龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

國分功一郎さんの参議院選挙分析

2013年07月27日 13時58分32秒 | 社会

國分功一郎氏が参議院選挙について言及しています。

党内運営の諸問題
http://www.huffingtonpost.jp/koichiro-kokubun/post_5267_b_3642305.html

今回の選挙で感じたもどかしさをかなりの程度説明してくれています。

肉声の説明をいつも講義で聞いていると、こういう公の場所で國分先生が書くものについてはそれがどんな「効果」を持っているのか本当に(ある種もどかしいほど)丁寧に考えて書いているんじゃないかなあ、という感想を持つ。

いや、講義でしゃべっていることが過激だとかいうのでは全くありません。
何を語り、何を語らないのか、の選択が極めてクリアだ、という感触が共通しているから、その言説の微妙なテイストの違いに「ををっ」となる、ってことです。

政治について語るとき、さらにその感じが強まります。もともと「政治哲学」専門の先生ですからね。
そして、「コトバ」の感覚がハンパじゃない。

その辺りを含めて、よろしかったらぜひ。


デカルトをずらし、ホッブズをずらしたスピノザ

2013年07月27日 13時31分43秒 | 大震災の中で
今、ホッブズを読んでいたら、腑に落ちたことがあるのでメモメモ。

知り合いのカントの専門家に
「スピノザってデカルトとどう違うの?同じでしょ」
と言われたことがある。なるほど、スピノザの「哲学」はデカルトから多くを負っている。

今日ホッブズを読んでいたら、ホッブズの専門家に
「スピノザの政治論ってホッブズでしょ」
と言われそうな気がしてきた。

ある部分は「時代」といって済まされないほどスピノザはその政治論の基礎をホッブズに負っていると感じる。

さて、ではなぜデカルトでもなくホッブズでもなく、スピノザに惹かれるのだろう、と改めて考えると、ホッブズにもかなり感じられる唯物的というか、取りつく島のなさというか、その根本にある「姿勢」がスピノザはより「徹底的」なのだ。
デカルトとの比較でもそうだ。
これはドゥルーズについて國分功一郎氏が指摘するところだけれど、
「超越論的な追究を始めたら、途中でやめるわけにはいかない」
という姿勢についての説明が、相当程度スピノザに当てはまるような気がしてならない。

その徹底性は、結果から遡及して原因にたどり着くようなタイプの思考ではない。
そういう遡及的な思考では「発生」を捉えることはできない。

その「転倒」を無限に遡るのではなく、テキストを読みかつ書く中で「再定義」するというか、ズラしながら、原テキストが求めつつ途中でやめた「問い」をさらにあたかも「自動機械」のように進めていくそのスピノザの「常温核融合」みたいなあっけなさ、が面白いのだ、と分かってくる。

神様の扱いなんても、人間の意識や意志の価値の切り下げ方にしても、スピノザはホッブズと近いテイストの場所にいる。
しかし、だからこそズレる瞬間があって、そこが「うひょっ!」となるのだ。

そこが「自然権」は手放せないとかいうスピノザの書簡の言葉になって現れたり、20世紀も半ばすぎに「マルチチュード」とかいって「再発見」されてしまったりする。

つまり、スピノザはテキストとしては一所懸命神の証明とかしているみたいだけれど、根本的に証明とは異質な場所にある。
というか、それだけで終わらない「裂け目」がある。

だから、神秘主義とか合理主義とか片付けられちゃうのに、片付けきれないのだろう。

その辺り、「むむむ」となる。

以上、メモメモでした。

トマス・ホッブズの『哲学言論』・『自然法および国家法の原理』を読む。

2013年07月27日 12時47分19秒 | 大震災の中で
本文は、科学的な部分を除いて超スピードで流し読みをしたことがあったのだが、今回、訳者でもあり、ホッブズの専門家でもある渡部秀和氏に
「訳者注解」
を読め!
と直接厳命厳命さらた(笑)ので、それを読みはじめた。

これは、メチャメチャ面白い!
このなんというか、即物的というか唯物的というか、17世紀においてキリスト教神学から解き放たれたリアルな自然像や人間像を渇望している、とでもいうか、時代の息吹を感じずにはいられない。

同じ時代というだけでは足りない。
前にもちょっと触れたが、スピノザの政治論の基本は、明らかにホッブズに多くを負っているのではないかなあ、と分かる。
上野修氏が指摘しているようなホッブズとスピノザの「自然権」とかについての違い、国家における「権力」の「発生」する現場とそのメカニズムの違いについては、これからゆっくり勉強していくんですけど、17世紀の哲学書はとにかく「読める」のです。
(國分功一郎先生に、ホッブズとスピノザの関係についてお尋ねしたら、「それはもう少しあとでね」と言われました。)

まあ、普通に勉強するならロックとかルソーとかって流れになるんだろうけれど、そういうのはあんまり興味の中心ではない(お勉強としては必要なんだろうけれど)。
ルソーについては東浩紀の『一般意志2.0』でちょっと出てきましたから、少しだけ勉強しましたが。

神様から解き放たれた17世紀をもう少し、読んで行きたいのだ。

ホッブズの神様の説明とか、面白いですよ。

盲目の人が、炎について知らなくても暖かさがわかるようなものだ

みたいなことを言ってます。まあ、一応第一動者(根本原因?)とかいろいろ言ってるけど、そんなものはどうせ分からん、と。
だから、みたいなね。
訳者注解にもあるように、とっても唯物的なあられもない捉え方をしています。

この「あられもない」感じってとっても気持ちがよくて、ホッブズを読んでいるとそこが奇妙に爽快になる。
訳がいいのかな。

ただ、「恐怖」が最も本質的な感情だとか、人がどうやって「集う」のか?また統一的な権力がどうやって生じるのか?
については、こちらの実感と直ちには一致しないものもあるので、この辺りは注意深く読む必要あり、かも。

スピノザを脇に並べて考えろってことになるのでしょう、私にとっての課題はね。




夏休みといえば、読書、勉強、研究。

2013年07月27日 11時06分30秒 | 書くことについて
曲がりなりにも人文系の高校教師として、夏休みになんにもテキストを読まずに過ごすことはできない。

小説や文庫になった哲学書だったら気軽に持ち歩ける。
最近は結構な厚さの本も
裁断機→スキャンスナップ
でiPadに「収納」できるようになった。

問題は、それを超えた厚さの本である。
例えば、
『哲学原論 自然法および国家法の原理』トマス・ホッブズ
は、厚さ8cmあって、裁断不可能だ。
中身は買った時に流し読みしただけだし。
ミシェル・フーコーのコレージュ・ド・フランスの講義集は配本されたときにパラパラめくったものの、長らく本棚の飾りつけにすぎなかった。ロールズの『正義論』に至っては平積みの底の底に眠っているはず。

裁断機にかけられる本は手軽に割と読むようになった気もするが、余計に「重い本」に手が出なくなる。

今日明日は夏休みで雨の土日、部活の人も職員室にはいない。
8時間一人で籠っている仕事なので、どれかとじっくり付き合ってみようと思う。
まずはホッブズですかね。
これを読むと、次はスピノザとホッブズの聖書解釈について書かれた研究書(面白そうなんだけれど、素人には敷居が高くて最初しか読んでいない)が待っている(書名は埋もれていて現在発掘不能)。
読書における「負の連鎖」ってやつですね。

分かろうと思って読むと、その度に謎が増えるってヤツ。

まあ、それが面白いっちゃ面白いんだけれど、読んでるだけでもつまらない。
なんらかの意味で「今、ここ」=原発事故以後の福島・いわきを生きる「糧」になれば、とは思うんですが。

いわき市の常磐では、今も雷が鳴っています。


カゼで声が出なくなった。

2013年07月27日 09時30分19秒 | 大震災の中で
4年前(震災の前年)に一度、カゼが長引いているな、と思ったらいつのまにか声帯ポリープができていて、夏休みに手術をした。

それ以来、声がかすれてくると不安になる。
今回も、声の出なさ具合がその時に似ていて、単なる炎症なのかそうでないのかが気になっている。
とりあえず炎症を抑えるクスリを出してもらっているのだが、ちょっとドキドキだ。

考えてみれば私は人生の前半で既に、寡黙な人なら一生分になるぐらいの「のシャベリ」を喋ってしまっている。
だからもし声を失ったなら、仕事を辞めて今度は「読み書き」に徹しよう、と4年前も思ったし、今回もそんなことをふと、考えた。

国語教師が声を失っては、今までのような授業はできまい。
もっと若ければその困難を乗り越えるというチャレンジもありえるだろう。
でも、、あとわずか数年を残して「おじいさん」なりかけのくたびれた授業を、わざわざ工夫して生徒に届けるまでのこともなさそうだ……そんな風にも思う。

商売柄、声帯ポリープの経験者は同僚にも多く、「繰り返す」、という話も聞く。
今朝はカゼの症状がだいぶやわらいできた。
ここから二、三日興味しんしん、いや戦々恐々である。





『日々の新聞』の存在感

2013年07月27日 09時17分27秒 | 大震災の中で
いわき市には『日々の新聞』という隔週刊の新聞がある。

福島県には、県内をカバーする地方新聞が2社ある(そしてそれだけでも全国的には珍しい)のだが、いわき市には、『いわき民報』という夕刊紙があり、その他にこの
『日々の新聞』
が発行されている。

ホームページはここ。
『日々の新聞』
http://www.hibinoshinbun.com/


タウン情報誌なら、全国どこにでも溢れているが、これはちがう。

地元からの発信を粘り強く高いクオリティで続ける珍しい新聞だ。
たぶん、アメリカなんかだったら、こういう地方の小さな新聞社というのは、そこで腕を磨き、そこから配信された記事が全国紙に掲載されて、次第に大きなところで活躍するようになる、そういう記者を育てる場所であったりもするのだろう。
たとえば(記憶違いでなければ)、シュルツのピーナッツ(スヌーピー)の漫画もそういうちいさな地方新聞から全国紙に配信されるようになったはず。

小さな目の前のことをきちんと見つめ、思考し、発信しつづけていくことがいかに重要か、を私はこの新聞を読んで初めて体感したような気がする。

全国に宅配しています。よろしかったら一度購読してみてください。
特に、震災以後、全国でいわき市の声を継続的にウォッチできる貴重なメディアだと思いますよ。

ホームページはここ。
http://www.hibinoshinbun.com/