もちろん響き合いを感じる作品は無数にある。
第一に挙げねばならないのは石川淳の大作『狂風記』だ。
まつろわぬものたちが集い、ゴミの山にてヒコとヒメが出会い、「陰陽めでたく一に合して」、世界をエナジーに満ちた混沌へと叩き込むSFとも神話ともファンタジーとも寓意ともつかぬパワフル小説。これをすぐに思い浮かべた。
ただし、後期石川淳の作品はどうしても猥雑さの中にもある種の希薄さを孕む。
「1000年前とはすなわち1000年後のことよ」
という手品の身振りは、震災後のの福島にはちょっと響きにくい恨みがある。
次に思いついたのは、ベタだが野田マップの『アテルイ』だ。確かに大きな枠組みはそういうことでもある。東北の民は、歴史的に大きく捉えるなら中央政府の意向に翻弄され続けてきたことに間違いはない。
だが風煉ダンスの「まつろわぬ民」は、そういう 「権力の物語」のみに収斂しはしない。
むしろそこからはみ出す その後の 「鬼たち」すなわち「私たち」に焦点が当てられている。
三つ目に想起されるのは 「レ・ミゼラブル」だ。
バリケードを権力側の兵隊がそれを押しつぶそうとするのに対して、魂の炎を燃やす鬼たち(即ち私たち)の群舞はあたかも 「レ・ミゼラブル」の一シーンの如くでもある。
だが、それもまた一部を切り取った印象に過ぎない、ともいえる。
「まつろわぬ民」のコトバというものは、定まったカタチをもたず、流動しつづけるのだし、だからこそ、今なお抑圧され続けている心の奥底に火を灯すことができる。
叫びが言葉に変わる時、いつだってそのコトバは 「身体」を離れては意味をなさない。
身体を離れた ことば=「約束」は、私たちをいつの間にか闇に引き込んでしまいかねないのだから。
芝居を観なければ分からない所以である。
歌あり踊りありの2時間半、充実してました。
繰り返しになりますが、山形の公演、ぜひ!
第一に挙げねばならないのは石川淳の大作『狂風記』だ。
まつろわぬものたちが集い、ゴミの山にてヒコとヒメが出会い、「陰陽めでたく一に合して」、世界をエナジーに満ちた混沌へと叩き込むSFとも神話ともファンタジーとも寓意ともつかぬパワフル小説。これをすぐに思い浮かべた。
ただし、後期石川淳の作品はどうしても猥雑さの中にもある種の希薄さを孕む。
「1000年前とはすなわち1000年後のことよ」
という手品の身振りは、震災後のの福島にはちょっと響きにくい恨みがある。
次に思いついたのは、ベタだが野田マップの『アテルイ』だ。確かに大きな枠組みはそういうことでもある。東北の民は、歴史的に大きく捉えるなら中央政府の意向に翻弄され続けてきたことに間違いはない。
だが風煉ダンスの「まつろわぬ民」は、そういう 「権力の物語」のみに収斂しはしない。
むしろそこからはみ出す その後の 「鬼たち」すなわち「私たち」に焦点が当てられている。
三つ目に想起されるのは 「レ・ミゼラブル」だ。
バリケードを権力側の兵隊がそれを押しつぶそうとするのに対して、魂の炎を燃やす鬼たち(即ち私たち)の群舞はあたかも 「レ・ミゼラブル」の一シーンの如くでもある。
だが、それもまた一部を切り取った印象に過ぎない、ともいえる。
「まつろわぬ民」のコトバというものは、定まったカタチをもたず、流動しつづけるのだし、だからこそ、今なお抑圧され続けている心の奥底に火を灯すことができる。
叫びが言葉に変わる時、いつだってそのコトバは 「身体」を離れては意味をなさない。
身体を離れた ことば=「約束」は、私たちをいつの間にか闇に引き込んでしまいかねないのだから。
芝居を観なければ分からない所以である。
歌あり踊りありの2時間半、充実してました。
繰り返しになりますが、山形の公演、ぜひ!