龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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ガジェット好き、ということ(3)

2010年05月23日 14時59分53秒 | ガジェット
つまりは、知り合いが携帯を変えようかな、と言った一言で、
私はi-phoneがほしくなってしまったけれど、どう考えても具体的継続的必然的にi-phoneを使うシーンを想像できない、ということについて書きたかった。

たぶん、もう少し若かったら、そのままスペック確認小僧になって、カタログ渉猟を始めていたかもしれない。
今でも、何かほしいモノがあれば、カタログを見比べたりはする。

旅行などもそうだ。ペンションやホテル、温泉宿をネットで検索して、観光地の情報も併せて調べながら、時系列的に宿を並べていって、最終的には数種類の宿予約ネットを開きつつ予約していく。
実際の旅行という「現実感」は、そういうシミュレーションのなれの果て、ちょっと嘘をつくと、もう楽しみがあらかた消費されて失われるために登場するかのようだ。

それでも旅行は体験という消えモノだから、消えていってもおかしいとは思わない。
だが、いわゆる玩具的なものは、買った瞬間から愛着が増すと同時に、機能性としてはガラクタ度が蓄積していく、ということが起こる。
すぐに携帯を変える、という、電話会社さんの思惑に対応した従順な振る舞いをしてしまう石化したオーラの残骸のようなものに惹かれる自分の魂のありようを、実際に購買行動に移る前に、衝動が弱まってしまうようになったため(年を取った、ということか)、あらためて冷静に考えるようになってしまったのだ。

これは、50代になって物事が昔より見通せるようになってきた、という最近の実感と、どこかでつながっているような気がしてならない。
つまりは、衝動的購買欲求のエンジンの初期ブーストが長持ちしなくなってきたのだ。
年を取ると短気になる、という。
その気力持続の「短さ」が、逆に結果的に「待てる」という状況を成立させているとしたら?

いいものを少し、適切な形で。

そんな老後を過ごせたらいい、と漠然とは思うけれど、それが単にi-phoneの衝動買いを思いとどまることによって成就するわけではないことぐらいは、私にも分かる。
じゃあ、どうすればいいんだろうね。

10代のころ、先が見えない焦燥の中でいつもグルグル考えていたことを思い出す。
年をとってもグルグルは変わらない。
でも、ちょっと中身やスタイルは変わってきているような気もする。

むしろ、原稿用紙や便せんに、万年筆で字を埋めていこうか、そんな風にも考える。
「遅速度」をかけてもいいのかもしれない。
多くを望まず、どんな「痕跡」を示していくのか、という意味では。
i-padなんてとても便利だけれど、論文や表現がまるごと検索できる検索データベースとして膨大なテキストが用意されてからでも、十分かな、とも思う。
「正雇用」という20世紀後半的社会的活動の現場から、もうすぐリタイアして「個人的」場所に「帰ろう」という意識の中では。

他方、<今>の中で動いている自分にとっては、次々と現れる端末を「ガジェット」として戯れ続けることが、時代の「痕跡」に触れ続けること、でもあるような気にもなる。

役にも立たないものばかり買い続けて、ゴミしか残らない……。
そういうゴミを追いかけつつも、自然の中で山菜を食べて、時代のゴミとは別のことも考える。
そうやって生きていくしかないのだろうね。



ガジェット好き、ということ(2)

2010年05月23日 14時43分45秒 | ガジェット
さて、でも、文房四宝的賞翫は、文章を書くということとは別次元だったりもする。
万年筆のコレクターが文章の大量生産者でもなければプロの執筆者でもない、というのは当たり前のことだ。

むしろ、書きたいことに向けられた欲望の激しさは、書く道具など飛び越してしまう、ということもある。

一方、表現することは「他者」に向けられた欲望でもあるから、現実的道具や流通の形態に大きく依存してもいる。
むろん、その「他者」が誰か、っていう話になると、自分だったり、死んだ人だったりもして、現実の電子ネットワークの形態とか文房具とか、端末ガジェットの問題とはほんとうに別の宇宙の話にもなるんだけどね。

そうはいっても実際に表現の欲望を外部化し、痕跡として示すのには、アルタミラの洞窟に出向いて狩りの対象とかを書くわけにもいかないだろう。

誰かにメール一つ送るのでも、いろいろさまざまな要素が絡むのだなあと思う。

ガジェット好き、は別にコミュニケーション好き、でもないのだけれど、カタログ好き、家電好き、携帯好き、PC好き、カメラスペック好き、などの人たちの心には、微妙な「ガジェット」好きのにおいがするのも事実。

コミュニケーションのなれの果てとしての「ガジェット」好きは、あの子供が電話のまねをして遊ぶ「ごっこ遊び」とはまた違った意味で、離陸してしまい、モノ化してしまった「元コミュニケーション的」あるいは「元実用品的」オーラの名残り、というか石化したオーラ、に惹かれているのかもしれない。

そういうものに惹かれる人と惹かれない人との間には、けっこう明確に線が引けそうだ。

携帯が壊れてもいないのに、携帯端末の新品カタログを2分以上見ることができるかどうか。
カタログ萌えから、購買に至るところのドライブ感も、現実的実用性やコミュニケーション自体の重要性からは離陸した、「便利感」という幻想それ自体と戯れつつ、幻想のデータベースとしてのカタログ内部に収まらずに物品を購入してしまう小さな「破綻」への道筋も、興味深いといえば興味深い。






ガジェット好き、ということ

2010年05月23日 14時31分52秒 | ガジェット
「文房四宝」の昔から、文房具ヲタクの話題には事欠かない。
昔→筆、硯、墨、、紙

近代以降は万年筆&原稿用紙。

戦後は手帳&ボールペン・シャープペン。

ちょっと前ならPC
(デスクトップ→ラップトップ→モバイルPC)

今はネットワーク端末
(ポケベル→携帯電話→ネットブック&スマートフォン→i-pad的なるもの)

といったところか。

個人的には、携帯電話では量が書けない、という不満があったけれど、Twitterの140字などを考えると、表現するなら140字以内、みたいな道具と流通の要請によって表現のパッケージの量的スタンダードが決まっていくこともあるのだなあ、と思う。

だらだら長くかけばいいってものでもない。そんな長いものを、誰も読まないだろう、ということか。


大井沢に行ってきた

2010年05月23日 13時04分07秒 | 温泉
男友達と、大井沢の民宿に泊まってきた。

山形県にある月山と朝日連峰の間を流れる寒河江川沿いの民宿。
今の時期は山菜が美味しい。
月山の春スキーもまだまだできるらしいが、スキーを「折って」からはや10年、そちらの方は雪を眺めるだけで終わってしまった。

それにしても、平地では30℃近い暑さなのに、雪解け水をたたえた寒河江川が見える民宿の窓からはいってくる風は、あまりにも爽やか。値千金のものだった。

翌日は朝日連峰の方にクルマで向かったが、大井沢から国道287号線まで出て行く渓流沿いの山道は、一歩間違えば深い川に転落しそうな細い道で、なかなかのスリルでもあった。
このあたり、冬のスキーも夏の釣りも、単なる避暑のキャンプでも、いい場所だな、と思う。
福島市から高速で2時間ほど。時間的にも手頃だ。

「毎年たっぷりの雪に降り込められるのがokなら、これほどいい場所はないよ」
と、地元生まれの民宿のおかみさんが言っていたけれど、その通りだと思う。
51歳でサラリーマンを辞め、民宿を始めて10年、なのだとか。
大井沢にあった奥さんの実家の隣の土地を坪1万ほど(地元の相場では超高かったとか)で200坪買って始めたのだそうだ。

50歳の坂を越えたところ、決断、だなあ、と他人事でなく思う(苦笑)。

さて、自分はこれからどうしよう。
清流の里を吹きすぎる風に当たりながら、しみじみ考えてしまった。
そういう「時間」を週末に持てる幸せを感じつつ。