つまりは、知り合いが携帯を変えようかな、と言った一言で、
私はi-phoneがほしくなってしまったけれど、どう考えても具体的継続的必然的にi-phoneを使うシーンを想像できない、ということについて書きたかった。
たぶん、もう少し若かったら、そのままスペック確認小僧になって、カタログ渉猟を始めていたかもしれない。
今でも、何かほしいモノがあれば、カタログを見比べたりはする。
旅行などもそうだ。ペンションやホテル、温泉宿をネットで検索して、観光地の情報も併せて調べながら、時系列的に宿を並べていって、最終的には数種類の宿予約ネットを開きつつ予約していく。
実際の旅行という「現実感」は、そういうシミュレーションのなれの果て、ちょっと嘘をつくと、もう楽しみがあらかた消費されて失われるために登場するかのようだ。
それでも旅行は体験という消えモノだから、消えていってもおかしいとは思わない。
だが、いわゆる玩具的なものは、買った瞬間から愛着が増すと同時に、機能性としてはガラクタ度が蓄積していく、ということが起こる。
すぐに携帯を変える、という、電話会社さんの思惑に対応した従順な振る舞いをしてしまう石化したオーラの残骸のようなものに惹かれる自分の魂のありようを、実際に購買行動に移る前に、衝動が弱まってしまうようになったため(年を取った、ということか)、あらためて冷静に考えるようになってしまったのだ。
これは、50代になって物事が昔より見通せるようになってきた、という最近の実感と、どこかでつながっているような気がしてならない。
つまりは、衝動的購買欲求のエンジンの初期ブーストが長持ちしなくなってきたのだ。
年を取ると短気になる、という。
その気力持続の「短さ」が、逆に結果的に「待てる」という状況を成立させているとしたら?
いいものを少し、適切な形で。
そんな老後を過ごせたらいい、と漠然とは思うけれど、それが単にi-phoneの衝動買いを思いとどまることによって成就するわけではないことぐらいは、私にも分かる。
じゃあ、どうすればいいんだろうね。
10代のころ、先が見えない焦燥の中でいつもグルグル考えていたことを思い出す。
年をとってもグルグルは変わらない。
でも、ちょっと中身やスタイルは変わってきているような気もする。
むしろ、原稿用紙や便せんに、万年筆で字を埋めていこうか、そんな風にも考える。
「遅速度」をかけてもいいのかもしれない。
多くを望まず、どんな「痕跡」を示していくのか、という意味では。
i-padなんてとても便利だけれど、論文や表現がまるごと検索できる検索データベースとして膨大なテキストが用意されてからでも、十分かな、とも思う。
「正雇用」という20世紀後半的社会的活動の現場から、もうすぐリタイアして「個人的」場所に「帰ろう」という意識の中では。
他方、<今>の中で動いている自分にとっては、次々と現れる端末を「ガジェット」として戯れ続けることが、時代の「痕跡」に触れ続けること、でもあるような気にもなる。
役にも立たないものばかり買い続けて、ゴミしか残らない……。
そういうゴミを追いかけつつも、自然の中で山菜を食べて、時代のゴミとは別のことも考える。
そうやって生きていくしかないのだろうね。
私はi-phoneがほしくなってしまったけれど、どう考えても具体的継続的必然的にi-phoneを使うシーンを想像できない、ということについて書きたかった。
たぶん、もう少し若かったら、そのままスペック確認小僧になって、カタログ渉猟を始めていたかもしれない。
今でも、何かほしいモノがあれば、カタログを見比べたりはする。
旅行などもそうだ。ペンションやホテル、温泉宿をネットで検索して、観光地の情報も併せて調べながら、時系列的に宿を並べていって、最終的には数種類の宿予約ネットを開きつつ予約していく。
実際の旅行という「現実感」は、そういうシミュレーションのなれの果て、ちょっと嘘をつくと、もう楽しみがあらかた消費されて失われるために登場するかのようだ。
それでも旅行は体験という消えモノだから、消えていってもおかしいとは思わない。
だが、いわゆる玩具的なものは、買った瞬間から愛着が増すと同時に、機能性としてはガラクタ度が蓄積していく、ということが起こる。
すぐに携帯を変える、という、電話会社さんの思惑に対応した従順な振る舞いをしてしまう石化したオーラの残骸のようなものに惹かれる自分の魂のありようを、実際に購買行動に移る前に、衝動が弱まってしまうようになったため(年を取った、ということか)、あらためて冷静に考えるようになってしまったのだ。
これは、50代になって物事が昔より見通せるようになってきた、という最近の実感と、どこかでつながっているような気がしてならない。
つまりは、衝動的購買欲求のエンジンの初期ブーストが長持ちしなくなってきたのだ。
年を取ると短気になる、という。
その気力持続の「短さ」が、逆に結果的に「待てる」という状況を成立させているとしたら?
いいものを少し、適切な形で。
そんな老後を過ごせたらいい、と漠然とは思うけれど、それが単にi-phoneの衝動買いを思いとどまることによって成就するわけではないことぐらいは、私にも分かる。
じゃあ、どうすればいいんだろうね。
10代のころ、先が見えない焦燥の中でいつもグルグル考えていたことを思い出す。
年をとってもグルグルは変わらない。
でも、ちょっと中身やスタイルは変わってきているような気もする。
むしろ、原稿用紙や便せんに、万年筆で字を埋めていこうか、そんな風にも考える。
「遅速度」をかけてもいいのかもしれない。
多くを望まず、どんな「痕跡」を示していくのか、という意味では。
i-padなんてとても便利だけれど、論文や表現がまるごと検索できる検索データベースとして膨大なテキストが用意されてからでも、十分かな、とも思う。
「正雇用」という20世紀後半的社会的活動の現場から、もうすぐリタイアして「個人的」場所に「帰ろう」という意識の中では。
他方、<今>の中で動いている自分にとっては、次々と現れる端末を「ガジェット」として戯れ続けることが、時代の「痕跡」に触れ続けること、でもあるような気にもなる。
役にも立たないものばかり買い続けて、ゴミしか残らない……。
そういうゴミを追いかけつつも、自然の中で山菜を食べて、時代のゴミとは別のことも考える。
そうやって生きていくしかないのだろうね。