ある本にこんなことが書いてあった。「相関性と因果性は異なる」と、
連続放火事件が発生した。放火現場に急行してみると、またあの挙動不審のあやしい人物が付近をうろついているではないか。写真まで撮っている。あなたはその男を放火犯人だと決めつけることができるだろうか?、否である。10の火事現場で10回とも、その男が目撃されたとしても、彼を犯人だということはできない。たとえそれが100の現場で100回同じことがあったとしても。なぜなら放火事件と現場における彼の存在の間に、確かな相関関係はあるとしても、そこに因果関係があるかどうかは未だ見極められないからだ。彼は火事と聞くと、いても立ってもいられない火事オタクであるだけかもしれない。つまりその場合は火事の原因ではなく結果である。そういうことも充分考えられる。彼がまさに放火をするその現場を押さえるしかない。かように相関関係を因果関係に転じるには大きな質的転換が必要なのだ。相関関係をどれほど注意深く観察しても、そこから因果性を導き出しことはできないのである。
それにもかかわらず、わたしたちは実に多くの場合、相関関係から因果関係を導きだす。長寿者が多いこの村落では、伝統的手法で作られたヨーグルトがたくさん食べられている。だからそのヨーグルトには長寿の秘密がある。お茶どころのこの地域では、胃がんの発症率が低い。だからお茶には抗ガン活性がある。そして今、世界の人々の大きな関心が向かっているのが地球温暖化の問題である。すなわち、過去150年、大気中の二酸化炭素は確実に上昇し続けている。他方、気温も、増加傾向を示している。両者には相関関係があると言える。しかしだからといって、一方の増加が原因となり、その結果、他方も増加したとは一概に言えない。両者に因果関係があるかどうかは、この観測データーからは判らないのである。
さてこれはあくまでも自然科学の話であるが、これを人の裁判に当てはめたら、相関関係が状況証拠や動機で、因果関係が直接証拠になるのであろう。今回2つの裁判が注目を集めた、一つが練炭自殺に見せかけて3人もの人を殺したといわれる木嶋佳苗被告の裁判である。もう一つは政治資金規正法の罪で強制起訴された小沢裁判である。両裁判とも状況証拠はそろっているが、直接証拠というものはなかった。しかし片方は「有罪」であり、片方は「無罪」ということになった。もう少し穿った見方をすれば、一般民間人である裁判員は90%以上黒であれば有罪とし、プロの裁判官は90%黒ではあるが、直接証拠が無いから「疑わしきは罰せず」で無罪とした。そんな感じであろうか。
裁判員制度が導入され、裁判でも被害者の意見陳述が認められるようになったりで、国民参加の裁判制度の方向になりつつある。そうなれば庶民感情としてはどうしても被害者側の立場に立っての判断になってしまうように思われる。3人が3人とも練炭で死亡し、その3人と付き合いがあって、しかも被告が練炭を購入しているとすれば、やはり「それは黒だろう」とするのは庶民感覚としては当然の帰結のように思う。相関性がここまであれば因果性も成り立つとする。いってみれば地球温暖化の犯人は二酸化炭素であるとするようなものであろう。今は重大な刑事裁判にのみ裁判員制度があるわけであるが、これが小沢裁判にも適用されていたとすれば、秘書任せで一切知らないと言い張る不自然さに、やはり有罪になる可能性は高いように思われる。
同じ裁判で、庶民感覚を入れる入れないで判決の白黒が変わっていいのであろうか? そんな疑問を感じた人は多いのではないかと思う。 ではどう考えればいいのだろうか?
冒頭に書いた本の抜粋のあとにこんなことが書いてあった。
温暖化と二酸化炭素の因果関係が認められない現象について、当面私たちは静観することが正しいあり方なのか。そうではない。科学の粋をつくして究明を極めたけれど、現時点ではどうしても究明しつくせない限界点というものがある。このまま放置すれば地球環境は長い時間の中で取り返しのつかないことになるかもしれない。だからその場合に備えて何らかのアクションを取るべきなのではないだろうか。こんな時の「べき」はもはや科学だけの問題では無い。しいて言えば科学の限界の問題である。ここで初めて判断のレベルが、真偽を見極めるレベルから、善悪を見極めるレベルに移行する。現在、科学技術を巡る諸問題の判断において、この判断のレベルの切り分けが極めてあいまいになっている。それを見分ける能力が本当の意味の教養と呼べるものではないか。と
今までの裁判は「疑わしきは罰せず」ということで、因果性が証明できなければ無罪とされてきた。言ってみれば温暖化が二酸化炭素だと証明されるまでは排出規制をする必要は無い、とするようなものである。それでは殺人者を野放しにする可能性もある。だから真偽が見分けられなければ、善悪で見極める。刑事裁判の場合この善悪を庶民感覚を取り入れたわけである。国民から無作為に選ばれた6人の裁判員が考え考えた末に「有罪」としたわけである。これが国民の良識による善悪の判定だとすれば、これに従うしかない。しかしそれでも大きな疑問が残り、被告として納得できなければ上告できる救いがある。反対に小沢裁判の場合、プロの判定は無罪とした。しかしそれで終わったわけではない。いづれ総選挙のときに、その善悪の裁定が国民によってなされるわけである。
連続放火事件が発生した。放火現場に急行してみると、またあの挙動不審のあやしい人物が付近をうろついているではないか。写真まで撮っている。あなたはその男を放火犯人だと決めつけることができるだろうか?、否である。10の火事現場で10回とも、その男が目撃されたとしても、彼を犯人だということはできない。たとえそれが100の現場で100回同じことがあったとしても。なぜなら放火事件と現場における彼の存在の間に、確かな相関関係はあるとしても、そこに因果関係があるかどうかは未だ見極められないからだ。彼は火事と聞くと、いても立ってもいられない火事オタクであるだけかもしれない。つまりその場合は火事の原因ではなく結果である。そういうことも充分考えられる。彼がまさに放火をするその現場を押さえるしかない。かように相関関係を因果関係に転じるには大きな質的転換が必要なのだ。相関関係をどれほど注意深く観察しても、そこから因果性を導き出しことはできないのである。
それにもかかわらず、わたしたちは実に多くの場合、相関関係から因果関係を導きだす。長寿者が多いこの村落では、伝統的手法で作られたヨーグルトがたくさん食べられている。だからそのヨーグルトには長寿の秘密がある。お茶どころのこの地域では、胃がんの発症率が低い。だからお茶には抗ガン活性がある。そして今、世界の人々の大きな関心が向かっているのが地球温暖化の問題である。すなわち、過去150年、大気中の二酸化炭素は確実に上昇し続けている。他方、気温も、増加傾向を示している。両者には相関関係があると言える。しかしだからといって、一方の増加が原因となり、その結果、他方も増加したとは一概に言えない。両者に因果関係があるかどうかは、この観測データーからは判らないのである。
さてこれはあくまでも自然科学の話であるが、これを人の裁判に当てはめたら、相関関係が状況証拠や動機で、因果関係が直接証拠になるのであろう。今回2つの裁判が注目を集めた、一つが練炭自殺に見せかけて3人もの人を殺したといわれる木嶋佳苗被告の裁判である。もう一つは政治資金規正法の罪で強制起訴された小沢裁判である。両裁判とも状況証拠はそろっているが、直接証拠というものはなかった。しかし片方は「有罪」であり、片方は「無罪」ということになった。もう少し穿った見方をすれば、一般民間人である裁判員は90%以上黒であれば有罪とし、プロの裁判官は90%黒ではあるが、直接証拠が無いから「疑わしきは罰せず」で無罪とした。そんな感じであろうか。
裁判員制度が導入され、裁判でも被害者の意見陳述が認められるようになったりで、国民参加の裁判制度の方向になりつつある。そうなれば庶民感情としてはどうしても被害者側の立場に立っての判断になってしまうように思われる。3人が3人とも練炭で死亡し、その3人と付き合いがあって、しかも被告が練炭を購入しているとすれば、やはり「それは黒だろう」とするのは庶民感覚としては当然の帰結のように思う。相関性がここまであれば因果性も成り立つとする。いってみれば地球温暖化の犯人は二酸化炭素であるとするようなものであろう。今は重大な刑事裁判にのみ裁判員制度があるわけであるが、これが小沢裁判にも適用されていたとすれば、秘書任せで一切知らないと言い張る不自然さに、やはり有罪になる可能性は高いように思われる。
同じ裁判で、庶民感覚を入れる入れないで判決の白黒が変わっていいのであろうか? そんな疑問を感じた人は多いのではないかと思う。 ではどう考えればいいのだろうか?
冒頭に書いた本の抜粋のあとにこんなことが書いてあった。
温暖化と二酸化炭素の因果関係が認められない現象について、当面私たちは静観することが正しいあり方なのか。そうではない。科学の粋をつくして究明を極めたけれど、現時点ではどうしても究明しつくせない限界点というものがある。このまま放置すれば地球環境は長い時間の中で取り返しのつかないことになるかもしれない。だからその場合に備えて何らかのアクションを取るべきなのではないだろうか。こんな時の「べき」はもはや科学だけの問題では無い。しいて言えば科学の限界の問題である。ここで初めて判断のレベルが、真偽を見極めるレベルから、善悪を見極めるレベルに移行する。現在、科学技術を巡る諸問題の判断において、この判断のレベルの切り分けが極めてあいまいになっている。それを見分ける能力が本当の意味の教養と呼べるものではないか。と
今までの裁判は「疑わしきは罰せず」ということで、因果性が証明できなければ無罪とされてきた。言ってみれば温暖化が二酸化炭素だと証明されるまでは排出規制をする必要は無い、とするようなものである。それでは殺人者を野放しにする可能性もある。だから真偽が見分けられなければ、善悪で見極める。刑事裁判の場合この善悪を庶民感覚を取り入れたわけである。国民から無作為に選ばれた6人の裁判員が考え考えた末に「有罪」としたわけである。これが国民の良識による善悪の判定だとすれば、これに従うしかない。しかしそれでも大きな疑問が残り、被告として納得できなければ上告できる救いがある。反対に小沢裁判の場合、プロの判定は無罪とした。しかしそれで終わったわけではない。いづれ総選挙のときに、その善悪の裁定が国民によってなされるわけである。