今読んでいる本は福岡伸一と著名人との対談集である。その中の一人、平野啓一郎(芥川賞受賞の作家)の対談で、意外と面白く感じたところを抜き出してまとめてみた。
《僕はもともと、接する相手によって自分の中に異なる人格が現れることを意識していました。自分なりには、これまでのアイデンティティー(主体性・自己同一性)に代わる新しい思想を考え始め、やがて「分人」という概念にたどり着いたのです。私たちは個人のアイデンティティーというものを、もともと与えられた唯一無二のように思っています。しかしそれを対人関係ごとに生じる「分人」という複数の人格として捉え、人をその集合体であると考えてみると、自分の思考が前に進んでいくように思うのです。
僕らは初対面の人と会うときは、互いにちょっと警戒したり、探り合ったりします。そして多くの場合、当たり障りのない会話を交わしたりしながら、どうすれば相手との関係がうまく成り立つかを手探りしている。最初はお互いの未分化な状態でやり取りし、その中のコミュニュケーションの成功体験を反復することで、その相手に対応する「分人」を形成していくわけです。別に意識してキャラを演じているのではない。自分の意識とは関係なく、その場の対人関係に合わせて、ごく自然に、異なる自分になっているわけです。そのどれか一つを「本当の自分」だと決め付けることに、強い違和感がありました。むしろ僕は「本当の自分」があると考えることによって、苦しみを抱えているのではないか。そういう疑問から、「私とは何か」というアイデンティティーの問題に本気で向き合っていったのです。
一人の中に正20面体のような人格があり、相手によってその一面を見せるということではなく、アイデンティティーそのものを、出会いから生じるエフェクト(結果・影響)とし、与えられた環境に従ってアメーバーのように変化する動的な現象と捉える。もしも人の本質がそのように動的なものであるなら、確固たるアイデンティティーがあるとして信じ、ひたすら求め続ける「自己実現」の物語も、非現実的な虚構でしかないことがわかります。我々は日々、一なる神ではなく、多種多様な人間とそれぞれに異なる人格で向き合っている。アイデンティティーは固定したものではなく、さまざまな人や物との出会いによって分化するものです。こうした動的な変化を、「分人化」と表現できると思うのです。そうすれば 「一貫性のない自己」という人間の非合理性を、「分人」という概念で当たり前に受容される日が来るかもしれません。》
私の今までの経験則からすると、この「分人化」という考えは意外に腑(ふ)に落ちるのである。私にコミュニュケーションの相手が100人いるとすれば、細かくは100通りの対応をしているように思っている。ラジオのチューナー(同調回路)のように相手の波長に合わせて、同調させるべくチューニングしていくるわけである。そしてもう一方で、私の波長を受け止めてくれる相手がいるわけで、双方の感度が良好で気の合う人もあれば、なかなか同調できずに不仲な人もできるのであだろう。しかも時間の経過の中でお互いが変化していき、その同調にも変化が生じるのかもしれない。著者が言うように人はさまざまな出会いによって変化し分化していくことで、人間形成が出来上がり、歳を経て分人化することに慣れ、より細分化し丸みを帯び、人間味をまして行くのであろうか。
しかし一部の人は相手によって何パターンかで対応しているような人もいる。相手が男か女か、年齢が上か下か、職位が上位か下位か、性格が攻撃的か従順か、・・・それによって自分のスタイルを決めてくる。そういう人は仲間内でも浮いた存在になりやすく、対人関係がいつもギクシャクしているように見える。自分を変えないことがプライドとでも言うように、頑なにそのそスタイルを押し通そうとするのである。もう一つは宗教の戒律に縛られた人たちである。確かに多くの人が共存しなければいけない社会では、宗教の道徳規範があることは有用なことのようにも思っている。しかしあまりにもガチガチにその規範にしたがって生きている人は、見ていて人間くささがなく、個性がないように思える。そういう人達に「もう少し自分らしく生きてみたら、・・・」そう思うのは、私に主義主張が乏しいからだろうか。
私の理想は、生れたからには楽しく自在に生きてみたい、と思っていた。したがって目標設定を明確にし努力を積み重ね、歯を食いしばって生きていくタイプではない。子どもの頃から勉強もそこそに、どちらかといえば成り行きに流されて生きてきた方である。だから勤めていた会社もあっさり辞めてしまったり、どちらかといえば気ままな人生であったようにも思っている。ただ自在に生きるには自分自身が自在でなければいけないとも思ってた。そのためには相手が女性であろうが男性であろうが、老人であろうが子どもであろうが、上司であろうが部下であろうが、社長であろうがパートターまーであろうが、人として対等なのだという意識を持ち、初対面の人とはニュートラルに接し、相手に合わせて人間関係を作っていったように思っている。結果的にはそのことで、自分が分人化しやすくなり、100人100様の対応がスムーズにできたようにも思うのである。アイデンティティーは固定したものではなく、相手によって分化するもの、そういう風に心得ていれば、人生は意外と楽に生きられるのかもしれない。
《僕はもともと、接する相手によって自分の中に異なる人格が現れることを意識していました。自分なりには、これまでのアイデンティティー(主体性・自己同一性)に代わる新しい思想を考え始め、やがて「分人」という概念にたどり着いたのです。私たちは個人のアイデンティティーというものを、もともと与えられた唯一無二のように思っています。しかしそれを対人関係ごとに生じる「分人」という複数の人格として捉え、人をその集合体であると考えてみると、自分の思考が前に進んでいくように思うのです。
僕らは初対面の人と会うときは、互いにちょっと警戒したり、探り合ったりします。そして多くの場合、当たり障りのない会話を交わしたりしながら、どうすれば相手との関係がうまく成り立つかを手探りしている。最初はお互いの未分化な状態でやり取りし、その中のコミュニュケーションの成功体験を反復することで、その相手に対応する「分人」を形成していくわけです。別に意識してキャラを演じているのではない。自分の意識とは関係なく、その場の対人関係に合わせて、ごく自然に、異なる自分になっているわけです。そのどれか一つを「本当の自分」だと決め付けることに、強い違和感がありました。むしろ僕は「本当の自分」があると考えることによって、苦しみを抱えているのではないか。そういう疑問から、「私とは何か」というアイデンティティーの問題に本気で向き合っていったのです。
一人の中に正20面体のような人格があり、相手によってその一面を見せるということではなく、アイデンティティーそのものを、出会いから生じるエフェクト(結果・影響)とし、与えられた環境に従ってアメーバーのように変化する動的な現象と捉える。もしも人の本質がそのように動的なものであるなら、確固たるアイデンティティーがあるとして信じ、ひたすら求め続ける「自己実現」の物語も、非現実的な虚構でしかないことがわかります。我々は日々、一なる神ではなく、多種多様な人間とそれぞれに異なる人格で向き合っている。アイデンティティーは固定したものではなく、さまざまな人や物との出会いによって分化するものです。こうした動的な変化を、「分人化」と表現できると思うのです。そうすれば 「一貫性のない自己」という人間の非合理性を、「分人」という概念で当たり前に受容される日が来るかもしれません。》
私の今までの経験則からすると、この「分人化」という考えは意外に腑(ふ)に落ちるのである。私にコミュニュケーションの相手が100人いるとすれば、細かくは100通りの対応をしているように思っている。ラジオのチューナー(同調回路)のように相手の波長に合わせて、同調させるべくチューニングしていくるわけである。そしてもう一方で、私の波長を受け止めてくれる相手がいるわけで、双方の感度が良好で気の合う人もあれば、なかなか同調できずに不仲な人もできるのであだろう。しかも時間の経過の中でお互いが変化していき、その同調にも変化が生じるのかもしれない。著者が言うように人はさまざまな出会いによって変化し分化していくことで、人間形成が出来上がり、歳を経て分人化することに慣れ、より細分化し丸みを帯び、人間味をまして行くのであろうか。
しかし一部の人は相手によって何パターンかで対応しているような人もいる。相手が男か女か、年齢が上か下か、職位が上位か下位か、性格が攻撃的か従順か、・・・それによって自分のスタイルを決めてくる。そういう人は仲間内でも浮いた存在になりやすく、対人関係がいつもギクシャクしているように見える。自分を変えないことがプライドとでも言うように、頑なにそのそスタイルを押し通そうとするのである。もう一つは宗教の戒律に縛られた人たちである。確かに多くの人が共存しなければいけない社会では、宗教の道徳規範があることは有用なことのようにも思っている。しかしあまりにもガチガチにその規範にしたがって生きている人は、見ていて人間くささがなく、個性がないように思える。そういう人達に「もう少し自分らしく生きてみたら、・・・」そう思うのは、私に主義主張が乏しいからだろうか。
私の理想は、生れたからには楽しく自在に生きてみたい、と思っていた。したがって目標設定を明確にし努力を積み重ね、歯を食いしばって生きていくタイプではない。子どもの頃から勉強もそこそに、どちらかといえば成り行きに流されて生きてきた方である。だから勤めていた会社もあっさり辞めてしまったり、どちらかといえば気ままな人生であったようにも思っている。ただ自在に生きるには自分自身が自在でなければいけないとも思ってた。そのためには相手が女性であろうが男性であろうが、老人であろうが子どもであろうが、上司であろうが部下であろうが、社長であろうがパートターまーであろうが、人として対等なのだという意識を持ち、初対面の人とはニュートラルに接し、相手に合わせて人間関係を作っていったように思っている。結果的にはそのことで、自分が分人化しやすくなり、100人100様の対応がスムーズにできたようにも思うのである。アイデンティティーは固定したものではなく、相手によって分化するもの、そういう風に心得ていれば、人生は意外と楽に生きられるのかもしれない。