久しぶりに小説を読んだ気がした。
震災を題材に取った小説なら
いとうせいこう『想像ラジオ』
がぐっときた。
友人の小説家は「震災を題材にした小説はこれで決まりでしょう」、と言っていた。
(アマゾンのレビューを今読んでみたら、真っ二つに評価が分かれていて、「何が面白いんだ?」という読者も多く、なるほどそうかあ、と思った。
私は『解体屋外伝』のいとうせいこうにふさわしい作品だと感じたけれど。
今年になって
天童荒太『ムーンライト・ダイバー』
を読んだ。
一気に読めて面白かったし、ダイバーの相方の船頭の造型などはさすがだと思った。思いを残した遺族の描き方も読む限りにおいて納得。だが、誰かに紹介したいとまでは思わなかった。
ところが2016年4月になって、
彩瀬まる『やがて海へと届く』講談社
を読み、まるであの頃に引きずり込まれるような衝迫力(むかってきてひきずりこむちから、みたいな)を感じた。
作品の「窓」はきわめて小さい。友人(すみれ)を震災で失った悲しみを心に抱き続けようとする私(湖谷真奈)と、遺品を整理することで区切りを付けようとするその友人の恋人(遠野)の3人を巡るお話だ。
説明するのが難しいのだが、これは当然死者を巡る残された二人のお話、というフレームとして最初読まれていく。だが次第に、これはその向こう側にいる死者の「すみれ」のお話でもある、ということになる。
まあ、当然のことだ。
だが、この作品のことばの力学は非常に繊細な手つきで、向こう側の糸とこちら側の糸を丁寧に織り込んで一つの布を織り上げていくのである。
短編連作に「弱い」(=ツボ)という読み手であるこちら側の癖もあるのかもしれないけれど、この作品にはそれがよく似合っている。
そこで繰り返し描かれる靴やほくろや、仕草やことば、そして名前や身振りというきわめて具体的なモノたちが、その三人の物語の「織り上げ」に役立っていく。
いとうせいこうの『想像ラジオ』に向けられた酷評が、もしかしてこの彩瀬まるの『やがて海へと届く』にも向けられたらとても悲しいと思うので、敢えて書いておくが、震災を巡ることばたちにとって大切なのは、「想像力」ではなく、「糸口」だ。言い換えれば、そこで語られてほしいのは「感動」ではなく、「手触り」だ。
私はテクニックとしてではなく、P33の表現に息を飲んだ。
そこには、『想像ラジオ』では饒舌なDJのことばによってなぞられていたものが書き込まれていたからだ。
(私の)魂のことばがそこに書き込まれている、そう思った。
そうしてすすんでいく物語は、三人が主役である場所から、ふと、足を離していく。その瞬間(P202)、読者はだれでもないどこでもない人と場所に出会うことになるわけです。
でも、そのためには一つ一つ具体的なモノへの慈しみの描写が必要でもあったのだと、後から気づかされます。同時にそれは後から気づく以外にないことでもある、とも。
柄の小さい、小説というには躊躇われる中編ですが、やはり傑作と言わねばならないでしょう。
未読の方はぜひ読んでみて下さい。
震災を題材に取った小説なら
いとうせいこう『想像ラジオ』
がぐっときた。
友人の小説家は「震災を題材にした小説はこれで決まりでしょう」、と言っていた。
(アマゾンのレビューを今読んでみたら、真っ二つに評価が分かれていて、「何が面白いんだ?」という読者も多く、なるほどそうかあ、と思った。
私は『解体屋外伝』のいとうせいこうにふさわしい作品だと感じたけれど。
今年になって
天童荒太『ムーンライト・ダイバー』
を読んだ。
一気に読めて面白かったし、ダイバーの相方の船頭の造型などはさすがだと思った。思いを残した遺族の描き方も読む限りにおいて納得。だが、誰かに紹介したいとまでは思わなかった。
ところが2016年4月になって、
彩瀬まる『やがて海へと届く』講談社
を読み、まるであの頃に引きずり込まれるような衝迫力(むかってきてひきずりこむちから、みたいな)を感じた。
作品の「窓」はきわめて小さい。友人(すみれ)を震災で失った悲しみを心に抱き続けようとする私(湖谷真奈)と、遺品を整理することで区切りを付けようとするその友人の恋人(遠野)の3人を巡るお話だ。
説明するのが難しいのだが、これは当然死者を巡る残された二人のお話、というフレームとして最初読まれていく。だが次第に、これはその向こう側にいる死者の「すみれ」のお話でもある、ということになる。
まあ、当然のことだ。
だが、この作品のことばの力学は非常に繊細な手つきで、向こう側の糸とこちら側の糸を丁寧に織り込んで一つの布を織り上げていくのである。
短編連作に「弱い」(=ツボ)という読み手であるこちら側の癖もあるのかもしれないけれど、この作品にはそれがよく似合っている。
そこで繰り返し描かれる靴やほくろや、仕草やことば、そして名前や身振りというきわめて具体的なモノたちが、その三人の物語の「織り上げ」に役立っていく。
いとうせいこうの『想像ラジオ』に向けられた酷評が、もしかしてこの彩瀬まるの『やがて海へと届く』にも向けられたらとても悲しいと思うので、敢えて書いておくが、震災を巡ることばたちにとって大切なのは、「想像力」ではなく、「糸口」だ。言い換えれば、そこで語られてほしいのは「感動」ではなく、「手触り」だ。
私はテクニックとしてではなく、P33の表現に息を飲んだ。
そこには、『想像ラジオ』では饒舌なDJのことばによってなぞられていたものが書き込まれていたからだ。
(私の)魂のことばがそこに書き込まれている、そう思った。
そうしてすすんでいく物語は、三人が主役である場所から、ふと、足を離していく。その瞬間(P202)、読者はだれでもないどこでもない人と場所に出会うことになるわけです。
でも、そのためには一つ一つ具体的なモノへの慈しみの描写が必要でもあったのだと、後から気づかされます。同時にそれは後から気づく以外にないことでもある、とも。
柄の小さい、小説というには躊躇われる中編ですが、やはり傑作と言わねばならないでしょう。
未読の方はぜひ読んでみて下さい。