雑感 「スピノザのこと」
12年ほど前のある日、息子の通う大学から「取得単位が足りず進級できない」と連絡がきた。本人に聞くとどうも不登校らしい。その時は「もう大人なんだから」と暢気に構えていが、時間が経っても状況は好転せず、年末「ダメ元」で転勤願いを出す。するとたまたま希望が通り翌年4月から息子との共同生活が始まった。
息子が再び世界への扉を開いていくにはそれから約3年の月日が必要となるのだがそれはまた別の話。
息子との共同生活を始めたちょうどそのころ、私はスピノザ(注)を読み始めたのだった。
スピノザ哲学の主な特徴は次の3つ。
①スピノザは『エチカ』冒頭で「神は世界で唯一の実体である」と証明する。その神は人格を持った超越存在ではなく、自然そのもの、自然の法則・摂理自体のことを指している。スピノザ哲学が汎神論とも無神論とも言われるのはここに関わる。「神即自然」であり、今この世界自体が神、なのだから、外部すなわち「超越」概念は存在しない。唯一の実体とはそういうことだ。
②スピノザは人間の自由意志を否定した上で、あらためて「人間は自由だ」と論じる。つまり自然の摂理(神)に則って生きることこそが自由なのだ、と主張するのだ。例えばテニスが自由にできるというのは、勝手にラケットを振り回すことではなく、法則に従って練習をした結果初めて「自由」になると。だからスピノザにとって「学ぶ」ことは非常に重要だった。この脱構築的な言葉の使い方もスピノザ的だ。
③スピノザにとって「分かる」ことは体験・行為である。デカルトが方法的懐疑によって論理を遡行し、疑って疑ってその極限で「考える私」をつかみ取ったのとは対照的だ。スピノザは「なぜ」を問わない。証明・説得ではなく、うまく行った状態を「描写」しようとする。「分かるときには分かることが分かっている」「分かるときには外部の指標を必要としない」など、内在的理解が重要なのである。スピノザは、デカルトの検証可能な誰でもわかる「(科学的)真理」を中途半端だと批判している。「懐疑」という方法は不十分だ、むしろ真理は体験だ、というのだ。それはある面で仏教の悟りに似ている。親鸞の言う「今ここが浄土」という考えに近いと指摘する研究者もいる。
当時私は、実際には息子のことでさほど深刻に悩んではいなかった。彼は彼の道を行くのだろうし、20歳を過ぎていちいち父親の言うことをきいていてもしょうがない。ただ彼の傍らに立って飯をつくったり酒を飲んだりしながら、父親には父親なりの(ということはおまえにはおまえなりの)真実はあるよということは伝えたいと思っていた。
スピノザは、デカルトと違って明晰判明(科学的・公共的)な誰にでも納得できる真理を提示したり啓蒙したりはしない。真理は体験であり、適切な体験によって真理を内在化する、というのがスピノザの考え方だ。
だからスピノザの説得は弱い。そして学びの内容や方法は、知識として提示しにくい。なにせ体験しなきゃ分からないのだから。
今にして思えば、私は息子と共同生活を続けながら、デカルト的な科学的・公共的な学びよりも、スピノザ的な弱い説得、傍らに立って体験を誘うような哲学の方が、むしろ本当に「他者」と出会うための道筋だ、と肌で感じていたのかもしれない。
スピノザは20代でユダヤ教会から破門され、1ヶ月後には暗殺されそうになる。破門の時、ユダヤ教の先生に「私が先生に弟子の破門の仕方をお教えしましょう」みたいなことを書いたそうだから、かなり薄ら生意気な学生だったらしい。
しかし同時に彼はレンズ磨き職人として質素な生活をしながら哲学的研究をしていた。持っていたのはシャツ2枚、パンツ5枚、ハンカチ7枚、暗殺未遂の時ナイフで刺されたコート1枚、と記録にある。名誉も権力もお金も求めずひたすら真理を探求するというスピノザの姿勢は、むしろそうだからこそ周囲から「危険人物」扱いされることになったのかもしれない。
その後近代は、明らかにデカルト的な世界観の方向に舵を切る。精神と物質(自然)を二元的に分離してその上位に精神を配置し、自然を支配する科学主義・進歩主義・合理主義の枠組みを準備していくことになるわけだ。そして、誰でもが分かる「明晰判明」な知識だけが(科学的)真理とされるようになっていく。
だが、この17世紀の異端の哲学者スピノザの考え方にはもう一つの近代の可能性が胚胎していた。近年の脳科学やIT分野でスピノザの哲学が再認識され、重要視されつつあるともきく。21世紀を生きる私たちにとって、スピノザはもう一度じっくり読み直す価値のあるテキストではないか。
確かにスピノザの真理は一見神秘体験に似ているし説得力も弱い。けれど、スピノザを読んでいると合理的な認識にできることはまだある、と思えるようになってくる。元気が出てくるのだ。私は、怒濤の如くに世界を席巻し続けている資本主義の論理とは別の可能性を、スピノザの後をたどり直しながら、もう少し探ってみたいのである。
ちなみに20世紀を代表する科学者の一人アインシュタインは、「あなたは神を信じますか」という記者の質問にこう答えている。
「もちろん信じていますよ、スピノザの神をね」
(注)スピノザ:17世紀オランダのユダヤ人哲学者。合理主義の立場に立ってこの世界の自然そのものが神だと唱え、当時のキリスト教勢力と鋭く対立した。強い弾圧を受け、生前は主著『エチカ』を出版できないまま死去。しかし熱烈な支持者たちの努力でその直後に遺稿集が発行された。
福島県立湯本高等学校 図書館報56号「雑感」原稿