米町界隈散策の中で、見逃せないというか、ほっと一息つくためにオススメの場所が、「米町公園」という公園。
1956年(昭和31年)に開園し、1988年(昭和63年)に、歴史公園として整備されました。
まず行ってみていただきたいのが、この、灯台型の展望台。
眼下には、小規模ながらも工場地帯、住宅地、港などが一望できます。
あいにくの曇天でしたが、晴れた日には摩周岳や斜里岳、雌阿寒岳や雄阿寒岳、日高山脈の山々を見渡すこともできます。
これは、俳人高浜虚子の「燈台は低く霧笛は欹(そばだ)てり」という文学碑。
釧路市内の文学碑というと、どうしても石川啄木ばかりが注目されがちだけど、啄木以外にもこのように有名な文学者の碑があるということも、もっともっとクローズアップされてよいのではと思います。
その辺も、今後の町歩きのテーマの一つにできればと思います。
因みに、この公園内には、啄木の歌碑もあるのだけど、近々、啄木に特化した町歩きをする予定なので、この公園内にある歌碑についても、そのときまで取っておこうと思います。
1993年に建てられた米町再開発記念碑である「未来の窓」。
円形の窓から、釧路の市街地だけではなく、どんな未来が見えているのでしょうかね。
この碑は、1907年(明治40年)5月に建立された「釧路港修築碑」という碑。
同年3月に、釧路港修築の予算が国会を通過したことを記念して設置されたものです。
釧路港は、1887年(同20年)に道庁英人技師C・Sメークが計画立案し、1899年(同32年)に開港、広井勇博士による調査計画を経て、1908年(同41年)、北海道庁関屋技師により修築計画案が完成しました。
当初は市内の春採湖畔に設置されていましたが、何ゆえ春採湖畔かというと、実は「桜田門外の変」で知られる幕末の大老・井伊直弼と関わりがあります。
直弼は、現在の滋賀県に当たる彦根藩の藩主でしたが、実は釧路には、その彦根藩から人々が移住しており、直弼自身、釧路を「北海の要港」と考え、開港を主張していたさ中に「桜田門外の変」で倒れたという経緯があったことから、移住民たちが、釧路港の開港、修築を直弼の遺徳であると考え、故郷にある琵琶湖に似ていると考えていた春採湖畔に建てられたということだそうです。
その後、1952年(昭和27年)3月に発生した十勝沖地震で一部破損し、1964年(同39年)8月4日、釧路港開港記念日に、現在地である米町公園に移設されました。
この碑の篆額は、直弼の孫にあたる井伊直忠の筆によるもので、刻まれている碑文は、後の衆議院議長・島田三郎の筆によるものです。
「米町公園」の場所は
こちら。