龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
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久しぶりの同級会で

2012年08月13日 19時54分05秒 | 大震災の中で
18年前卒業したクラスの同級会があった。
ちょうど私が今の彼らの年齢だった頃の卒業生。

40名ちょっとのクラスで30名弱の参加は、ちょっとした驚きだった。

高校卒業直後の同級会なら、分かる。
逆に子育てが終わってから、ならそれもありだろう。

でも、働き盛り、子育て真っ最中の30代半ばでの同級会としては破格の参加率だ。

理由は、震災があったからだ、と幹事のIくんが教えてくれた。
3月からずっと連絡先の「聞き込み」を続けていたのだという。

20年前は、携帯電話の番号もメールアドレスも普通の高校生には無縁のものだった。

そう、ポケベルがまだ現役だった時代じゃないかな。

だから、その頃存在しなかった同級生の携帯番号やアドレスを「集める」のはかなり難しい。

実家に電話を掛けて、「○○さんの同級生だった△×ですが」といっても、親しかった者でなければ、胡散臭い電話ととられかねない。

googleとフェイスブックでまず検索をかけ、実家への直電もふくめてジワジワ情報を拾っていったのだそうだ。

5ヶ月もかけて「会いたい」を成就させたI君には頭が下がる。

そこで出会った地元以外(多くは東京組)は、

「福島の人はおとなしすぎる」
「いわきはもっと怒るべきだよ」

「福島のモノは食べられない、ってこっちの人が平気でいうたび、悔しくってね。『みんな普通に食べてますよ!』って思わずいいかえしちゃっった」

「3/11の翌日、実家から家族を呼んだの。ダンナは快くオッケーしてくれたけど、いわきナンバーが二台並んでるのをみた近所の人の反応は微妙だったね」

「僕らは離れていて何もできないけど、福島といわきのことをいつも考えてる。一番大切な場所だもの」

と、口々に語る。

うんうん、とその言葉の全てにうなずきながら、「守り」に入ってしまっている「いわき市民」「福島県民」としての自分を「説明」したりもした。

親や兄弟、親戚を失ったりもし、さらに事故の被害を受け続けている故郷を思う彼らの気持ちが、痛いほど伝わってきた。

と同時に、大飯原発再稼働反対宣言の採択を否決してしまう議会と、「安全宣言」の賭けに「勝った」市長とを持ついわき市は、彼らの「思い」とはいささかズレたところで震災以後を「生きて」もいる。

さらにその「政治」とも違うところで、「いっぱいいっぱい」になりながら日々をなんとかやり過ごしている「自分」もいる。

でも、
福島県民・いわき市民はもっと怒るべきじゃないのか?
という言葉は改めて、ぐっと切っ先を突きつけられた思いがした。

そう、私たちは怒り続けねばならない。

社会的な世界像の裂け目から顔を覗かせた「理不尽さ」への怖れを見失わないこと。
それは、自分の内側がその世界の裂け目に怯えた「初期衝動」を把持しつづけることでもある。

社会的=政治的な動きというより、「親密圏」における「初期衝動」の把持とそれに基づく表現=行為の重要性ということでもあるだろうか。

とにかく「ヤ」だよ、ってことだ。
電力供給の必要性なんてクソくらえ。こんな風に生活の日常像を引き裂く現実を目の当たりにしたら、
「悪いことはいわないから止めておけ」
という以外に選択肢はない。

今なお声高に語られる必要性も安全性も、封鎖された警戒区域の空間の前に立ったら色あせる。
日本であって日本でない場所の前に立てば、そこで起こっていることの意味が分かる。

そう思う。

この「初期衝動」の把持は、実際に安全か、危険か、という選択の問題ではない。
だから、限定された科学的基準の問題でもない。

もっといえば、原発反対、とかいう「政治」=「社会」的行動でもないのだ。

私たちは科学的基準で生きてるのではない、ということを、「人為」=テクネーの裂け目において「知る」ということだし、それは生きるということの宗教的水準としての「裂け目」を体験した、ということだ。

「安全神話」をなおも説得するこの国の「政治」レベルや、科学的に「安全」や「危険」を「声高」に主張する両側の人達には理解できない話かもしれないけれど。

動物的に、あるいは人間的に、ナイーブに怯えることとは異質の、「人為=≠自然」の裂け目に瞳を凝らそうという話だ。

いわきを離れ、遠方で懸命に生きている彼らの「無力」でかつ「切実」な声は、むしろ地元で「守り」に入っている人々よりも的確に、その「初期衝動」を手に持ちつづけているのかもしれない、と感じた。

まだ整理しきれないけれど、間違いなく貴重な一夜だった。