龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

続・観るべし 「まつろわぬ民」風煉ダンス(主演:白崎映美)

2017年06月11日 21時08分16秒 | 大震災の中で
もちろん響き合いを感じる作品は無数にある。

第一に挙げねばならないのは石川淳の大作『狂風記』だ。
まつろわぬものたちが集い、ゴミの山にてヒコとヒメが出会い、「陰陽めでたく一に合して」、世界をエナジーに満ちた混沌へと叩き込むSFとも神話ともファンタジーとも寓意ともつかぬパワフル小説。これをすぐに思い浮かべた。

ただし、後期石川淳の作品はどうしても猥雑さの中にもある種の希薄さを孕む。
「1000年前とはすなわち1000年後のことよ」
という手品の身振りは、震災後のの福島にはちょっと響きにくい恨みがある。

次に思いついたのは、ベタだが野田マップの『アテルイ』だ。確かに大きな枠組みはそういうことでもある。東北の民は、歴史的に大きく捉えるなら中央政府の意向に翻弄され続けてきたことに間違いはない。

だが風煉ダンスの「まつろわぬ民」は、そういう 「権力の物語」のみに収斂しはしない。

むしろそこからはみ出す その後の 「鬼たち」すなわち「私たち」に焦点が当てられている。

三つ目に想起されるのは 「レ・ミゼラブル」だ。
バリケードを権力側の兵隊がそれを押しつぶそうとするのに対して、魂の炎を燃やす鬼たち(即ち私たち)の群舞はあたかも 「レ・ミゼラブル」の一シーンの如くでもある。


だが、それもまた一部を切り取った印象に過ぎない、ともいえる。

「まつろわぬ民」のコトバというものは、定まったカタチをもたず、流動しつづけるのだし、だからこそ、今なお抑圧され続けている心の奥底に火を灯すことができる。

叫びが言葉に変わる時、いつだってそのコトバは 「身体」を離れては意味をなさない。

身体を離れた ことば=「約束」は、私たちをいつの間にか闇に引き込んでしまいかねないのだから。
芝居を観なければ分からない所以である。
歌あり踊りありの2時間半、充実してました。
繰り返しになりますが、山形の公演、ぜひ!


観るべし、「まつろわぬ民」風煉ダンス(主演:白崎映美)

2017年06月11日 20時01分10秒 | 大震災の中で
いわき市アリオスでの二回公演を終えた風煉ダンスの 「まつろわぬ民2017」だが、6/16(金)の山形公演がのこっている。

東北の人は、迷わず観るべし。

古代東北のまつろわぬ民についての芝居やドラマ、小説は繰り返し作られてきた。

この作品もその一連の流れの中にある、とは言える。

たが東日本大震災から6年を経た今、いわきでそして東北でこの芝居を観ることに必然を感じる。

数年スパンで消費してしまえる「物語」ではない。

話はちょっと横道にずれるが、いわきには かつて「ラッシュカンパニー」という演劇集団があった(今もある、といいたいところだが、残念なことにここ最近公演がない)。

私は、風煉ダンスを観ながら、彼ら(ラッシュ)のやっていた芝居のことを思い出していた。

まつろわぬものたちの心の炎を描く、という意味では間違いなく響き合うものがあったからだ。

神話的・伝説的な 「古層」を通奏低音のように響かせながら、それを現代の主人公たちと響き合わせつつ、そのいずれとも違ったリアルを現出させていく舞台の多重性は、瞬間的な表情や身振りの変化一つで1000年の時をまたぎ越してみせてくれる身体=言語の総合表現芸術ならではの魅力となって、観るものの心に火を灯していく。

神話的古層を参照するのは、もちろん一義的には主人公たちだ。だが、現実に苦痛や欠落、抑圧や敗北を抱えているのは主人公たちだけではないだろう。

まつろわぬものたちはいつだって、必ず権力や権力者によってその存在を抑圧され、忘却を強いられ、そのことによって外側からの支配を内面化して生き延びるよりほかに手立てがないところに立たされる。

そしてしかし同時に、まつろわぬものたちは必ず 「記憶」を持つ。幸せなモノ、抑圧を意識できないものは持たないような 「記憶」を。

たとえ表向きは抑圧され、馴致させられたとしても、心の奥底の基層・古層に、外側からはめられた枠にはおさまらない残余を抱えて無意識を生きざるを得ない。

なんのために、誰に向かって抗うのか、改めてみずからの手でそれをつかみ取り直さなければ分からないような所まで追い詰められ、その 「ゴミ捨て場」のような場所から、まつろわぬものたちの戦いは改めて始められなければならないのである。

だからこそ、神話や伝説に依拠するのでもあろう。

その まつろわぬものたちの内在的「契機」を孕むという点で、ラッシュカンパニー(常打ちの小屋は文化センターだったが)と風煉ダンスは通底している。

私はそれゆえに、いわきでひさしぶりに演劇と再会した、と感じた。

演劇は単なる消費=商品としての「物語」ではない。

例えば石原哲也(いわき高校演劇のレジェンド)が、そして例えば勝田博之(ラッシュカンパニーとメリーベルの座付き脚本家兼演出家兼主演)がいわきに蒔いた演劇の火種は、今日に限って言えば観客の胸の中に小さいながら灯りつづけていたといっていいのではないか。

これから、ここから、その火種を作品にして、100年後まで闘っていく魂の出現を待ちたい。

そんな元気をこの舞台はいわきに与えてくれたと私は思う。

山形在住の方にこの思いがどれだけ届くのか分からないけれど、お知り合いがいたら是非、山形の公演を観てみてけろ!と伝えてください。