龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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耕坊先生(山田耕一郎)の遺稿集が届いた。

2013年07月17日 14時33分31秒 | 大震災の中で
耕坊先生『ことばの足跡』 山田耕一郎遺稿集が届いた。

仕事の先輩でもあり上司でもあり、尊敬する人物、山田耕一郎氏が亡くなったのは震災後一年半のことだった。
橘高校の校長の時に癌を患いながらも、手術後無事に現場復帰を果たし、 退職後は、震災後の相馬市教育長として活躍しておられた。
激務を引き受けずに養生していればもう少し長生きができたのでは、とつい考えてしまうが、彼を知る人なら誰もが納得する生き方を貫いたというべきだろう。

式辞や祝辞を頼まれるとキチンと原稿を書いて臨む。
その原稿が残っていたのだそうだ。

正直一般に校長というのは、話し下手が多い。
それどころか、1000人近くの人を相手にして語ることの意義さえ理解しない輩すら散見される。
山田先生は丁寧に原稿を準備し、明確かつ簡潔に力強くメッセージを若者たちに送り続けた。
それだけでも無論尊敬すべき先輩だが、会議においても、事なかれの美辞麗句とは無縁の、的確な状況分析と権力?権能のありようとをしっかりと把握した上で、その会議の目指すところを過たず指し示した。
決して当たり前のことではない。
どれだけの困難を抱えつつその高い志を保ち続けたか。

政治を好んだ、というより、その闇を避けずに受け止める精神的な膂力があった、というべきだろう。
語られない沈黙の中に抱えた「孤独」を想像できる者なら、少なくてもその姿勢には共感せざるを得まい。

それでいて文学を語らせたら倦むところなく、校長室で文学談義が出来た。

そういう国語の校長は、稀だ。

もし彼がもう少し長生きしていたら、友人と相馬の御宅を強襲する段取りを考えてもいたのだが、果たせぬ望みになった。

そうはいっても、巻を開けば、そのページごとに少し嗄れた声の響きが甦る。
永く座右に置いて対話する縁としたい。