バドミントン男子ダブルス地区大会決勝の試合を見た。
迫力に圧倒された。
お互いの意図を十分に察知しつつ、時にはそれを力でねじふせ、あるいはその裏をかこうとして、高い技術を駆使してシャトルを打ち合うその姿は、とても美しかった。
スポーツの試合はコミュニケーションだとつくづく思う。
さしたる意図なくシャトルやボールを打つ(蹴る・投げる)のは論外としても、自分だけの「つもり」では試合にならない。
誰でも経験があることだと思うが、力量が拮抗し、ある程度相手の意図が読め、あるいは意図の読めない程度が同じぐらいの方が、ゲームは圧倒的におもしろい。
適度に読め、適度に読めない「敵」こそが「楽しいゲーム」を作る。
そしていうまでもないことだが、高い技術を持つ選手同士は「美しいゲーム」を作り上げていくだろう。
選手は個々に、さまざまなレベルの課題を持つ。いっぺんに「美しいゲーム」は求めるべくもない。
だが、ひとつひとつの課題を自分のものとしてクリアしていくと、その先にはこういうゲームができるのだ、という思いは、後輩たちを感動させ、勇気づけるのだろうと思う。
私自身はスポーツをやったこともないし、持続的な練習、修練を続けたこともないけれど、「ことば」について、「表現」についてなら、苦しんだことがないわけではない。
ある面では、必ずしも遠いところではないのかもしれない。
スポーツも一つの表現であり、表現もまたある種の身体に隔てられた場所を超え出ていこうとする運動である、という意味では。