8月24日(木)曇り【功徳を積むということ】
功徳を積む、ということを考えてみた。19日の記事で台湾の尼僧さんのお母さんがお亡くなりになる前に、功徳を積むために、殆どの蓄えをお寺に寄付をした、ということを紹介した。果たしてお寺に寄付をすることが本当に功徳なのかを考えてみたい。
功徳には「善を積んで得られるもの、いわゆる徳」という訳がある。他にも「善い行い」とか「善行の結果として報いられる果報」という意味などが、中村元博士の『仏教語大辞典』には書かれている。
とすると決してお寺だけに限って使われる言葉ではない。重い荷物を持っている人がいたら、手助けするのも功徳、体の弱い人を助けるのも功徳、災害の援助(金銭も労働)も功徳、困っている子供たちを応援するのも功徳、社会には限りなく功徳を積めることが溢れている。
その結果なにか果報が得られるかというと、はっきりと果報がある、というべきであろう。なによりも豊かな心が得られるのである。果報を求めるべきではない、ということの方を強調する傾向は理屈が勝ちすぎているように思う。お釈迦様も善行を積んだ人には「天に生まれる」と言われているのである。
ところで禅宗では次の達摩さんの無功徳の話がある。
帝問曰。朕即位已來。造寺寫經度僧不可勝紀。有何功。師曰。並無功。帝曰。何以無功。師曰。此但人天小果有漏之因。如影隨形雖有非實。帝曰。如何是真功。答曰。淨智妙圓體自空寂。如是功不以世求。(『景徳伝燈録』巻3 菩提達摩章)
〈訓読〉
帝問うて曰く、「朕(チン)即位已來(イライ)、造寺、寫經、度僧、紀するに勝(タ)ゆべからず。何の功か有る。」師曰く、「並(ナ)べて無功。」帝曰く、「何以(ナニヲモッ)て、功無からん。」師曰く、「此れは但だ人天の小果、有漏の因なり。影の如く形に隨って有ると雖も實にあらず。」帝曰く、「如何なるか是れ真の功。」答えて曰く、「淨智妙圓の體、自ら空寂。是の如き功は世に以て求めず」と。(淨智は妙圓にして、體、自ら空寂。の読み方の方が4字3字で切る読み方としてよいのだが、あえてこのように読んでおく。)
〈拙訳〉
(梁の)武帝は尋ねた、「私は即位以来、記すことができないほどの多くの寺を造り、経典を写させ、国民が僧尼となることを許可してきた。どのような功徳があるでしょうか。」達磨大師は答えた、「全て無功徳」と。武帝は尋ねた、「なんで功徳が無いと云うのでしょうか。」師は答えた、「あなたが尋ねることは人間界、天上界における小さな果報であり、煩悩のもとである。たしかに功徳ある形は影のようにあるようだが、真がない。」武帝は尋ねた、「では真の功徳とはなんでしょうか。」師は答えた、「汚れのない智慧をそなえた完全な本質は空寂そのものである。これこそが功徳であり、他に何があろうか」と。 (*小果は普通は小乗のさとり、と訳す。)
功徳について隨分と難しいことを云われている。達磨大師は武帝の造寺や写経や度僧に対して「無功徳」と答えている。しかしこれは全く否定したのではなく、武帝がそのことの見返り(果報)を求めることを誡めたのであり、造次や写経、度僧、そのこと自体は功徳そのものである、と功徳について説かれている、とこれは読み解かれるようである。「淨智妙圓の體、自ら空寂。是の如き功は世に以て求めず」の訳についてはここが大事なところではあるが、今回は上記の拙訳のみにてお許しを。
しかしこのような難しいとらえ方が、現代の禅宗における功徳のとらえ方において人々を惑わせていると私は思う。
見返りを求めるな、という前に、「功徳を積みなさい」と説くべきではなかろうか。寺への寄附ばかりではなく、社会に対してそれぞれができることの徳を積んで生きていくことを、素直に説く勤めがあるのではなかろうか。
それでは寺に対して金銭的、物質的な功徳を積む意味はどこにあるのだろうか、ということを考えると、寺は僧伽(ソウギャ)の住むところであり、僧伽は福田であるからだろう。福田とは道を教え導いてくれ、真の幸福の種を心に蒔いてくれる田のようなものをいうのである。(福田とはもともとは四方僧伽-四方のどこから来た修行僧でも受け入れる教団のこと-に対していわれたようです。)*注:前記の訳は間違いと、Dr.Owlからご指摘を頂きました。【四方僧伽とは、四方の一切の比丘・比丘尼の集団という意味です。全地域の出家者(正員に限る)の全体を四方僧伽というのです。】
葬儀や仏事は寺の役目の一つにすぎない。大事なことは誰をも静寂なる世界に導いてくれること、仏の世界に導いてくれること。他にもいろいろの役目はあろうが、それらの力量ある人々を僧侶というのであろう。またそうなろうと修行している姿を僧侶というのであろう。社会への貢献や寄附、福田への寄捨、これらを功徳を積むというのであろう。功徳を積むことは功徳がある。勿論お釈迦様も言われた。どのような功徳があるかは、功徳を積んだ人それぞれがわかることでもあろう。
*今年の5月19日の火災で本堂が全焼してしまったお寺があります。拙尼が申し上げるのは恐縮ですが、ご住職は素晴らしいお坊様です。再建はとても大変です。功徳を積ませていただけるこのような機会は千載一遇の機会ですので、ご紹介させて下さい。個人情報保護の問題もありますが、新聞で支援についての記事が掲載されていますので、当ブログにも掲載させて頂きます。
〒018-3452 秋田県北秋田郡鷹巣町七日市 龍泉寺 住職佐藤俊晃老師
電話(0186-66-2032)
功徳を積む、ということを考えてみた。19日の記事で台湾の尼僧さんのお母さんがお亡くなりになる前に、功徳を積むために、殆どの蓄えをお寺に寄付をした、ということを紹介した。果たしてお寺に寄付をすることが本当に功徳なのかを考えてみたい。
功徳には「善を積んで得られるもの、いわゆる徳」という訳がある。他にも「善い行い」とか「善行の結果として報いられる果報」という意味などが、中村元博士の『仏教語大辞典』には書かれている。
とすると決してお寺だけに限って使われる言葉ではない。重い荷物を持っている人がいたら、手助けするのも功徳、体の弱い人を助けるのも功徳、災害の援助(金銭も労働)も功徳、困っている子供たちを応援するのも功徳、社会には限りなく功徳を積めることが溢れている。
その結果なにか果報が得られるかというと、はっきりと果報がある、というべきであろう。なによりも豊かな心が得られるのである。果報を求めるべきではない、ということの方を強調する傾向は理屈が勝ちすぎているように思う。お釈迦様も善行を積んだ人には「天に生まれる」と言われているのである。
ところで禅宗では次の達摩さんの無功徳の話がある。
帝問曰。朕即位已來。造寺寫經度僧不可勝紀。有何功。師曰。並無功。帝曰。何以無功。師曰。此但人天小果有漏之因。如影隨形雖有非實。帝曰。如何是真功。答曰。淨智妙圓體自空寂。如是功不以世求。(『景徳伝燈録』巻3 菩提達摩章)
〈訓読〉
帝問うて曰く、「朕(チン)即位已來(イライ)、造寺、寫經、度僧、紀するに勝(タ)ゆべからず。何の功か有る。」師曰く、「並(ナ)べて無功。」帝曰く、「何以(ナニヲモッ)て、功無からん。」師曰く、「此れは但だ人天の小果、有漏の因なり。影の如く形に隨って有ると雖も實にあらず。」帝曰く、「如何なるか是れ真の功。」答えて曰く、「淨智妙圓の體、自ら空寂。是の如き功は世に以て求めず」と。(淨智は妙圓にして、體、自ら空寂。の読み方の方が4字3字で切る読み方としてよいのだが、あえてこのように読んでおく。)
〈拙訳〉
(梁の)武帝は尋ねた、「私は即位以来、記すことができないほどの多くの寺を造り、経典を写させ、国民が僧尼となることを許可してきた。どのような功徳があるでしょうか。」達磨大師は答えた、「全て無功徳」と。武帝は尋ねた、「なんで功徳が無いと云うのでしょうか。」師は答えた、「あなたが尋ねることは人間界、天上界における小さな果報であり、煩悩のもとである。たしかに功徳ある形は影のようにあるようだが、真がない。」武帝は尋ねた、「では真の功徳とはなんでしょうか。」師は答えた、「汚れのない智慧をそなえた完全な本質は空寂そのものである。これこそが功徳であり、他に何があろうか」と。 (*小果は普通は小乗のさとり、と訳す。)
功徳について隨分と難しいことを云われている。達磨大師は武帝の造寺や写経や度僧に対して「無功徳」と答えている。しかしこれは全く否定したのではなく、武帝がそのことの見返り(果報)を求めることを誡めたのであり、造次や写経、度僧、そのこと自体は功徳そのものである、と功徳について説かれている、とこれは読み解かれるようである。「淨智妙圓の體、自ら空寂。是の如き功は世に以て求めず」の訳についてはここが大事なところではあるが、今回は上記の拙訳のみにてお許しを。
しかしこのような難しいとらえ方が、現代の禅宗における功徳のとらえ方において人々を惑わせていると私は思う。
見返りを求めるな、という前に、「功徳を積みなさい」と説くべきではなかろうか。寺への寄附ばかりではなく、社会に対してそれぞれができることの徳を積んで生きていくことを、素直に説く勤めがあるのではなかろうか。
それでは寺に対して金銭的、物質的な功徳を積む意味はどこにあるのだろうか、ということを考えると、寺は僧伽(ソウギャ)の住むところであり、僧伽は福田であるからだろう。福田とは道を教え導いてくれ、真の幸福の種を心に蒔いてくれる田のようなものをいうのである。(福田とはもともとは四方僧伽-四方のどこから来た修行僧でも受け入れる教団のこと-に対していわれたようです。)*注:前記の訳は間違いと、Dr.Owlからご指摘を頂きました。【四方僧伽とは、四方の一切の比丘・比丘尼の集団という意味です。全地域の出家者(正員に限る)の全体を四方僧伽というのです。】
葬儀や仏事は寺の役目の一つにすぎない。大事なことは誰をも静寂なる世界に導いてくれること、仏の世界に導いてくれること。他にもいろいろの役目はあろうが、それらの力量ある人々を僧侶というのであろう。またそうなろうと修行している姿を僧侶というのであろう。社会への貢献や寄附、福田への寄捨、これらを功徳を積むというのであろう。功徳を積むことは功徳がある。勿論お釈迦様も言われた。どのような功徳があるかは、功徳を積んだ人それぞれがわかることでもあろう。
*今年の5月19日の火災で本堂が全焼してしまったお寺があります。拙尼が申し上げるのは恐縮ですが、ご住職は素晴らしいお坊様です。再建はとても大変です。功徳を積ませていただけるこのような機会は千載一遇の機会ですので、ご紹介させて下さい。個人情報保護の問題もありますが、新聞で支援についての記事が掲載されていますので、当ブログにも掲載させて頂きます。
〒018-3452 秋田県北秋田郡鷹巣町七日市 龍泉寺 住職佐藤俊晃老師
電話(0186-66-2032)
功徳なしといってしまっては、身も蓋もなくなってしまうと思います。
それは達摩大師の言う「淨智妙圓の體、自ら空寂。是の如き功は世に以て求めず」ここのところで、まさに無の功徳はこの意味になるでしょう。
コメント有り難うございます。
お久しぶりです。
四方僧伽について上記のような説明を与えておられますが、間違っていますよ。
四方僧伽とは、四方の一切の比丘・比丘尼の集団という意味です。全地域の出家者(正員に限る)の全体を四方僧伽というのです。
訂正いたします。