さてしかし、問題なのは、その「見えてきた」と思ったことを、意図もたやすく、あっけにとられるほど簡単に
忘れてしまう
ようになったことだ。
夢からさめたとき、いいアイディアだったなあ、と思うのに、何がどう良かったのか思い出せないのに似ている。
とすると、「物事の本質が見えてきた」と最近思うようになった、というのは、「白日夢」をよく見るようになった、ということだろうか?
あー、嫌になってしまうなあ。
「分かってきたぞ」感は明らかに増しているんだけれど。
というわけで、最近、書籍にアンダーラインを鬼のように引き、同時にノートにメモを取るようになってきました。
メモを取っても、何が「大事」だと思ったのかが、後で見るともう分からなくなっていて、意味があるのかどうか分からないし、所詮「迷妄」に過ぎないとすれば、病が篤くなった、だけのことかもしれない。
ただ、その「見えた!」感は、死ぬ前に形にしておきたい、と思う。
知人の言うように、ただボケの「きざし」という身体感覚が訪れた、だけ、とも言えるが。
とすれば、今後は長屋のご隠居さんのように、知らないことも知っていることもみんな知っているかのような「姿勢」を生きる、ことになるのだろうか。
無知を隠さない熊さん八っつあんから知を装うご隠居さんへ。
肝心なのは「無知」=「知」の交代じゃなくて、そのズレが生み出す「おかしみのある世界」の多層的で柔軟な「強度」なんだろうから、そこさえ見ておけばいいのかもしれないなぁ。
忘れてしまう
ようになったことだ。
夢からさめたとき、いいアイディアだったなあ、と思うのに、何がどう良かったのか思い出せないのに似ている。
とすると、「物事の本質が見えてきた」と最近思うようになった、というのは、「白日夢」をよく見るようになった、ということだろうか?
あー、嫌になってしまうなあ。
「分かってきたぞ」感は明らかに増しているんだけれど。
というわけで、最近、書籍にアンダーラインを鬼のように引き、同時にノートにメモを取るようになってきました。
メモを取っても、何が「大事」だと思ったのかが、後で見るともう分からなくなっていて、意味があるのかどうか分からないし、所詮「迷妄」に過ぎないとすれば、病が篤くなった、だけのことかもしれない。
ただ、その「見えた!」感は、死ぬ前に形にしておきたい、と思う。
知人の言うように、ただボケの「きざし」という身体感覚が訪れた、だけ、とも言えるが。
とすれば、今後は長屋のご隠居さんのように、知らないことも知っていることもみんな知っているかのような「姿勢」を生きる、ことになるのだろうか。
無知を隠さない熊さん八っつあんから知を装うご隠居さんへ。
肝心なのは「無知」=「知」の交代じゃなくて、そのズレが生み出す「おかしみのある世界」の多層的で柔軟な「強度」なんだろうから、そこさえ見ておけばいいのかもしれないなぁ。