龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

「汝自身を知れ」ということ(2)

2010年07月02日 23時15分50秒 | 身体
サッカーのことは皆目分からないが、見ていると何かしゃべってみたくなる。
スポーツというのは、幾分かは身体を巡る言説によって空疎な再生産を宿命づけられたイベントなのかもしれない、と思う。

さて、ひるがえって自分自身の身体の不調=病気について考えてみると、自分の体についてもまた、なにやら検査と診断によって外から与えられた言説において初めて自覚し、その外側からの言説によって自分自身を改めて意識し、その身体を伴って再組織していかねばならない事態が招来される。

いい医者に診てもらわないから駄目なんだ、という議論は、どこかサッカーの監督批評に似ていないこともない。
診断される前は全く別の意識、別の基準や習慣に支配されていたのに、病気と診断された瞬間、その前の状況には戻れない。

知らぬが仏、ともいえるが、あの監督だったなら、と「知っている」人は、無知を哀れむしかないのだろう。そして「世界を知らないサッカー」をさげすむことになるのだ。

お医者さんと話をしているとときどき「分かっていたらきちんとしようよ」というオーラを感じることがある。「理屈が分からない人なら言わないけれど、あなたは分かると思うから言うのだ」といって治療方法を示し、それにうなずかない患者(わたしのことです)を哀れむように見たり、あるいは「分かっていてもなかなかね」と共感を示したりもしてくれる。

これもどこかで見た情景ではないか。教育の現場で、「今やればいいのに」と思って生徒にそれを示し、指導して、誘惑しようとするのだが、しかし、そううまくはいかない……。

あれ、これはどこかで見たことがある。ああ、そうだ。

シリーズ・哲学のエッセンス『アリストテレス 何が人間の行為を説明するのか』(NHK出版)
にあった、「意志」の問題でもあるねえ。
わかっちゃいるけど止められない意志の弱さにおいて、「知識」と「行為」の選択の問題がクローズアップされていて、
「思慮」と「善きモノ」の関係には、やっぱり「倫理的な徳がからんでくるんだよねえ。

それは自由意思の問題でもある。

いちいち食べたいものを食べる、しゃべりたいことをしゃべる、ということができない中で、「善く生きる」選択をどうしなおしていくのか。
いろいろ考えちゃうなあ。

単なる無知ではなく、単なる現状依存というだけではなく、どう「善きモノ」にコミットする自分の行為を組織だてていくのか、という課題がそこにはある。

主体が理性的に判断して、知の名のもとに行為を統御する、というだけでは答えはでない、ってことだね。
(またこの項つづきます)

馳星周の岡田監督批判

2010年07月02日 20時35分07秒 | 身体
先日の新聞に、たしか馳星周だったと思うが、岡田監督批判を載せていた。

こんなに岡田ジャパン頑張った一色の日本で、敢えて岡田監督批判を書くことは、その点だけみると、ちょっと楽しい。

頑張ったのは監督じゃなくて選手だ、という主張は、どんな名監督の下であれ、主張する人はいるべきだとも思う。

岡田監督を辞めればいい、といって言っていた人たちが、手のひらを返したように岡田礼賛になるよりは、最後まで敵でいる方がずっと役に立つ。

だが、次の部分にきて、どうしても首をかしげざるをえなかった。
重要なポイントなので、引用する。

>。オシム監督が病魔に倒れさえしなけれぱ。どうしても、そう考えてしまう
>。彼ならば弱気に陥った選手たちを一喝しただろう。もっとクリエーティブ
>な戦い方で我々を魅了しただろう。

オシム監督の力量が、岡田監督の指導力よりも一枚上手だろうな、というのは、素人の私にもうすうす感じられる。
だって、岡田監督っていうのは、監督のスーパーサブとして2度も途中出場しているのだから。
だから、岡田監督を前にして「おまえはサブにすぎない」というのはまあ、そういう原稿でお金をもらうのはどうかとも思うけれど、それも別に不要な言説、ではないだろう。

でも、岡田監督を「スーパーサブ監督」というなら、オシムは日本代表監督を、体調不良で投げ出した監督だ。

日本代表監督である岡田の元で、選手たちは、外国開催のW杯で初めて決勝に進出し、その間のディテールとして、すてきな試合を見せてくれた。

敢えて言えば、ベスト16どまりの監督だった、という批判もあっていい。

しかし、絶対に続けることができなかった体調管理不良の監督の名前を出して、現監督を批判するのは、あまりフェアなことではないだろう。
その尻ぬぐいをしたのが岡田なわけだし。

だから、朝日新聞のコメントは、批評ではない、といって良さそうだ。

批評は、個人的な信念やファンタジーの吐露を超え出ていなければならない。結論がファンタジー、ではね。

ただし、岡田監督批判という文脈を離れてなら、オシムがいたらなあー、というのは個人的には賛成。
オシムはいいキャラしてるよね。小説を書いていないときの馳よりも。
何より、その言葉がいい。

オシムの言葉は、一見すると皮肉な言葉遣いだが、単純ではない「複雑な」ものを表現するのに最適なパフォーマンスを持っている。言葉によってサッカーを愛することができる才能っていうのは、凄いことだと思う。そういう「愛」があるよね。
馳のコラムにはそういう「複雑」なものに対する「ロマンチック」な(つまりは単純な)感傷があるばかりだ。

むろん、それは馳の存在が単純だ、ということを意味しない。

だが、その誰であっても本来、愛すべき「複雑」さは、残念ながらこの馳のコラムの言葉の「外」にある。
馳に限らず、重心を言葉の身体の外に持った瞬間、その言葉の身振りは美しさを失うと思うのだが、どうだろうか。