サッカーのことは皆目分からないが、見ていると何かしゃべってみたくなる。
スポーツというのは、幾分かは身体を巡る言説によって空疎な再生産を宿命づけられたイベントなのかもしれない、と思う。
さて、ひるがえって自分自身の身体の不調=病気について考えてみると、自分の体についてもまた、なにやら検査と診断によって外から与えられた言説において初めて自覚し、その外側からの言説によって自分自身を改めて意識し、その身体を伴って再組織していかねばならない事態が招来される。
いい医者に診てもらわないから駄目なんだ、という議論は、どこかサッカーの監督批評に似ていないこともない。
診断される前は全く別の意識、別の基準や習慣に支配されていたのに、病気と診断された瞬間、その前の状況には戻れない。
知らぬが仏、ともいえるが、あの監督だったなら、と「知っている」人は、無知を哀れむしかないのだろう。そして「世界を知らないサッカー」をさげすむことになるのだ。
お医者さんと話をしているとときどき「分かっていたらきちんとしようよ」というオーラを感じることがある。「理屈が分からない人なら言わないけれど、あなたは分かると思うから言うのだ」といって治療方法を示し、それにうなずかない患者(わたしのことです)を哀れむように見たり、あるいは「分かっていてもなかなかね」と共感を示したりもしてくれる。
これもどこかで見た情景ではないか。教育の現場で、「今やればいいのに」と思って生徒にそれを示し、指導して、誘惑しようとするのだが、しかし、そううまくはいかない……。
あれ、これはどこかで見たことがある。ああ、そうだ。
シリーズ・哲学のエッセンス『アリストテレス 何が人間の行為を説明するのか』(NHK出版)
にあった、「意志」の問題でもあるねえ。
わかっちゃいるけど止められない意志の弱さにおいて、「知識」と「行為」の選択の問題がクローズアップされていて、
「思慮」と「善きモノ」の関係には、やっぱり「倫理的な徳がからんでくるんだよねえ。
それは自由意思の問題でもある。
いちいち食べたいものを食べる、しゃべりたいことをしゃべる、ということができない中で、「善く生きる」選択をどうしなおしていくのか。
いろいろ考えちゃうなあ。
単なる無知ではなく、単なる現状依存というだけではなく、どう「善きモノ」にコミットする自分の行為を組織だてていくのか、という課題がそこにはある。
主体が理性的に判断して、知の名のもとに行為を統御する、というだけでは答えはでない、ってことだね。
(またこの項つづきます)
スポーツというのは、幾分かは身体を巡る言説によって空疎な再生産を宿命づけられたイベントなのかもしれない、と思う。
さて、ひるがえって自分自身の身体の不調=病気について考えてみると、自分の体についてもまた、なにやら検査と診断によって外から与えられた言説において初めて自覚し、その外側からの言説によって自分自身を改めて意識し、その身体を伴って再組織していかねばならない事態が招来される。
いい医者に診てもらわないから駄目なんだ、という議論は、どこかサッカーの監督批評に似ていないこともない。
診断される前は全く別の意識、別の基準や習慣に支配されていたのに、病気と診断された瞬間、その前の状況には戻れない。
知らぬが仏、ともいえるが、あの監督だったなら、と「知っている」人は、無知を哀れむしかないのだろう。そして「世界を知らないサッカー」をさげすむことになるのだ。
お医者さんと話をしているとときどき「分かっていたらきちんとしようよ」というオーラを感じることがある。「理屈が分からない人なら言わないけれど、あなたは分かると思うから言うのだ」といって治療方法を示し、それにうなずかない患者(わたしのことです)を哀れむように見たり、あるいは「分かっていてもなかなかね」と共感を示したりもしてくれる。
これもどこかで見た情景ではないか。教育の現場で、「今やればいいのに」と思って生徒にそれを示し、指導して、誘惑しようとするのだが、しかし、そううまくはいかない……。
あれ、これはどこかで見たことがある。ああ、そうだ。
シリーズ・哲学のエッセンス『アリストテレス 何が人間の行為を説明するのか』(NHK出版)
にあった、「意志」の問題でもあるねえ。
わかっちゃいるけど止められない意志の弱さにおいて、「知識」と「行為」の選択の問題がクローズアップされていて、
「思慮」と「善きモノ」の関係には、やっぱり「倫理的な徳がからんでくるんだよねえ。
それは自由意思の問題でもある。
いちいち食べたいものを食べる、しゃべりたいことをしゃべる、ということができない中で、「善く生きる」選択をどうしなおしていくのか。
いろいろ考えちゃうなあ。
単なる無知ではなく、単なる現状依存というだけではなく、どう「善きモノ」にコミットする自分の行為を組織だてていくのか、という課題がそこにはある。
主体が理性的に判断して、知の名のもとに行為を統御する、というだけでは答えはでない、ってことだね。
(またこの項つづきます)