てつカフェ@ふくしまに行ってきた。
(2016年5月7日)
今回はこんな内容。
第8回本deてつカフェ
課題図書は 「多文化工房『わがままに生きる哲学』(はるか書房)
http://blog.goo.ne.jp/fukushimacafe/e/d46198345e0dcdb4d3079188414326cc
これが実に面白かった。
本を読んだり映画を観たり、絵を鑑賞してからのてつカフェはこの 「てつカフェ@ふくしま」で何度か経験しているが、今回は本当に楽しかった。
まず、題名がいい。
題名をつけるときに 「わがまま」という言葉をカッコに括るかどうか迷ったが、付けなかった、と著者の一人(佐藤和夫さん)がいっていたことがとても腑に落ちた。
わがまま、はどちらかといえばネガティブな意味を含んで受け取られることの多い言葉だから、カギカッコをつければそこに含みがあることは読者にもすぐに分かる。
「メタ的な使い方をしていますよ」という信号になるからだ。
しかし同時にカギカッコを付けて 「わがまま」と表記すると、わがままという言葉が持つ言葉の行為の範囲は少し狭まる。著者の意図にパッケージされて流通する限定感覚が生じるからだ。
ここで考えられているのはある面では自己決定することができる力と、それを実際の場面で使うことについてでもあり、漱石が引用されていることから分かるように 「自己本位」の問題でもあり、それは 「自由」の問題でもある。それは自分の中だけで起こる内面の話ではなく、自分と世界=他者にまたがって広がる出来事なわけだから(わがままってそういうことですよねえ、基本)、簡単にカッコに括ればいいってものでもない。
哲学の専門書がどういう記述の約束を持っているのかは皆目見当分からないけれど、この題名におけるカギカッコなしの わがまま という表現は、そういういろいろ面倒なところを横断的に考えかつ生きることを推奨している。
だから本書にとってふさわしいのだ、と感じた。
次に中身をめくると、一応Q&Aの形式を取っている。だから、この本は一見 「どう生きたらいいか」の相談、つまり人生相談のようにも見える。
が、これもまた一筋縄ではいかない。
一つの問題に複数の著者がそれぞれ回答している。だからまず、答えは一つじゃないんだ!と形式は主張している。
ところがそのてんでな回答者の答えは、その思考の 「基盤」においては一致している。つまりは実にわがままな答えが並んでいる!
(特にその中でも 「田舎の世界市民」の答えは、そんなことをこんな 「人生相談」の形式で書いちゃっていいのか、というぐらい 「わがまま」な回答だ。)
詳細は読者が本文に当たることをオススメするが、どの回答者も自分のわがままな答えを書いているから、私たちは一つ一つの答えが答えになっているのかどうか戸惑い、あるいは突っ込みつつ、それぞれの回答の隙間にある(ようにみえる)自分のわがままと、いつの間にか向き合わされていく仕掛けになっているのだ。
この複数性を抱えた形式は、形式であると同時に、わがままという行為の実際例にもなっている。
もし回答者が一人だったなら、それはその回答者だけの 「正解」=「勝手」として受け取られかねない。だが、この本を読む読者は、回答者がてんでにかつ 熱心にわがままな自分の回答を叙述を辿っていくなかで、結局どの回答に 「依存」することも赦されず、どの答えに同一化することもできず、否応なくじぶんのわがままのありかとその実情、そしてじぶんがわがままであり得たり有り得なかったり、抑圧されていたり、踏みとどまっていたりするリアルと、向き合わされていくのである。
差異、とかズレ、とか、隙間とかいったレトリックはもちろんたいした話ではない。複数性というのもどーでもいい。だが、6人の著者=回答者がよってたかって一生懸命にわがままな回答を組み立てている様子を読んでいるうちに、読者も 「のっぴきならないところ」に立たされていることに気づく仕掛けがここにある、ということが、それだけが重要だ。
みなさんの感想でほとんど唯一共通していたのは、 「身近なことはあきらめられない」という感触だったことからもそれは分かる。
この本は幾重にも成功しているのだ。
加えて、回答者の世代も20代から60代と世代を意識した構成になっている。そのことを著者も意識していたに違いないのだが、驚くべきコトに(あるいは極めてこの本がそのことをうらぎるように)結果としてその意図は無効だった、と著者(の一人)が語っていた。
「世代によって異なるのは向き合っている問題が違うということにすぎない」
というのだ。先ほど共通の 「基盤」のことを書いたが、その 「基盤」の話は、おそらくここにも係わっている。
わがまま、私なりの理解で言い換えると、それぞれがめいめいてんでに 「より良く生きたい」という衝動は、各自の意図や目的、人生観や意識に止まらず、むしろ彼等複数の回答者の回答する行為の複数性の中=間にこそ見えてくる。それが生の基盤だ!
ということなのだろう、ということになる。
もちろんこれは私の神様にもとづく個人的な解釈だ。だが昨日のてつカフェふくしまは、まちがいなくそんな個人的なわがまま(な解釈)も許容しつつ、決定的な答えは、回答の中ではなく、遂行的になされる回答たちの間に生じるし、だからこそ私たちはその隙間でノッピキナラナイわがままのありかを発見もし、戸惑いもしながら、哲学的な問い(もちろん単純な正解ではなく)を問い始めさせられる、そんな面白さに満ちていた。
読者たちは、多く 「肝心な(自分にとって身近な問い)は読み進めにくかった」とこたえていた。
素敵な時間に感謝。本deてつカフェの面目躍如だった、と文学的にしみじみした翌朝でした。
(2016年5月7日)
今回はこんな内容。
第8回本deてつカフェ
課題図書は 「多文化工房『わがままに生きる哲学』(はるか書房)
http://blog.goo.ne.jp/fukushimacafe/e/d46198345e0dcdb4d3079188414326cc
これが実に面白かった。
本を読んだり映画を観たり、絵を鑑賞してからのてつカフェはこの 「てつカフェ@ふくしま」で何度か経験しているが、今回は本当に楽しかった。
まず、題名がいい。
題名をつけるときに 「わがまま」という言葉をカッコに括るかどうか迷ったが、付けなかった、と著者の一人(佐藤和夫さん)がいっていたことがとても腑に落ちた。
わがまま、はどちらかといえばネガティブな意味を含んで受け取られることの多い言葉だから、カギカッコをつければそこに含みがあることは読者にもすぐに分かる。
「メタ的な使い方をしていますよ」という信号になるからだ。
しかし同時にカギカッコを付けて 「わがまま」と表記すると、わがままという言葉が持つ言葉の行為の範囲は少し狭まる。著者の意図にパッケージされて流通する限定感覚が生じるからだ。
ここで考えられているのはある面では自己決定することができる力と、それを実際の場面で使うことについてでもあり、漱石が引用されていることから分かるように 「自己本位」の問題でもあり、それは 「自由」の問題でもある。それは自分の中だけで起こる内面の話ではなく、自分と世界=他者にまたがって広がる出来事なわけだから(わがままってそういうことですよねえ、基本)、簡単にカッコに括ればいいってものでもない。
哲学の専門書がどういう記述の約束を持っているのかは皆目見当分からないけれど、この題名におけるカギカッコなしの わがまま という表現は、そういういろいろ面倒なところを横断的に考えかつ生きることを推奨している。
だから本書にとってふさわしいのだ、と感じた。
次に中身をめくると、一応Q&Aの形式を取っている。だから、この本は一見 「どう生きたらいいか」の相談、つまり人生相談のようにも見える。
が、これもまた一筋縄ではいかない。
一つの問題に複数の著者がそれぞれ回答している。だからまず、答えは一つじゃないんだ!と形式は主張している。
ところがそのてんでな回答者の答えは、その思考の 「基盤」においては一致している。つまりは実にわがままな答えが並んでいる!
(特にその中でも 「田舎の世界市民」の答えは、そんなことをこんな 「人生相談」の形式で書いちゃっていいのか、というぐらい 「わがまま」な回答だ。)
詳細は読者が本文に当たることをオススメするが、どの回答者も自分のわがままな答えを書いているから、私たちは一つ一つの答えが答えになっているのかどうか戸惑い、あるいは突っ込みつつ、それぞれの回答の隙間にある(ようにみえる)自分のわがままと、いつの間にか向き合わされていく仕掛けになっているのだ。
この複数性を抱えた形式は、形式であると同時に、わがままという行為の実際例にもなっている。
もし回答者が一人だったなら、それはその回答者だけの 「正解」=「勝手」として受け取られかねない。だが、この本を読む読者は、回答者がてんでにかつ 熱心にわがままな自分の回答を叙述を辿っていくなかで、結局どの回答に 「依存」することも赦されず、どの答えに同一化することもできず、否応なくじぶんのわがままのありかとその実情、そしてじぶんがわがままであり得たり有り得なかったり、抑圧されていたり、踏みとどまっていたりするリアルと、向き合わされていくのである。
差異、とかズレ、とか、隙間とかいったレトリックはもちろんたいした話ではない。複数性というのもどーでもいい。だが、6人の著者=回答者がよってたかって一生懸命にわがままな回答を組み立てている様子を読んでいるうちに、読者も 「のっぴきならないところ」に立たされていることに気づく仕掛けがここにある、ということが、それだけが重要だ。
みなさんの感想でほとんど唯一共通していたのは、 「身近なことはあきらめられない」という感触だったことからもそれは分かる。
この本は幾重にも成功しているのだ。
加えて、回答者の世代も20代から60代と世代を意識した構成になっている。そのことを著者も意識していたに違いないのだが、驚くべきコトに(あるいは極めてこの本がそのことをうらぎるように)結果としてその意図は無効だった、と著者(の一人)が語っていた。
「世代によって異なるのは向き合っている問題が違うということにすぎない」
というのだ。先ほど共通の 「基盤」のことを書いたが、その 「基盤」の話は、おそらくここにも係わっている。
わがまま、私なりの理解で言い換えると、それぞれがめいめいてんでに 「より良く生きたい」という衝動は、各自の意図や目的、人生観や意識に止まらず、むしろ彼等複数の回答者の回答する行為の複数性の中=間にこそ見えてくる。それが生の基盤だ!
ということなのだろう、ということになる。
もちろんこれは私の神様にもとづく個人的な解釈だ。だが昨日のてつカフェふくしまは、まちがいなくそんな個人的なわがまま(な解釈)も許容しつつ、決定的な答えは、回答の中ではなく、遂行的になされる回答たちの間に生じるし、だからこそ私たちはその隙間でノッピキナラナイわがままのありかを発見もし、戸惑いもしながら、哲学的な問い(もちろん単純な正解ではなく)を問い始めさせられる、そんな面白さに満ちていた。
読者たちは、多く 「肝心な(自分にとって身近な問い)は読み進めにくかった」とこたえていた。
素敵な時間に感謝。本deてつカフェの面目躍如だった、と文学的にしみじみした翌朝でした。