物事が見えてきた、という迷妄感覚(4)
もしくは、ゾンビとなった身体をどう生きるか、の迷妄日記
内田樹『日本辺境論』が気になっていた。
村上春樹の『1Q84』も気になっていた。
そこで、楽天とユニクロの英語公用論の記事と、それに対する反応を読んで、とっても腑に落ちたので、「迷妄」日記として書いておく。
ユニクロ英語公用化に関する毎日新聞の記事
村上龍主宰のメールマガジンで、冷泉彰彦という書き手が、内田樹のブログに触れて、こんなことを述べている。
>、内田樹氏がブログで書いておられた「「仕事はできるが英語はできない」という人間よりも「仕事はできないが英語ができる」
>という人間が高い格付けを得ることになる。」という懸念でしょう。勿論、ミクロの局面ではそういう「言語能力と中身のねじれ」
>という現象は起きるでしょう。ですが、これも結局は乗り越えて行くしかないのです。
冷泉彰彦は、英語の標準化は不可避のこと、と捉え、内田樹は、日本=「辺境」に敢えて身を置く姿勢を示す。
まあ、1企業が何を公用語にしたって好き好きなわけだけれど、身近な1000円2000円の服を売っているなじみのお店の店長さんクラス以上は英語ができないとダメですよ、っていうのはちょっとショックであることも確かだろう。
この二人の文章を引き比べて読んでいたら、ああ、そうか、村上春樹を内田樹が称揚するのはそういうことか、と腑に落ちた。
私たちは日本人として「ゾンビ」になってしまった。
とすれば、「ゾンビ」踊りをどう踊るか、って「主題」がそこにある。
英語で大きな踊りを踊るのか、日本語で辺境の「武道」踊りを踊るのか、は実はどっちだっていい。
いずれにしても「ゾンビ」踊りなのだ。
だからこそ、内田樹は、村上春樹のように一度「死んだ場所」から小説をもう一度語り始める「作者」を称揚することになる。
村上春樹の作品は、空虚な洞穴を巡って、それをのぞき込むものに対して開かれた優れて「大衆的」なゾンビ作品になっている。
ゾンビとは、とりあえずは「内実を欠いた」、という程度の意味に取ってもらっていいけれど、それはやはり一度「死んだ場所」からいかにして「生」を語るか、という主題を抱えている一群の人、といった方が適切かもしれない。
村上春樹の小説には、空虚な洞穴を覗きこむことを可能にする、遅速度の磁場がある。
その洞穴の中の「生」ならぬ「生」を中で描いたのがカフカや安部公房だとすれば、村上春樹はその洞穴を外から中に向かって臨む=覗く人と、中に入って不条理を生きたい人の、双方に手を伸ばし得る。
いずれにしても、「ゾンビ」たちだ。「ゾンビ」であることを認めず、あたかも自分がまだ「生きているかのように」踊りを踊る人たちよりは信用できるけれど、どんな死人踊りを踊るのか、は趣味の問題には止まらない差異もある。
いずれにしても、内田樹は、「辺境」という場所に「日本」を定位して、そこから身体を伴ったゾンビの踊りを踊る。このとき、「他者」の「他者性」は、微妙に多層化・構造化されていくだろう。いや、内田樹のことばだけではない。
私たちのことばもまた、ゾンビのうめきのようになっている。しかも「無自覚」に!
彼岸と此岸の間のズレを生きることを常態化しているのが「今」だ、ということなのだろう。
私たちはみな「ゾンビ」なのだ。
そうだとすれば、中世的な神学論争が好まれ始めるのも、故なしとしない。
わかりにくいことをいじっている、と人は思うだろうか。
しかし、もうすでに「死んでいる」ようなものだ、という「生」の「実感」(=ゾンビ感覚)は、私たちに今もっとも身近なものなのではないか?
生きているという実感から何かを始める、というより、いったん死んでから、生と死のズレを生きるそのズレのありようをリミットまで瞳を凝らして追いかけ、その上で彼岸から此岸に敢えて戻ってくる瞳の強度が切望されている、といってもいい。
そんな瞳のたどる「道」が果たしてあるのかどうか、といえば、ないに決まっているんだろうけどね。
もしくは、ゾンビとなった身体をどう生きるか、の迷妄日記
内田樹『日本辺境論』が気になっていた。
村上春樹の『1Q84』も気になっていた。
そこで、楽天とユニクロの英語公用論の記事と、それに対する反応を読んで、とっても腑に落ちたので、「迷妄」日記として書いておく。
ユニクロ英語公用化に関する毎日新聞の記事
村上龍主宰のメールマガジンで、冷泉彰彦という書き手が、内田樹のブログに触れて、こんなことを述べている。
>、内田樹氏がブログで書いておられた「「仕事はできるが英語はできない」という人間よりも「仕事はできないが英語ができる」
>という人間が高い格付けを得ることになる。」という懸念でしょう。勿論、ミクロの局面ではそういう「言語能力と中身のねじれ」
>という現象は起きるでしょう。ですが、これも結局は乗り越えて行くしかないのです。
冷泉彰彦は、英語の標準化は不可避のこと、と捉え、内田樹は、日本=「辺境」に敢えて身を置く姿勢を示す。
まあ、1企業が何を公用語にしたって好き好きなわけだけれど、身近な1000円2000円の服を売っているなじみのお店の店長さんクラス以上は英語ができないとダメですよ、っていうのはちょっとショックであることも確かだろう。
この二人の文章を引き比べて読んでいたら、ああ、そうか、村上春樹を内田樹が称揚するのはそういうことか、と腑に落ちた。
私たちは日本人として「ゾンビ」になってしまった。
とすれば、「ゾンビ」踊りをどう踊るか、って「主題」がそこにある。
英語で大きな踊りを踊るのか、日本語で辺境の「武道」踊りを踊るのか、は実はどっちだっていい。
いずれにしても「ゾンビ」踊りなのだ。
だからこそ、内田樹は、村上春樹のように一度「死んだ場所」から小説をもう一度語り始める「作者」を称揚することになる。
村上春樹の作品は、空虚な洞穴を巡って、それをのぞき込むものに対して開かれた優れて「大衆的」なゾンビ作品になっている。
ゾンビとは、とりあえずは「内実を欠いた」、という程度の意味に取ってもらっていいけれど、それはやはり一度「死んだ場所」からいかにして「生」を語るか、という主題を抱えている一群の人、といった方が適切かもしれない。
村上春樹の小説には、空虚な洞穴を覗きこむことを可能にする、遅速度の磁場がある。
その洞穴の中の「生」ならぬ「生」を中で描いたのがカフカや安部公房だとすれば、村上春樹はその洞穴を外から中に向かって臨む=覗く人と、中に入って不条理を生きたい人の、双方に手を伸ばし得る。
いずれにしても、「ゾンビ」たちだ。「ゾンビ」であることを認めず、あたかも自分がまだ「生きているかのように」踊りを踊る人たちよりは信用できるけれど、どんな死人踊りを踊るのか、は趣味の問題には止まらない差異もある。
いずれにしても、内田樹は、「辺境」という場所に「日本」を定位して、そこから身体を伴ったゾンビの踊りを踊る。このとき、「他者」の「他者性」は、微妙に多層化・構造化されていくだろう。いや、内田樹のことばだけではない。
私たちのことばもまた、ゾンビのうめきのようになっている。しかも「無自覚」に!
彼岸と此岸の間のズレを生きることを常態化しているのが「今」だ、ということなのだろう。
私たちはみな「ゾンビ」なのだ。
そうだとすれば、中世的な神学論争が好まれ始めるのも、故なしとしない。
わかりにくいことをいじっている、と人は思うだろうか。
しかし、もうすでに「死んでいる」ようなものだ、という「生」の「実感」(=ゾンビ感覚)は、私たちに今もっとも身近なものなのではないか?
生きているという実感から何かを始める、というより、いったん死んでから、生と死のズレを生きるそのズレのありようをリミットまで瞳を凝らして追いかけ、その上で彼岸から此岸に敢えて戻ってくる瞳の強度が切望されている、といってもいい。
そんな瞳のたどる「道」が果たしてあるのかどうか、といえば、ないに決まっているんだろうけどね。