龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

J2第11節 栃木SC×いわきFC戦もしくは中年男子ファンの、モノローグの醜さについて

2023年04月25日 14時01分54秒 | いわきFC
J2第11節のいわきFCは、栃木SC45アウェー戦だった。
開始わすか2分、フリーキックで福島隼斗決にめられたゴールが決勝点。

まあ、応援する側としても正直ストレスの溜まる試合だった。その後何度かゴールに迫り、栃木の攻撃もギリギリのところで防ぎ、いい展開は見せてくれたものの、勝ち点1は欲しかったなあ、と……(^_^;)

有田が途中出血で交代。
石田も負傷交代となった。
嵯峨選手が左SBで復帰したが、この状況このポジションで本領を発揮するにはいたっていない印象。
なかなか厳しい状況が続いている。

まあでも、まだJ3から昇格して一年目の最初だ。苦しむのは当然ともいえる。
いわきFCラシイサッカーを組み立ててそれを見せてくれる夏以降の「成長」に期待しよう。

まあこの試合はさておき、今日は応援しているサポーターのことについて少し書いておきたい。

今年はホーム、アウェー問わずに都合のつく限りスタジアムで応援すると決めている。
だから、アウェーの岡山戦とホームの群馬戦以外は9試合生で応援してきた。
ピョンピョン飛び続け、声を出して旗を降り続けるガチ応援団の方には及びもつかないが、まあまあ追っかけている方だとおもう。

せっかくアウェーまでくるのだから一生懸命応援してサポートしたい、と思うのがファンの人情だ。
とくに4/12 (水)のアウェー対金沢戦は、寒くて応援の数も約40人程度で、3-0で負けて悲しかったけど、アウェー席の前で挨拶シテル選手を見ていると、ちょっと涙が出そうになって
「おうえんしてるぞ!」
と思わず大声をだしてしまった。
人生をかけて戦ってるプロの若者たちに同情は無用だが、応援する気持ちは伝えたいじゃないですか。特にいわきFCは元来とびきりの高給取りの選手をならべて勝ちをもぎ取るチームじゃない。
若手の選手を育てながら哲学を浸透させていき、組織的に「哲学」のあるサッカーをするチームだ。
だからこそ応援したくなるし、その走りつづけるサッカー倒れないサッカーに共感もしている。

周りを見ると、ぴょんぴょん跳ねつつ旗を振る若者(&大人)のガチファンはもちろんステキ。

そして、子ども連れのご夫婦、年配のご夫婦も、女性が熱心に応援していて旦那さんが黙って見ていると、それをつついて手拍子をうながしたりしている。それはそれは微笑ましい光景だ。

ところが、一つ気になるファン層が。
男の人が独りで応援にやってきて、手拍子もピョンピョン飛びもせずに(もちろんそりゃそんなこと別にしなくていいんですが)、きまったように腕組みをしながら、のべつまくなし試合の批評(と言えば聞こえは良いけど、実質はほぽ悪態)をつきつづけている……
そういう方が散見される。

「コーチかっ」
ってぐらい声出してる。

もしくはそんなふうに「文句たれ」をしないまでも、じっとたって腕組みをしたまま戦況を見つめる……

「監督かっ?!」

と思わず突っ込みたくなる方も。

確かに私も、物好きにも独りでアウェー戦に乗り込み、単身棒を叩いて応援してるわけだから、まあサッカー友だちや一緒にいってくれる友達がいないという意味では境遇に似たようなものを感じないでもない。

でも、わざわざ2h以上かけて(おそらくクルマで)やってきて、ビールも飲まずにぶつぶつとヤジにもならない「つぶやき戦術」でストレスを発散している腕組みおじさんたちは、これで本当に楽しいのかなあ、と思うし、正直その悪態を隣でズッ友聞かされていたらしんどいなあ、と思ってしまう。

そのためいちど席を変えたのだけれど、また同様の方がいて、席があいてるのはそういうことだったか、と後から気づきました。

ホームなら、席ももう少し余裕があるし、熱い人と温度の低い人のゾーンも分かれているから気にしなかったけど、ガチンコファンの横での、「独居中年たちのしらふ腕組み批評」
は、やっぱりしょうしょいいただけない光景ではあったとおもう。

もって他山の石とせねば(苦笑)

彼らを見分けるのは
①しらふ
②腕組み
③仲間なし
④悪態撒き散らし
が特徴なんですが、もう一つありました。
⑤応援アイテム持参なし!

⑤に気づいたとき、わたしは8嵯峨理久選手のユニフォームを着てて良かったーと心から思いました。

ちなみに、応援の仕方はもちろん自由。
文句たれも熱心さの証し、と言ってあげられないこともない。
しかし、悪態は家でDAZNでもみて言ってほしい。
アウェーのスタジアム応援は、もう少し愛に満ちたモノであってほしいな、とおもった次第。

おじさんたち!
批評するなら、突っ込みを入れてくれる友人と楽しく評論しながら見てほしいな。
そういう深い造詣のある批評のやりとりは、勉強になるから隣で聞いていても(蘊蓄も含めて)愉しいし、勉強にもなる。

独りで正しさを主張するごとき、頑固な「哲学者」にならないようにしなくちゃ(笑)

ものろーぐって、地下室でやるもんだよねり




『レヴィナス 移ろいゆくものへの視線』熊野純彦

2023年04月25日 12時40分40秒 | 本を読む
熊野純彦の『レヴィナス -移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫)

を読み始めた。

なんだか、長年の疑問が「溶けて」きそうな気がしている。

『レヴィナス・コレクション』
の文庫を手にしてから、折に触れて何度もページを開いて読もうとはするのだが、とにかく読めなかった。

もちろん、難しい哲学者の、とくに主著と呼ばれるようなものは素人には全く歯が立たないことの方が多い。

解説書を読んで、本人がさほど力を入れていない小著を読んで、書簡を参照して、(自分が幾分か理解でき始めたと思われる)別の哲学者の言葉をヒントにして、ジワジワと理解していくしかない。

お気に入りのはずのスピノザの『エチカ』でさえ、いろいろな先生の講座を受講し、論文を読み、解説本を並べ、たくさんのスピノザ批判を後追いしながら、ようやく面白さを感じてきたのだ。

だが、数あるスピノザ批判の多くは(当然ながら)近代以降の文脈からのもので、腑に落ちるにせよ、突っ込みどころはそこじゃねえだろうと思うにせよ、あるいはそうだね、そこはスピノザの弱いところかもね(17世紀だし)みたいなこともあるにせよ、まあ理解しやすい。

一つのものの見方をある程度体得して、自分のものの見方が「変換」される体験をくぐると、三つ目以降のものの見方についての理解のしやすさが「変化」する。そういうことを学んだような気がする。

たとえていえば、全く別のOSについて勉強することによって、自分が今まで思考してきたその思考を走らせている自分のOSについても認識できるようになるというようなことだろうか。

ところが、レヴィナスについてはそれがうまく行かなかった。

たとえばフーコーはあの大著が読めない、デリダの考え方の大枠は理解できても、テキストが本当に読めない、ということはある。カントの3批判、解説を読んで分かった気になっているとか、ホッブズのリバイアサン、途中で挫折したままだ、とか、そういうことは素人の自分にとっては当たり前のことだ(残念!)。

文学作品なら、ある程度商売だから無理にでも読み切るということはある。
大江のだらだらながい小説でも、100ページまで乗りきれば面白くなる、と思って読めたし、その経験は(順序はぎゃくなのだろうが)ガルシア・マルケスの読破にも役に立った。苦手なドストエフスキーでも、大人になってから(遅い!)修行だと思って読んだりもしている。そして、文学作品はどんなに読むのが難しくても、読んでみればそれはそれで面白い。

ところが、レヴィナスは全く違う。
根本的に、何がなんだか分からないままなのだ。

「顔」とか「他者」とか、何かに取り憑かれたようなこだわりが尋常でないものを感じさせられるキーワードがそこにあるのに、何か今ひとつつかめない、もどかしさを覚える。

スピノザと「OS」が違う、というのは分かる。

そして、よく分からないけれどスピノザ批判の論調はきわめて厳しい。
ここを理解できるようになりたい、と思いつつ何年もそのままにしてきた。

この熊野純彦さんのレヴィナス論は、それ(読めなさあ・分からなさ)を「手触り」から説き起こしてくれるような気がしている。

レヴィナスは、弟子に対して

「問題はこうです。<自分が存在していることで、ひとはだれかを抑圧しているのではないか>このようにして、まさにそのとき、じぶん自身のうえに安らい、<私>は存在するという同一性のもとにとどまりつづけていた、自己同一的な存在者が、じぶんには存在する理由があるのだろうか、と自問することになるのです。」

と語っているという。

なんと受動的というか強迫的というか、とにかく自己と他者の関係を極限まで突き詰めようとする身振りが見えてくる。
熊野純彦さんは、それを丁寧に丁寧に解きほぐしながら説明していく姿勢を止めない。
ありがたいことだ。

ホッブズが発明した「コナトゥス(自己保存の傾向性)」という概念を根本的に問い直すのがレヴィナスだという説明も、腑に落ちる。
そうか、そりゃホッブズを継承しつつある面で書き換えながら思考していったスピノザにもこの「コナトゥス」を称揚する姿勢は間違いなく顕著に存在する。
合わないわけだ。

スピノザは、世界=自然=神を唯一の実体と捉え、その外部を断固拒否する。神=自然、以上、である。
レヴィナスは、徹底的に世界と自己の隔たりにこだわり続ける。
もちろん、意識以前の欲求の享受レベルでは、そんな隔たりを動物と同様生まれたての子供は感じてはいない。
しかし、動物ならぬ人間が「生きる」ということは、その世界と自己の隔たりおよびその結節点となる身体の関係について、向き合い直し、捉えなおしてこそ、初めて成立することに違いない。

自分として納得のいく結論はまだまださきだが、いろいろ考えるきっかけにはなりそうだ。