場の跡地と書きましたが、現在は「月寒公民館」として使われているこの建物は、かつての豊平町議会の議場があった場所でした。
赤線で囲まれた範囲は、現在の札幌市南区、豊平区及び清田区に相当する範囲ですが、実はこれが、かつての豊平町の範囲でした。
札幌市は明治以来、「円山村」や「白石村」など、周辺の町や村との合併を繰り返して大きくなってきましたが、その合併の歴史の中で、面積、人口の面で最も規模が大きく、かつ、合併が本決まりになるまで最も紆余曲折があったのが、昭和36年(1961年)この豊平町との合併でした。
当時、この豊平町の人口は約7万7千人と、合併せずとも市への昇格要件を満たしていた、全国でも最も規模の大きい「町」でしたが、戦後、多くの町民が札幌市内に通勤・通学するようになり、人の往来が激しくなると、必然的に札幌市との合併を模索する動きが出始め、札幌市の方も、急増する人口を受け入れる住宅地の確保や、西岡水源地をはじめとする豊富な水源に注目し、豊平町に熱い視線を注いでいました。
昭和32年(1957年)、合併推進を公約とした町長が当選したことで、合併論議は一気に実現に向けて加速化しますが、翌年の町議会で、「単独で市への昇格を目指す」議決が可決されてしまいました。合併反対派の主張としては「合併そのものは反対しないが、まず単独で市に昇格してから、対等な立場で合併すべき」という意見や、「合併すると、基幹産業であるリンゴの栽培をはじめとする農業や森林資源が守られない」という意見などが主流だったそうです。
しかし、そのまた翌年、町議会議員選挙で、合併賛成派が多数を占めたことで、再び合併に向けた動きが加速。昭和36年(1961年)3月10日、議場には400人もの反対派町民が詰めかけ、賛成派議員の入場を阻止しようとして、警官隊が出動するほどの騒動となりましたが、結果的に合併案は可決され、同年5月1日、豊平町は正式に札幌市と合併して、現在に至っているということです。
このような経緯があったことを知ると、もし、当初議決どおり、豊平町が単独で市に昇格していたら、その後札幌市と合併したかどうかは別にして、昇格後の「豊平市」が札幌市とは違う独自の発展を遂げたことで、現在とは違う様相になっていたことも容易に想像がつき、なかなか興味深いと感じます。
豊平町の歴史とは直接関係ないと思いますが、こんな解説板もありました。
ここに横断歩道橋があったんですね。
最近は札幌市内でも、あちらこちらで歩道橋撤去の動きが出てきています。