6月26日(水)晴れ【好夢 その2】
蒸し暑いですね。さて、「好夢」に関しまして、今朝目が覚めました時、本師の遺稿集の中に、本師がお書きになった「好夢」という項があったことを思い出しました。
確かに私は行者(あんじゃ)として仕えていた時、ぼーっとしていたとは思いますが、50歳から駒澤大学に入学しまして、大学院の時代に『宗教の風光 余語翠巖老師遺稿集』という書物を、編集し出版させてもらったのです。
そうです、その中にたしか「好夢」があったのです。
前置きが長くなりましたが、そのページを少し書き抜きますので、ご読みくださいませ。
好夢
法華経安楽行品の最後の偈の中に
常に是の好夢あり
とある。その次に続く讃歌は釈尊の生涯を簡潔な表現で述べられてある。この文字は百福の相 荘厳せる釈尊への讃歌であることは、前後の文意からよくわかることである。されど、迷妄と苦慮の中にある吾人の障害はなんと観ずればよいのか。
思うに、世に生きてある吾人の障害は哀歓相半ばし、苦楽相交じる。それが善悪を分かち美醜を立て、愛憎に彩られる分別の所産であることとうけとっても、善悪、美醜に彩られて、そうせずにはおれぬ根本無明を如何ともすることにできない。
関東大震災に苦難をうけて、何がゆえにこの苦難をうけねばならぬのか。世に神佛はないのかと、恨心を抱いたときに、今受けているこのすがたも、良し悪しと判断するそのことが間違いであって、良し悪しの判断は神、佛の側にあることだと氣が付いて、目からうろこが落ちたようにはっきり心がおちついたという述懐をきく。
順縁と逆縁と、気楽と苦難とにあざなわれて生涯を過ごし行くそのままの全体が、天地の命そのものと氣付く時に、判断夫れ自身が余計な分別とわかる。お互いにわがまま勝手な見込みをやめる時に、四隣にさわやかな天地が開ける。
(中略)
道了さまに抱かれてある生活の中には順逆両縁共に道了さまのお授けということに氣付かせていただくことである。之が深いご信心のあり方であり、その時に私どもの全生涯、そのままに「好夢」と感ずることができるのである。(『大雄』誌 昭和53年 錦繍号)