6月18日(日)曇り【亡き兄の手紙 貧困時代】
母のベッド周りが、汚れているので片付けていたら、亡き兄の手紙が出てきました。日付はありませんが、おそらく私が12歳の58年前のものです。昭和34年、日本全体がまだ経済的に貧しい時代ではないでしょうか。兄は大学生だったと思います。私は中学生になるとき、弟は小学4年生から故郷を離れて兄たちとともに東京で暮らすことになったころの手紙です。故郷の両親に向けての手紙です。
「拝啓 お手紙大変遅れてすみません。お二人ともお元気でしょうか。こちらはY男もM代も元気すぎて困るほどです。(略)二人の教科書代が二千五百円くらいかかるらしいのですが、お母さんから来るお金を待っていると間に合わないので何とか買ってやるつもりです。二人の服などは予定通りにゆかず五百円くらい出てしまいました。それに二人と一緒にいると目に見えないお金がでるものです。Y男の服(上下)1000円、靴下(長いのとソックス)270円、M代の長靴下250円、ズック(二人分)440円(上ばき)、靴(二人分、ビニール)750円(下ばき)、下着285円、靴入れ100円、以上です。これでみると1100円ほど予定より超過しています。
僕のバイトのお金が入るのも今月分は今月末ですし、申し訳ありませんが、あと最低三千円、四千円か五千円送っていただけないでしょうか。部屋代も足りません。どうぞよくご理解下さってご送金下さい。お米の方もどうぞ送って下さい。
ではまたお便りいたしますが、どうぞ、お元気で。お身体に充分お気を付けてお働きください。」
このような手紙です。このころ母は40歳ごろです。兄たちは、幼い妹と弟を抱えて、東京で一緒に暮らさなくてはならなくなり、少ない仕送りの中で、苦労していたのですね。両親ももちろん大変でしたでしょう。
しかし、私も弟も、この頃、言うところの「子どもの貧困」に当たると思いますが、全くそんなことを意識したことがありませんでした。貧しいとも思わなかったような気がします。おやつやお菓子というものを知ったのは、小学校時代営林署に勤めている人の家に遊びに行ったとき、はじめて食べさせてもらった記憶がありますが、中学時代、ほとんどお菓子を食べた記憶はありませんし、食べたいと思ったこともありませんでした。中学時代はお金持ちであろう同級生の上落合のお家に遊びに行ったとき、たしかおいしいお菓子とお茶をご馳走になった記憶があります。
ほとんど、公園に遊びに行ったり、勉強に燃えていましたので、貧しいと思う余地もありませんでした。テレビが普及したのは高校時代だと思いますので、他の生活や世界を観ることもありませんでした。
しかし、兄たちが、幼い妹や弟を抱えて、お金の苦労をしていたことを改めて知りまして、亡き兄に感謝しました。
母も、いつも子供から来る手紙は、もう少しお金を送って下さい、という手紙ばかりで苦労したと思います。家族の苦労のお陰で、育ってきたのだと感謝している朝です。今朝は、兄が好きだったじゃがいもと玉ねぎのお味噌汁をつくって霊前に供えました。
皆さんは、どのような少年少女時代を過ごされましたか。
(竹の緑がとても美しいです。しばらく切らないでおきたいと思っています。)