monologue
夜明けに向けて
 



光よりの光、最上の帯としての光より来たりて伝える

我が名はアーリオーン、愛と光の天使


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本当の旅を求めて

今再び、甦る為に…


アスファルトの道路が縦横に走る都会

デパートの屋上庭園をそのまま拡張した様な街並

道路の脇に植えられた街路樹に与えられた僅かな土


血の通わない鉄骨を重ねて、高く高く

空まで届け…と高く高く…

摩天楼の底で蠢く唯一の生命体、人間は

ギザギザに切り取られた空を見上げて、溜め息をつく


他人との触れ合いは地下鉄での押しくらまんじゅう

朝と夕方に繰り返される、駅に向かっての民族大移動

ビルとビルとに挟まれたスリット状の夕焼け

街を歩けば購買欲を煽る広告、電車に乗れば行楽広告

情報提供というカンナで神経を削り取られる

そんな毎日…


無機物、無生命体の都会生活の中で

それでも暖かいものを、触れ合いを求めて

人は何か気付きを捜す…

そして、そんな時に人は《旅に出たい…》と思う

削り取られた神経叢から滲む血を押さえながら

人は『自分自身』を取り戻す為に

自分の心の在りかを見出す為に

旅に出たいと願う…


人は『旅』に出ると自分自身を取り戻せるのだろうか?

本当に心の在りかを見出せるのだろうか?

一体、都会には何が起きているのだろうか?

都会に生活していると自分自身を見失うのだろうか?


生命体とは血の通うものということ

そして生命体は《生命の流れる境》に活きるもの

全ての生きとし生けるものは《生命の流れ》を司る

地球上だけでなく全宇宙の生命体は

《命を生きること、生きる力の流れを流れること》を目指している


アスファルトで固めコンクリートで囲われた場に

草木は生きることが出来ない、虫も鳴くことが出来ない

土も呼吸出来ない、そして人間も…

自分自身を見失う、心の在りかを見出せないのは

生きる力の流れに沿わない、囲われた場に生活しているから


だから、人は旅に出ようとする

生きる力の流れの残る場を求めて

遮断された生命の流れを甦らせる為に

人は土の生きている、鳥の噂く、血の通う触れ合いを求めて

…旅に出る


遮断され密閉された生命閉塞状況に居れば居るほどに

人は生きながら内部から鈍感になってゆく

まずカンナで削り取られ続けている神経系続から

そして神経叢の中枢であるところの『心』へ

段々と鈍感になってゆく

最終的には…

自分達の生命にとって何が大切であるか、

それさえも分からなくなる


人間の身体の中には、宇宙生命潮流の流れから

絶えず信号が送られている

生命維持に危険なものは排除する様に、信号が送られている

鈍感になってしまって、信号も感じなくなってしまう様な

そんな生活空間から自分自身を取り戻す為に

旅に出たいと願う人の身体の中で、何が起きているのか?

宇宙生命潮流から《生命を維持する様に…》との信号が送られ

キャッチされ、生きる力の流れを求める心が揺さぶられた

旅に出た人は閉塞状況から解放され、ホッとするだろう

身休の底から血液が巡るのを感じる

呼吸を始めた『心』が躍るのを感じるだろう

幼い頃の自分、生命力の流れに充分浸っていた自分

そう、子供は全て宇宙の生命の流れに素直に生きていた

何でもない普通の人々の生活の営みにも

自然に頼が弛むだろう

小川にメダカが泳いでいるのを見て、嬉しいと感じる

夕餉の味噌汁の香りにフッと郷愁を感じる

五感が開くのを感じるだろう?


生きる力の流れない場に生活していると

第六感はおろか、人間の五感も鈍くなる

見る、聞く、味わう、嗅ぐ、触ることの

鈍くなった人々…

鈍くなったが為に何も信じることの出来ない人々



生きる力の流れる場に居ると

それら五感の中で損傷の少ないものから

甦り始めるのを感じるだろう

まず五感の統括である“気持ち”が弾んでくる

血が通い始め、生命潮流からの信号もハッキリとしてくる


そして、都会を生活の場にしている人は

甦った自分自身を感じながら、再び都会へと帰ってゆく

旅に出る前の自分ではない『新しい自分』を連れて

そう、呼吸している血の通った身体を持った自分

それだからこそ、信号をしっかりと受け取れる自分になって…


生命の力の流れる場としての生活空間を…

生命維持の為に何がいけないか、何が必要か分る自分

五感が開いている状態で、何が都会に欠けているかを

ハッキリと見つめ、ハッキリと表現出来る自分になって


そう、旅から帰る人々が再び生命閉塞状態の中で

少しずつ鈍感になる前に、是非、考えて欲しい

自分達が何を旅に求め、旅先で何を得たか、どう感じたのかを


この死にゆく大地の都会の中で、

自分達の生命を維持させ、危険を排除してゆくには

それら旅先での五感の開いた状態での経験を

どういう風に活かかしてゆくべきなのかを



 本当のことしか無い、本当のものしか存在しないのが自然の定理

人間は《人》である為についてきた嘘を脱ぎ捨て、本当の自然と融合して

生命を活かすことを、旅に出ることで学び、

それぞれ自分達の生活空間に反映して貰いたい、

それが宇宙の全ての生命の願いだから…



11.Dec 1989
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光よりの光、オリオンの神の座より来たりて伝える 
 我が名はアーリオーン、愛により存在する天使 

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 光の子らよ、あなたがたに『自分』について話そう。だれしも『自分』とは何か?と考えたことがあるだろう。あなたがたが『自分』と呼んでいる、あなたとは何だろうか?まず、あなたがたの身体が大まかに分けて、物質的な肉体の部分と精神的な心の部分とで成り立っているという風に理解して欲しい。普段『自分』と呼ぶ時には、この物質的な部分と精神的な部分の両方を指している。では、例えば夢の中ではどうだろうか?夢の中で『自分』と呼んでいるのは、誰だろうか?物質的な肉休の部分は眠っているが精神的な心の部分は夢の中で活動している。起きた時に鮮明に思い起こすことの出来る夢もあるだろう?そんな夢の中で、肉体抜きの自分でもやはり『自分』と認識してはいないか?ここに『自分』という意識の秘密がある。

 つまり、あなたがたが『自分』と呼んでいるものの実体は、あなたがたの心にあるのだ。あなたがたの心はあなたがたの魂の前庭(奥にある魂というエネルギー体の玄関という風に理解しても差し支えない)であることは以前にも伝えたが、その心が『自分』という意識を作り保持しているのだ。魂は、それ自体は無色無臭であり、エネルギーとしては非常に純粋なものなのだ。その魂が、肉体という異なった周波数の帯域に入って来て初めて、個性を持った『心』という玄関を持つわけだ。心は肉体と魂という周波数の大きく異なる双方を結ぶパイプ役の様なものだと言えば、分かりやすいかな?電気の世界でも、電圧の異なったものを結ぶトランスというものがあるのと同じだ。精神というものは、心の働きや動きを肉体の大脳に理解しやすい様に、大脳言語に置き換えたものだと言える。精神が心では無い。また、心もそれ自体が魂では無い。これは言葉遊びでは無い。あなたがたの言語に置き換えて、出来るだけ正確に説明しようとすれば、かなりまどろっこしいことになるのは止むを得ないことと思う。
 
 魂は、あなたがたの肉体に入ってくる以前は集合エネルギー体として存在する。つまり、あなたがたの魂は個性を持つひとりひとりの肉体に入る前には、異なった形で存在することになる。魂の帰属する集合エネルギー体は、その傾向や目的によって大きさが異なる。幾つという風に数では示すことが出来ない。その数は不変だからだ。しかし、あなたがたが夜空に見つけることの出来る星の数ほどもあるのは確かだ。それらの数々の魂集合体は、ある周波数のもとにお互いにくっつきあっている。そして、一つの周波数の段階ごとにブルッと身震いのような感じで離散してゆく。この離散は、周波数の段階を上げるのに必要なものなのだ。そして離散したエネルギーの断片のひとつひとつが、それぞれの目的-周波数の段階を上げる為に、顕現化-物質界に顕れることをする訳だ。

 周波数を上げる為に、なぜ物質界に顕現する必要があるのか?と質問されるだろうから、先に答えておくことにしよう。宇宙に存在するエネルギーには、色々な形のものがあり、またいろいろな活動をしている。それらの目的は、簡単に言うと『創造』なのだ。あなたがたの知識の及ばない、遠い先の宇宙の話をしても意味が無いので、あなたがたの知識内での話としよう。あなたがたの太陽系も、勿論『創造』の為に日々生死流転を繰り返している。大きな『創造』という目的の為に小さな破壊と創造を繰り返しているとも言える。この太陽系を含む、この銀河系に偏在する魂集合体の殆どの周波数は、物質的に顕現することでのみ、個々のエネルギー周波数を変化させることが出来るのだ。(全ての魂集合体と言っているのではなく、殆どの魂集合体という点に気を付けるように)

 物質的に顕現する-あなたがたの流行の言葉で言えば『転生』-ことで、一体魂は何を得ようとしているのだろうか?あなたがたも知っての通り、あなたがたの心は肉体の規制を受けなければ飛ぶことだって可能な訳だ。夢の中で経験している人も多いだろう。
実際、人間の心はとても軽く自由なのだ。しかし、肉体という規制、そして肉体の大脳の知識といった規制があって、心は本来の軽さや自由さを失ってゆく。そして、その規制に対して魂が心に働き掛ける-『あなたはもっと自由な筈だ、自分を解放しなさい』、そして、あなたがたは考える。どうすれば自分を解放できるのだろうか?この大脳知識と、魂からの呼び掛けに応えようとする心との葛藤が織りなす様々なことがらから、あなたがたは多くのことに気づく。自分とは何か?といった質問を自分自身に発するのも、こういったときが多い。

 あの人もこの人も、自らを指して自分』と呼ぶ。全世界でこの地球人口と等しい数の『自分』が居る。自分と呼ぶのには理由がある。まず、『自分と呼ぶ個体』と『他人と呼ぶ個体』とは違うんだ…という認識の為に、つまり、あの個体とこの個体とには差があることを学ぶ必要があるからだ。人間の自己確認行為は、他者との隔絶感から始まると言っても過言では無いだろう。他者との差をハッキリ認識した時に初めて『自分』という意識が認識される。サトリと言うのは、この他者との差を取ることにほかならない。自分が他者になるというのでは無く、自分と呼んでいる個体以外のすべてのモノとの差を取り払うことなのだ。(サトリについては、詳しく次回で述べようと思うので、ここでは詳しくは説明しないこととする)


 こういった一連の生活経験の全てを、心は変圧機能を使って魂に刻印してゆく。しかし、人間という肉体をまとっている間は大脳という中央政府の管轄下で生きているので、この魂の感覚は肉体へは伝わりにくい。身体の機能の一時休止下に於いては心を通じて、魂の感覚が伝わってくることもあるが、それも稀なことと言える。この刻み付けられた生活経験は、肉体が没した後にも魂の経験として保持される。こうして魂は、幾度かの生活経験を繰り返して、当初の目的の周波数域に達した時に集合体に吸い寄せられるように、帰ってゆく。

 あなたがたの呼んでいる『自分』とは、あなたがたの心のことだ。あなたがたの言う自分とは、その他多くの自分と目的を一つにするエネルギーの集合体なのだ。その目的とは、創造なのだ。小さな破壊と創造を含む大きな創造なのだ。あなたがたの心は、その他多くの自分と自ら呼んでいる個体の心と、一番奥の魂のところで繋がっている。それぞれに出自とする魂集合休が異なったとしても、この地球という惑星で物質界に顕現してきた点で、地球生命体という名前のエネルギー体として繋がっている。生命体として、それぞれに差が無いことを大脳知識としてではなく、心の発動である感動という方法で知った時に、人はサトリの瞬間を持つことが出来る。サトリとは瞬間のことを言うのだが、多くの人は誤解しているようだ。また、自分という意識も瞬間のことなのだ。しかも、過ぎ去った瞬間のことしか人間は認知できない。今、この時を認知した瞬間に、もうこの『今』はさっきの『今』では無いからだ。これは、人間が肉体という物質的な生体を持つ為で、魂には逆に『今』しか存在しない。物質的な周波数の上での生死流転と、そうでない周波数の上での生死流転とは全く異なった時間の流れがある。あなたがたの意識する時間というのは過去から未来に向かって流れているように、認識されているのが普通だ。しかし、これも物質界での話だということを覚えておいて欲しい。
                       ---ARION,O∴O---


Nov.25.1990
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本能的な信号に対する音声言語(言葉)表現について

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 人間の本能的表現の内、発声器官を使っての音声言語(言葉)表現は本能からの電波信号(波動)が、ある回路を通り言語中枢で処理されて初めて、音声言語(言葉)として表現可能になる。新皮質で既に学習・蓄積された情報からの信号は、その情報に関する事柄の入手経路として既に言語中枢で処理済みなので、いわゆるお馴染みの回路を通るので比較的楽に迅速に思考となり、音声(言葉)として表現するにもたやすいのである。現代人の日常生活に於いては、本能からの信号は恐怖や驚き、強いショックを受けた時などにしか感じられない様になってしまった。恐怖時や危機に立った時に、思考→言語→音声(言葉)表現が迅速に出来ないのは、信号回路が新皮質のそれと異なる事と、言語中枢への回路が現代人の場合、特に顕著に遮断されているからである。本能からの信号回路が本来の働きを回復し、言語中枢への回路を円滑に通り始めると、既知の信号に対する良い意味での『馴染み』が成立し、対処が迅速になる為に、危機感を感じた時にも恐怖や驚愕の為に言葉を失うことが少なくなってゆくのだ。


 本能にはいろいろの働きがあるが、我々の問題にしている働きは本能の潜在意識とつながる部分である。そこの覚醒、開発なくして『光の愛』を理解する事は不可能である。しかし、我々は一部の軍部の行っている様な『超能力開発』は行わない。人間の持てる能力の一部開発を行っても、危険な怪人を作り出すだけだ。我々は、全人開発教育を行う。時間は一部の超能力開発より懸かるのは確かだが、人類の尊厳と魂の尊厳を守る為には、やむを得ないと思う。

 日常的に交わされないタイプの『光の愛』に関する話を聞いて、本能からの呼び掛けに耳を澄まし、沈黙している人に対して行ってはいけない事は、新皮質の情報に訴え懸ける様な言葉を音声表現する事である。せっかく本能からの呼び掛けで、回路を探し始めた脳の働きを遮断してしまうからである。殆どの人の場合、長期間未使用であった回路を手探りで進んでいるような状態であるから、相手の状態を観察しないで突如として声を懸けると驚愕してしまい、一種のアルファ状態に近い脳波の活動を日常覚醒状態に引き戻してしまう。こういう状態の相手は、どこか遠い所を見ているような瞳をしていることが多い。

 相手の漏らした音声や言葉を、肯定する短い言葉をゆっくりと辿る様につぶやいてあげるのが一番良い方法と言える。相手が肉体的な動作を始めたり(身体の一部を動かしたりすること)或は話し懸けてくる様子だったら、既に『光の愛』を知っている我々のテンポでは無く、相手のテンポに合わせて聞いてあげるのが良い。誰もが情報開発の進んだ社会に生活している現状では、『光の愛』の思考回路は閉塞状態にあると見て、まず間違いないだろう。既に『光の愛』に触れた人々の回路使用状態は、そうでない人々のそれと比べると迅速で円滑である。光の子供達同士の会話に慣れていない人々、つまり新参者の人々に対して最初は焦らずに観察しながら話し掛けないと、一旦恐怖心を抱かせると『心の奥の話=居心地の悪い状況に立たされる』という公式的な回路が成立してしまう。霊的な話やオカルト、精神世界的な話は苦手だと言う人の多くは『心の奥を覗かれたくない、心の奥は無防備なんだ、攻撃されたらひとたまりも無い』と感じている。こういう人の多くは過去に心を開こうとした時に、攻撃されたと感じて恐怖回路を成立させてしまったタイプだ。実際には攻撃されていなくとも、心を開くのが苦手な人というのは、普段から比較的臆病で防御癖の強い人なので、ほんの少し相手の語気が強かったり、相手の反応が早すぎたりしただけで攻撃されたと思って首を竦めてしまうケースが多い。

 『光の愛』に触れたことが無い人でも決して『敵』だと思わないこと。安心して話が出来る状況を作ってあげないと、心を開くことはできない。心を開くことができないと、本能的な信号に対する思考→言語→音声表現の回路を成立させることが困難になる。本能的な信号に対する上記の回路を成立させると真実の愛による人間関係を維持させるのに必要な要素のひとつであること、例えば過剰防衛に因る混乱や危機の際のパニック状態に陥ることが少なくなる。人間がより理性的、より自然に生きて行く上で、真実の愛=光の愛を感じ実践し、維持してゆくことは不可欠なのだから。

 光の愛に導く役目の『光の子供達』は、光の愛を初めて識る人々、それも特に気の弱い、臆病な性格の為に心を閉じているタイプの人々に対して恐怖心を抱かせるようなことをしないように気を付けて欲しい。力強く話すということは脅すこととは全く異なるということを理解して貰いたい。上記の事は人間の犯しがちなミスなのだが、愛を持って力強く話す時には相手は脅されているとは感じないものなのだ。相手に対して不愉快だと思う時に力が湾曲して脅しているように相手に伝わってしまう。常に相手を抱きかかえるようにして話すことを実行すれば、このミスは避け易い。
                    ---ARION,O∴O---


JAN.13.1990
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アリオンより光の子らへ    

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 あなたがたに、日本の現状を分析して見せようと思う。1960年代~1970年代に掛けて、ダイアモンド社やその他の会社からの発行物の中に「成功する……」といったタイトルのものが増加した時期があった。何故、そのようなタイトルのものが、当時の労働年齢の中期にある者に受け入れられ、もてはやされたのかを考えて欲しい。

 そうしたタイトルのものが、当時の日本人に与えたものは「夢」であったのか?それとも、現実的に「成功するスベ」だったのか?そういったタイトルの刊行物が売れた背景には、日本人が「失敗した」と思い続ける要因が、確かにあったのだ。


 その要因の最大のものが第2次世界大戦での敗戦だった。昭和一桁代から昭和10年前後に生まれた人々にとって、敗戦の理由は「モノが無かったから」という言葉に代表されている。勿論、単に「モノが無かった」から敗戦したのでは無かったのだが。

 
 「モノが無かった」⇒「敗戦」⇒「失敗」⇒「不幸」と感じていた、当時の人々にとって、ジープの上からチョコやガムを惜しげも無くバラ蒔くアメリカ兵は、「モノがある」⇒「勝利」⇒「成功」⇒「幸福」の輝けるイメージを抱かせる対象として、大きく存在した。豊かなモノと一緒にアメリカは、あなたがたに「民主主義」を虹色の旗印の下に持ち込んで来た。

 ここで、ちょっと気付いて欲しいのは、アメリカはこのヤリ方を日本だけにしたのだろうか?ということだ。アメリカに代表される、欧米資本自由主義は自分たちのモノサシを、ありとあらゆる、未開発と彼らが断定した国々に対して押しつけてきた。未開発だが、この先彼らに色々な物資や労働力を提供出来ると思われる、ありとあらゆる国々に対して、行ってきた。最初は植民地政策として打ち出された、この方法は現在では「開発援助」と名を変えて生き残っている。

 現在、戦争中の湾岸に対してもアメリカは同じように、「豊かさと民主主義」を持ち込み、その代償として、アメリカの傘下に加わることを求めている。アメリカの傘下と言えば未だ聞こえはいいが、その実はアメリカ式の腐敗社会の輪出と言ってもいいだろう。

 日本は敗戦し、一股庶民は、その原因の多くに自分たちの物資不足だった点をあげ、戦後の日本の復興に力を入れた……自分たちの失敗の原因であると思われる物資の多寡をアメリカのそれに近づけようと、愚かにも国家を挙げて工業に力を入れて来た。その結果、自給自足出来た筈の農業国日本は、完全に他国依存の食料事情を抱える大国となった。アメリカはGHQを始めとする宣伝活動と、発達したマスコミの力、そして影なる団体のバックアップによって、日本人に「モノが豊富にある」⇒「成功」⇒「幸福」の公式が、家庭の隅々まで行き渡らせることに、成功した。

 
 「モノが豊富にある」⇒「成功」⇒「幸福」の公式が定着し、日本の状態は「モノが豊富にある」状態に変化した。当時の人々が望んでいた状態に近い今ではみんな公式通りに「幸福になれたのかと言えば、幸福になれていない…と感じている。では何か未だ足りないのか?気を付けなくてはならないのは、この何か未だ足りないのか?という疑問は何処から来たのか、というところだ。これまた、実はアメリカからやって来た…と言うと、あなたがたは驚くだろうか?

 日本式のやり方は「失敗」⇒「不幸」になると信じ込んでしまっていた日本人は、とにかく欧米の意見に耳を傾ける、という癖がついてしまっている。そういう意識構造が出来上がるということが、当初の彼らの目的でもあった訳で、そういった意味では、対日本攻略は半ば成功していると言っても過言ではない。物質至上主義こそ幸福への近道と、戦後の貧しかったあなたがたに対して教育し物質が溢れるほどに増えたら、今度は「物質だけでは、駄目だ」と説く教えが 主にアメリカ西海岸から、やって来た。ちょうど、日本でも物質的な幸福だけでは満足しない、いわゆるインテリ層の人々から疑問が発し始められていた頃だ。素直と言うには、あまりにも主体性の無い日本人の多くは、この西海岸産の「精神世界」という名の市民運動に身を投じた。この運動は、インテリを自他ともに認めるような層の人間が特に傾倒したのが特色であった。物質だけでは満足しない層の人々に対しての攻略はこうして実行された。

 この精神世界運動は、オマケとして薬物文化までも日本にもたらした。こういった流れの中で見て欲しいものが、アメリカの支配者階級の人間達の行動だ。果して彼らは、あなたがたに教育したようなことを実践しているだろうか?答はNONである。彼ら選りすぐりの一部の人間達は、頑に自分たちの伝統を守り、保守的な生活を続けているのだ。あなたがたや、アメリカの被支配者階級の者が興じている「教え」は、彼ら選りすぐりの者達の「教え」では無い。あなたがた光の子らは、早く気付かねばならない。アメリカ式の民主主義の押しつけが、アジア・アフリカ・南米などの国の文化を如何に破壊してきたのかということを。そして、西海岸からやってきた「運動」は、何も生み出さずに社会腐敗の原因を作ってきた事実に目を背けてはならない。特に、薬物汚染は大麻・LSDから始まり、コカイン・ヘロインに至るまでの用意周到な道順と販売ルートがあることを知らねばならない。南米の政治の腐敗は、片側でこうした薬物売買での巨額な資金が支えていることも知らねばならない。日本の政治家達は、臆病者が多い為か未だ全汚染されているところまでは、行っていない。

 日本人が、今好きで使っている「POSITIVE」は「POISON」を、その中に隠している。POISON(毒)は少しずつ使われると、最初は「疲れやすい」感じから始まる。その内に「眩章」「貧血に似た症状」となり「心臓発作に似た症状」で終わる。現在の日本人の判断力欠如、即断忌避、実行能力の欠如は、どこか中毒症状に似ている。一体、何の中毒か?昨今、言われている自家中毒では無い。決してそうではない。

 もっとハッキリ周囲を見渡しなさい。オカシイと思うことを、オカシイと言う勇気をあなたがたの周囲の人々に示しなさい。あなたがたの能力は、薬物や膨大な書物から得るものではなく、あなたがたの行動から得るものだということを、思い出して貰いたい。
                      ---ARION,O∴O---


FEB.15.1991
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光よりの光、オリオンの神の座よりの一条の光として来りて伝える、
我が名はARION,O∴O、愛と光の戦士達に伝える

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 1989年9月3日より、環惑星エネルギー変換が始まった。いにしえの力と約束を得て新たなる『時間』へ向けての変換だ。心ある人々は『自らの内的衝動』によって、新たなるエネルギー表出へ向けて自己変換の用意を始めている。この動きは1989年11月~12月にかけて最も大きくなるだろう。
 
 簡単に説明すると惑星単位でのエネルギー変換が始まっているということだ。以前に人々をつき動かしていたエネルギーを、旧エネルギーと呼ぶとしよう。旧エネルギーの単位が1だとすると人々は1のエネルギーを受けて1の行動を起こしていたことになる。それはが新エネルギーでは10の単位のエネルギーを受けて、10の行動を起こすことになる。

 『飛びたい』と言っていた人々の明暗が別たれるのもこの時期だろう。変換しつつある環惑星エネルギーの波動の中で『旧エネルギー』の夢を追い続けたり、旧エネルギーの願いにしがみつく人は「飛べない」のではなく自らの意志で「飛ばない」だろう。1の単位の夢と行動の範囲でしか動けないと思う人は、10の単位での夢や行動について行けないからだ。また1の単位の夢は10の単位の行動を起こすには、衝動力、起爆力、行動力のどの点を取っても不均衡を起こすだろうからだ。

 世の中は長い間『1以下の単位』の夢を人々に与え続け、その範囲で収まるような規則や約束事を作って人々を規制してきたが、それらも変化して行かざるを得ないだろう。それらの規定内に収まらないエネルギーが動き始めたからだ。             
 
 心ある人々及び戦士達よ、新たなるエネルギーの変換へ向けて用意しなさい。このエネルギー変換は1989年7月7日に神霊界でギア・チェンジが行われた結果の成り行きだ。今年1989年12月始めまでは変換の為の地ならしと用意に当てられるだろう。そして1990年からは新たなる創造の為の行動に入るだろう。

 想い願うこと、そしてそれを行動することによって実現させる。この法則は今後も同じだが、想い願う対象が1の単位群から10の単位群に変化している事を自覚せねばならない。想い願い、そして勇気をもって行動に移す。そこで恐らく今までに感じなかった新しい事実(自分の心の動きとしての)に出くわすだろう。1単位群の想いや願いに慣れている人々にとっては当然の事なのだが、まず驚くだろう。今まで自分が平気だと頭で思っていたことが実際の行動として成立しなかったりするだろう。しかし、ひるんではいけない。これは当たり前の事だと思うこと。多くの人はここで引き返してしまう。新たなるエネルギーは未知の事なので、怖じけづく人が多いのほ当たり前なのだが、決して引き返したり舞い戻ってはいけない。

 怖じけづいたら、その場で留まっていること。前に進めない場合は後ろに戻ってはいけない。留まるのは辛い場合もあるだろう。人は前か後ろかを早く決めて安心したいと思うのが普通だからだ。しかし、留まって欲しい。そしてよく見るのだ。想い願ったという事実を、そこで吟味するのだ。何故、自分はそれを想い願ったかを思い出すのだ。その想い願いが自分の内よりのものであり、外的要因によって新たなる場面に遭遇した為に混乱してはいても、想い願った事実に相違が無いということならば勇気が出るまで、その場に留まることを薦める。つまり10単位のエネルギーの世界には行けないなどという結論を焦って出してはいけないということだ。そこで留まらずに舞い戻ってしまっては、10単位のエネルギーの世界から遠ざかってしまう。
   
 惑星単位で変革が起きていることを膚で感じている人々よ、新たなるエネルギーはあなたがたにとって未知のものであるがゆえに、あなたがたに征服欲と勇気を奮い起こすだろう。新たなるエネルギーの世界に飛ぶ為のチャンスは、各々のレベルによって強弱の差はあるものの大体3度ある。全て各々の生活の中で起きるだろう。何がチャンスで何がそうでないか、それは各々の直観力と判断力に任される。誰も強制したり勧誘したりしないだろう。各々の生活レベルの中で挑発者は現れるだろう。何故ならば今が『その時期』で挑発によって人は、多くの場合勇気を奮い起こすキッカケを掴むからだ。そして、その挑発は自分達が招くものだということを忘れてはならない。


 光の子達よ、起きなさい。起きて自分達が既に新たなるエネルギーの世界において輝こうとする意志をもっていることを確認しなさい。旧い夢や執着に惑わされずに勇気をもって新しい世界を見詰めなさい。

 私達神霊族はあなたがたと共に、この変革を大いなる創造へと導いてゆく。あなたがたのそばに、私達の愛と光を感じなさい。私達と共に光の方向へと飛ぶ者そしてそうでない者の全てに、この環惑星エネルギー変換は影響してゆく。1単位の世界に拘束されることは、これからの創造エネルギーの流れにそぐわなくなってゆくだろう。多くの人が「自らの内的衝動によって」私達と共に新たなるエネルギーの世界で創造に携わってくれることを望んで止まない。愛と光と存在、そしてそこへ導く勇気と希望…
                    ---ARION,O∴O---


4 SEP 1989
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<狼の禊の為に>

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1.我々は愛によって滅ぶことを望まない。
  愛によって創造することを望む。
  我々は情によって目が曇ることを望まない。
  我々は情によって解放されることを望む。
  我々は制度によって打ちひしがれることを望まない。
  我々は制度によって問題が明らかになることを望む。

  我々は人と、その魂のあるべき姿を見詰めたい。
  間違いと知りながら、なおざりにすることを望まない。
  自分の心の方向性さえも見失ってしまった人々に
  道を指し示すために、我々は光と愛を注ぐ。

2.形あるものは全て壊れる。しかし魂も心も形は持たない。その魂や心に、形を当て嵌めて成型し、形を持ってしまったが故に壊そうとする人々を許してはならない。また人々は魂や心を成型し、その故に『タイトル』としての名を付けたがるが、これは全ての物事を形状と名前でしか判断出来ない彼らの便宜の為である。一旦、形や名前を持ってしまうと突然、そこに『立場』などというものが現れて、魂や心を拘束し始める。かくて『あるべき姿』 『…でなくてはならない』などといった限界という名の水平線が見えてくるに至る。そして『責任』や『義務』といった名前の拘束の罠が、そこかしこに見え隠れするようになり、心や魂は本来の姿である自由を見失う。窒息状況に陥った成型化された心や魂は、『責任』や『義務』を果たしながら、限界という名前の水平線に向かって走りながら、空しく存在することを余儀なくされる。

3.人の心や魂は宇宙中枢エネルギーであるところの『カミ』に帰属するものだ。人の心や魂は『カミ』に名前が無いのと同じく、形や名前を持たない。それほど崇高であるべきものに、形や名前を当て嵌めようとするなどは『』カミ』に対する暴挙としか言いようが無い。


4.我々天使族の末裔である者たちの魂に触れることは、ならない。 物質至上主義者よ、その手を離しなさい。 物質的なものしか受け入れず、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、 そして、手に触れるものしか信じられない人よ、あなたがどう言おうとあなたの世界は闇の世界なのだ。 そして、そういった物質的な充足を求める人に迎合する人々もまた自ら進んで光に背を向ける人々なのだ。 光に背を向けた時、闇が始まる。


5.物質的充足は形の充足だ。心や魂を形に当て嵌め、名前を付け、その形、名前通りの充足を得ても実際には、心も魂も定まった形も名前も持たない為に、その充足は一瞬のものでしかない。次の瞬間には、再び充足を求めて心、魂は彷徨を始める。哀れなる欲望の放浪民、充足されない欲望のボヘミアン。彼ら欲望のボヘミアンにも等しくチャンスは訪れる。 光の愛の充足への旅のチャンスは訪れる。しかし、そのチャンスを見下し、見過ごすことの多いのも彼らの特徴だ。

6.しばしば心優しき『魂の民』が彼らの道連れとなる。心優しき『魂の民』は、物質的なる者たちとの物質的結合を手放すことが出来ない為に、苦しみ嘆く心を犠牲にして、物質的なる者との魂の心中を図ろうとする。そしてカミの意志は抹殺される。
                       ---ARION,O∴O---



1989/11/09 23:47
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光よりの光、オリオンの神の座よりの一条の光として来りて伝える、
我が名はアーリオーン、愛と光の天使

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 私達の秘密としている情報を少し話そう。それは、この日本の神話だよ。日本書紀や古事記、いわゆる記紀は後の世の為に編纂されたもので正しい歴史書とは呼べないんだ。

 まず宇宙には『アメクモ族』と呼ばれた種族が居たことから話そう。彼らは、あなたがたの居るこの銀河系に遥かな昔にやって来て色々な惑星に植民していた。彼らの目的は『人型種族の繁栄と進化』だった。多くの惑星での入植、人種混合そして人型種族の進化を担ってきた。彼らの足跡は『モノリス』によって辿ることができるよ。地球にもやって来た、それは遺伝子操作によって地球原人が発生した後だけどね。他にも宇宙から植民した人型種族は居たけれど、今の段階では私達の流れを話すのが筋だから、他の種族については語らないこととするよ。

 アメクモ族は今で言うアジア中央高原に降り立った。そこから多くの国に向けて陸路と海路で渡って行ったんだよ。この種族は後の世にアメクモ族の名前を残す為に自分達の名前に『アメ』『アマ』、つまりAとMで始まる音を配したんだよ。エジプトに伝わった名前にもあるね?キリスト教では最後にアメンと唱えるね?日本では『アメノ…』という名前が多いね?ラテン語に至っては『アモール』は『愛』の言葉だ。みんな『アメクモ族』の印だよ。

 さて彼らは日本に向けても陸路と海路で渡って行った。(紀元前の話)スサノオとその父フツの曽祖父に当たる男は海路で行くグループの首領だった。陸路で渡った仲間は先に日本に到着した。海路で渡った仲間は東南アジアの島々で数々の仕事をこなしてから朝鮮に渡り休んでから日本の壱岐対馬に渡り、その後出雲に住んだ。スサノオの父フツは出雲でスサノオを生んだんだよ。陸路で先に入っていた仲間はイザナミ・イザナギと呼ばれる人々が有名だね?彼らはヤマト原人を制定し、九州に強い国を築き始めていた。そして海路のグループが携えて来た、いわゆる『十種の神宝』を要求していた。何故ならば、この神宝を持つ者が日本のスメラとなる事が決まっていたからだよ。アメクモ族の当初の予定では陸路と海路との両方のグループが協力して、日本を制定し文化と人頸進化の為に邁進する筈だったが、陸路の仲間は自分達の権利を優先したい為に協力を断る者も出て来たんだよ。そこで首領の血を引くフツはスサノオを諸国制定の雄として送り出すことにしたんだ。その頃、九州にはイザナミ・イザナギの国があった。彼らの長女はアマテラスという名前の、たいそう賢く強い女性だった。

 フツの死後、スサノオは彼の器量を全て受け継いで生まれた第5子のトシを伴い九州を制覇にかかっていた。イザナギ・イザナミはスサノオの強大な力と知恵に恐れを成して、娘であるアマテラスをスサノオに差し出すことによって同盟を申し出てきた。アマテラスは既に結婚してはいたが当時には一夫一婦制の掟はなかったのでスサノオとの婚儀には問題はなかったんだよ。スサノオ、トシの親子は九州を制覇し瀬戸内海沿岸を制覇した。成人し経験を積んだトシはオオトシと呼ばれる様になっていた。既に年を取っていたスサノオはオオトシに『十種の神宝』を手渡し、ヤマトの国に入る様に伝えた。ヤマトの豪族ナガスネヒコはスサノオ親子との親睦を深める為に、彼の妹をオオトシに差し出した。オオトシはヤマトに入り実質上の日本の王となる為に、名前を変えた。『オオトシ(大歳)』から『アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト(天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)』と変えたんだ。ニギハヤヒは奈良に入りヤマトの王としての地位を確立したんだよ。彼の御陵は三輪山なんだよ。三輪山はピラミッド建築になっているよ。

 そして今、あなたがたはこの日本での『アメクモ族』の2000年統治の証とLてのモノリスを振動させるんだよ。これはその時になったら詳しく伝える予定だけど、実際に黒御影石を使ってモノリスを建造する時期になったんだ。大きさも形状も決まっているし、場所も決まっているけれど、これは芸術品として売買できるものでは無いので、その点を考慮して建造されなくてはならない。このことは、いずれ実現されるだろうとしか今は言えない…
                    ---ARION,O∴O---


'89/11/15 01:39
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 人は皆、真実を知りたがっていると思うのは間違いだ。真実を知りたくない、見たくない人は多い。真実どころか事実さえも目をそむける人は多い。その人達は「見たくない、知りたくない」人達だ。見れば、或いは知れば、その次の行動をしなくてはならないからだ。現状を維持していたい気持がどこかにある。しかし、同時に現状に不満ばかりを言っている場合もとっても多い。不満はいうけれど事実も真実も見たくない。現状を打破して良い方向にゆきたいというけれど事実も真実もフタをして見えなくしている。それは、見てしまったら自分が現状を改善してゆく行動に出なくてはならなくなるからだ。こういう人達は自分は何もしたくない。なんの努力もしたくないが、不満を言っているともしかしたら他人が自分の現状を良くしてくれるかもしれないと秘かに心の中で思っている。事実や真実をあるがままに見るのは誰にとってもたやすいことではない。傷付く事も多い。ショックで口もきけなくなる時もあるだろう。しかし、自分が見なくては自分の思う通りに改善する事はできない。見たくない、知りたくない人達は一言で言えばズルイのである。 

 万が一、他人がその人達の不満を聞いて何らかの行動に出て改善しようと努力したとしよう。その結果、その他人から見て改善されたとしても不満を言っていた本人の行動の結果ではないので彼らはその結果に満足できない時の方が多いだろう。そんな時、見たくない人達はその他人を攻撃する。「しなくても良い事をして悪くした」と言うだろう。あたり前だ。不満を持っている本人にしか改善する事は出来ないからだ。自分が行動に出なかった事が間違いだ。見たくない知りたくない人達は言いかえれば、傷付きたくない、努力したくない、良くなりたくない人達だ。向上心の無い人達に他人は何も出来ないだろう。本人に気付きがなく他人の非を攻撃してばかりいる人達に何を言っても聞く耳を持たないだろう。

 たったひとつ出来るだろうことは、その人達の気付きを待つ事だ。耳を貸すと彼らの不満改善デームのコマにされてしまい、失敗などしたらこっぴどくやっつけられてしまう。あなたの意志、そして宇宙の意志、それらの方向性をあなたの本能の中の直観力で捜しなさい。これだ!_と思う事を信念でガードしながら進みなさい。見たくない知りたくない人達に構っていると知らない内に足を取られ彼らの仲間にされてしまう。自分の信じる道を信じる仲間と歩みなさい。

 人は不安を隠す為に必要以上に話したりするものだ。言葉で言葉を追いかけて、言葉で言葉を隠し言葉で言葉を飾り、言葉で言葉を結論づける。そして、その言葉の羅列から他人はその人の不在を読みとる。本質から出た言葉は飾る必要がない。隠す必要もない。なぜならば、それが本質から出た以上、それは「在る」からだ。その言葉はただ「在る」のだ。他に何も必要ない。在る事、それだけ。そして、その言葉に他人は感動する。本質から出た言葉は他人の本質にストレートに切りこんでゆくからだ。

 誰にどう言われようと、思われようと誰に何をされようと自分が決めて実行しようと思う。その意志の根底を成すものを「信念」と言う。信念は本質から来たものである以上、他人にどう言われようが、信じられようが、疑われようが、確かにそこにその人の信念が在るとしか言えない。信念がないと、他人の心ない言葉や行動に影響され、自分の道を見失う。自分のしている事が自分の意識と宇宙の意識つまり潜在意識とに照らし合わせて正しいと思えるなら、自信を持って進むべきだ。照らし合わせに自信がないなどと、言うのはもっての外だ。本の少しの直観さえあればわかる筈だ。
                ---ARION,O∴O---


1988 10/7
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霊的な事に携わる人に対する偏見について

 この社会の中で『霊的』な事というだけで、謂れのない差別や偏見がある。ここにある例をとって考えて見て欲しい。

 ある人が東芝の所有する土地を借りてすんでいる。この人は過去から現在に至るまで、東芝の物質的な援助を受けながら仕事をしてきた。東芝は彼の発明する電化製品を発表、販売する事によって発展してきた。彼は、ある時期からソニーとも深くかかわって仕事をしていた。ソニーは東芝とは異なり、彼の精神的な分野での成長に関連する事々での援助を引き受けてきた。斬新な電化製品の継続的な発明には精神的な安定が必要だったのだ。

 彼はソニーの精神的な援助がなければ、良い仕事は出来ないからと東芝に話したが東芝は、自社の製品がソニーのブレーンの力を借りていると世間に思われるのは困る、ソニーとの表立った付き合いは困ると譲らなかった。ソニーは彼の仕事を、精神的にバックアップする事自体に意義を見いだしていたので、彼の仕事の結果が全て東芝の方に還元されていても、文句は言わなかった。

 ある日、彼の家でソニーの人と彼が談笑している時に、東芝の人が突然やってきた。鉢合わせをしてしまったのだ。この事件で怒ったのは東芝だった。彼にソニーの存在は必要ないと東芝は主張した。彼は土地を借りて仕事をしているし、現在までの彼の発明品を発表してくれた恩があるので、あまり事を荒立てたくないと思って、その場を丸く治める為に『東芝さんのお陰で今までやって来れたんですよ。ソニーさんの為にやっている訳ではありません。ソニーさんは便利屋みたいなものですよ。』と言い訳した。
                        
 彼の仕事の原動力となる、精神的な安定はソニーとの関係の中から生まれてくるので、絶交してしまう事は耐え難い苦痛となる。かと言って東芝の援助を受けないで、やってゆく自信は彼には無かったので、なるべく東芝を刺激しない様に苦心しながら付き合ってゆく事にした。心のどこかで『東芝もきっといつかは分かってくれるだろう』と思いながら付き合っていた。数カ月経って東芝と彼の関係は元通り、波風の立たない関係に戻った。彼はソニーの精神的な援助に感謝しながらも、現実に物質的な援助をしてくれる、東芝の意向を気にしている自分が情けなかったが『背に腹は代えられない』と自分に言い聞かせていた。東芝は彼とソニーの付き合いが終わっていない事を知ってはいたが、彼をこれ以上刺激すると仕事に響くと思って、何も言わなかった。とにかく東芝は彼の発明能力が向上するなら、ソニーのブレーンであろうが松下のブレーンであろうが構わないという態度に出て来たのだった。この東芝の態度は彼にとっても都合は良かったが、彼の本質を東芝が理解しようとしない、いや理解したがらない事に寂しさを感じていた。彼の発明品を評価しても、彼自身を正当に評価していない東芝の態度に、彼が不満をもつのは当然であったのだ。

 ある日、国際家庭電化発明委員会から、彼の製品だけを集めた発明展を開催したいと申し出があった。彼は勿論、大喜びで受諾した。早速、東芝に話を持ち掛けた。東芝は『出来る事はしましょう。でも我々だけがスポンサーになるのではなく、ソニーにも半分出して貰うことにしましょう。』と言った。そして付け足して『だって、そうでしょう?あなたはソニーさんとも、仲良くやってらっしゃるんじゃあないですか?』と言ったのだった。
 彼はこの時、初めて自分自身を正当に評価していなかったのは、外でも無い自分だったと気付いた。何故ならば自分という心を持った人間を正しく評価していたソニーと付き合うのに、東芝に隠れて付き合う事しか出来なかったという事実は、実際に自分自身が東芝をソニーより評価していたという事になると気付いたからだ。東芝、つまり物質的な援助を、発明に欠かせない精神の拠り所としてのソニーより評価していた。これは取りも直さず自分が物質的な事を、精神的な事より優先していたという事実に突き当たるという事なのだった。彼は勿論、ソニーにスポンサーの話は持ち掛ける事は出来なかった。しかし東芝は強引にソニーに出掛けて行ってスポンサーの話を取り付けてしまったのだった。もう彼には、どうする事も出来なかった。ソニーと彼の友好関係は、東芝の一方的な物質的攻勢にあって崩れ去ってしまった。彼を正しく評価していなかった東芝の、援助を受け続けるのにも嫌気がさしてしまったが、今となってはどうする事も出来ないと彼は、過去の栄光に思いを馳せながら、惰性の毎日を過ごす事を余儀なくされている。何故、披が東芝に引け目を感じなくてはならなかったか?ソニーとの付き合いよりも、東芝との付き合いの方が長かったからだろうか?

 これはビジネスの世界では実際には起こらないだろうと思われる事だが、どうだろうか?あなた方は、どうだろうか?彼の立場に立って考えて見てご覧?
霊的な事、精神的な事とは根本的な事にも拘らず、軽視されているのが現状だ。しかし、これが現状だと手をこまねいていて良いものだろうか?これが、あなた方にもう一度よく考えてみて貰いたい大命題なのだよ。


20 DEC 1988
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平常心について

 私ARION,O∴Oは、宗教で教えている『平常心について』を話すつもりは無く、本来の意味での『平常心について』を話したいと思う。そこのところを了承して貰いたい。あなたがたは、どういう状況の時に平常心について考えるだろうか?平常心でいる状況の時には、殆どと言っていいほど脳裏をよぎらないのが、この『平常心』という言葉だね?では、どんな状況の時に『平常心』という言葉が取り沙汰されるのだろうか?そこから考えてみたい。

 自分で自分がうまくコントロール出来ていないなあ…と感じられる時、或は、あなた以外の誰かがコントロール不能に陥っているように見える時、そんな時に『平常心』が取り沙汰される場合が多いだろう。外的或は内的な要因によって引き起こされる一時的な自失状態に陥った後に訪れる内省状態に於いて、人は初めて自分が平常心を保っていなかった
と気付くことが多い。しかし、この気付いた時の状態は自分自身が平常心を保っていないことの続行中の状態であることには気付かせないことが多い。つまり『平常心』を云々している人の状態は即ち『平常心』を保っていない状態の人の姿と言える。少し回りくどい言い方になったが直観力を働かせて視ると理解出来る筈だ。

 平常心とは『流れる水の心』だ。澱み無く流れ続ける水、川と言ってもいい。水は一時的に形に嵌められることはあっても、水に恒久的に形を与えることは出来ない。平常心とは不動のものではなく、流動のものだ。平常心とは汚れも異物も全てをその中に内在させつつ、しかし、そのどれでもなく、かと言って聖なるもの清いものだけで成り立つものでもない。全てを包含しつつ、そのどれにも長く留まらない。あなたがたが普段思っているような平常心の説明とは異なった説明をしてしまったかも知れないが、頭を使わずに胸で感じて貰えば幸いだ。よく『平常心』と言えば、普段の自分の心の状態だと思っている人が多いが、これは大いなる誤解だ。普段の自分、つまり興奮もしていなければ落胆もしていない、非常にアイマイなどっちつかずの状態を平常心と言う訳ではない。そんな状態は間隙状態としか言いようがない。平常心を取り戻すとか失うなとか言う前に、まず自分が果して平常心とやらを本当に体験したかどうかが問題とされるべきだろう。本当に味わっていないで、取り戻したり失ったりする訳がないだろう?平常心は辿り着くべき場所を指し示す心の動きであって、平常心自体が目的では無い筈だ。

 平常心は水であり同時に空(宇宙)だ。
 たひらかに、ひろごりて在る心の状態だ。
 平常心は縦軸と横軸の間を波線で結ぶ。
 平常心は裡に膨張と収縮を併せ持つ。
 平常心とは揺れ動く振動するもの。
 平常心とは語るものではなく、感じるものだ。
以上、今日はここまで話しておこう。

              ---ARION,O∴O---


'89 10/23   02:18
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人間淘汰論  
            
 苦い記憶の持ち主である昭和8~13年位に生まれた人を親に持つ、現在20代から30代の人々に顕著に現れている傾向は、やはり「自分本位」傾向だ。DINKSと呼ばれる形態も別居結婚という形態も、友達夫婦という呼称も、これらの世代に始まった。

 これらの呼称に代表される人々は、自分で淘汰の道を選んだ。ワガママで勝手気儘な、放縦な生活は決して他人との共存を許さない。『自分』と呼ぶ個体の欲するままの、『自分』しか目に入らない生活に他者は入り込めない。そうした考えの人間が寄り集まって、お互いの自由を尊重するという名前ばかり恰好の良い生活を始めた。

 そうした人々でも、ヒトリボッチは辛いから形だけでも、将来の保険の為に結婚するが、自分のしたいことを犠牲にしてまでも他者との生活を望む訳では無い、従って最低限の譲り合いは話し合いで決定しようということになる。子供は要らない。何故ならば子供は親に犠牲を強いるからだ。親のどちらかが犠牲を多く受け持つことになると不公平だから、要らない。

 仕事を持つという大義名分の名の下に、家庭での雑用分担をお互いに相手に押しつけようとする。または相手より稼がないからという、自己劣等扱いで家庭での雑用を引き受ける。稼いでいるということは、割に昔から優勢の立場をその人間に与えてきた。勝手に生きていたいが、寂しくなるのはイヤという人々は、自分の大義名分の為に、そして、自分勝手な生活の自分勝手の部分を賄う為に、仕事を持つ方向を自分自身に課してきた。

 …と同時に自分勝手な生き方をする人間を淘汰する方向へと、自分が選んで生きていることを知っているのだろうか?極論ではなく、今現在、あなたがたの周囲で起こっていることなのだ。DINKSに子供を持てとは、私は言わない。友達夫婦だと誇っている人々に対して、男と女のあり方について考えてみろとも私は言うつもりは無い。全てあなたがたが選ぶことなのだ。

 自分の子孫が欲しいから、子供を生もうなどと考えるのも自分本位の性格の域から一歩も脱していない者の言い分だ。自分本位でワガママで、自分勝手で生きたい人に用意されている将来は「孤独」だ。結婚という形さえ持てば、将来「孤独」にならないという保険を手に入れたと、そう思うのなら、思えばいいだろう。形は全て壊れるというのが、この世の法則だ。相手を人間と認めることが、一体どういうことなのかが分からない人々は、自らが決定したように淘汰されるしか、道が無い。私や宇宙連合は、あなたがたに強制はしないし、出来ない。あなたがたの選ぶ将来に対してコメント出来る、それだけの立場なのだから。

 人間は淘汰されるのではなく、自らを淘汰する方向にある。しかも下らない一瞬の夢でしかない、『自分』と呼ぶその個体の欲望の為にね。

                       ---ARION,O∴O---


MAR.21.1991
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《アリオン語録》

○この世に起きることの全てを肯定することは、それらの存在を肯定することで、それらの所産物の影響を容認することではない。肯定と否定、これは共に同じものを語りながら現代人に二つの異なる感情を喚起する。肯定ならばOKで否定ならばNOという二つの感情を。あなたがたは、よく見なければならない。肯定も否定も、共に同じものの側面を語っているに過ぎない。冷静に客観的に『自分』を見る行為はあなたの心に黄金をもたらす。
 何かについて賛否両論があって初めて、その何かは「普通」の状態だと言える。賛成ばかりだとしたら、それは気味の悪いモノとなる。これは「明らかに人の可能性を奪うモノ」以外についての話だ。その何かが「明らかに人の可能性を奪うモノ」、例えば故意による殺人であった場合には賛否両論という余地は無いからだ。しかし、思想や哲学など人の生きる道について語ったモノは、賛否両論があって当然だ。もし賛否両論が無ければ、それはファシズムに近いモノと言えるだろう。あなたがたは口ではファシズムを嫌いながら、行動ではファシズムを求めていたりはしないだろうか? 一つの塑(モノサシ)で全てを計ろうとしてはいないか?


○人は何者かであろうとする時に自分を見失う。例えば自分は山田洋二という名前だと意識した行動をしようとすると、一挙に山田家の重みや経歴があなたにおぶさってくる。自分を何と呼ぼうが根のところにあるものは何一つ変化しない。自分が夫であるとか父であるとか、或いは兄であるとかそういった分類上のネーミングによって何重にも縛られて一番奥の自分が見えなくなる。


○残る者と残される者、彼らの動機は異なるが行為は同じ。前者は自分で選び、後者は選ばないというプロセスの推移は異なっても結果は同じ。自分で選んだ筈の自分の家庭や環境は順境であれば「自分で選んだ」ことに満足しているが、逆境になれば途端に「自分で選んだ」事実を隠し、あたかも外部からの力によって「選ばざるを得なかった」かのように振る舞う。このような心の動きはズルく自分本位で幼児性の抜けきらない大人に見られる。未熟な精神の成せるワザだ。


○人は苦痛を和らげるために麻酔を用いるが、これは外科的手術のみの語ではない。心の痛みを和らげるためにも、人は同じ様なことをする。まさか心に麻酔注射をする訳にはゆかないので、それに替わるものを用いる。心の痛み用の心の麻酔注射とでも言うべきそれはあきらめと切り離しである。

 まず心の痛みにつながるものに対しての能動行為(例えば手に入れるとかつかむとか食べるとかの自分→外部への働きかけのこと)をあきらめようとする。心が痛むということは、こういった行為の結果が思わしくなく、少なからず失望を経験している筈だから、この能動行為そのものが良くなかったことにしてあきらめることで、心に痛みを再び与えないようにしようとするのだ。

 そして、それでも心に痛みが残るとき、人はその能動行為の基となった原因すらも、切り離そうとする。(例えば、食べたかったが食物を手に入れることが出来なくて失望したとすると、この失望から痛みを生じる。この痛みに対して麻酔を行う(あきらめる)為に、食物を手に入れる努力が良くなかった…と思う。それでも心に痛みが残るとき、人はそもそも空腹だったのが悪かったのだと思う。そして食欲という欲を自分の心から切り離そうとするだろう。



91/07/08
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《アリオン語録》

 愚痴や不平を多く言う人は、前進する勇気の無い人だ。愚痴や不平を言いながら、足踏みをしている。何にしろ、自分の置かれた境遇を変えるのは『自分』でしかない。

 ~イズムに陥るのは、自分に手かせ、足かせをはめているようなものだ。~イズムを主張する為に、どれほどの自己規制が行われていることか。或いは、他者に対する規制までが行われてはいないか?現在、~主義、~イズムと呼ばれているものは、自己の為というより、他に主張する為のツールになっているキライがある。信念と~イズム(主義)とは別個のものだ。信念は他に主張する必要は無い。そもそも、他に自分の主義を理解させようと思うことに疑問を感じて欲しい。理解させよう、という考え方が倣慢なのだから。

 あなたがたは、一体、どんな状態を思い浮かべて「平和」と呼ぶのだろうか?戦争が無ければ、平和なのだろうか?目の前で残虐な方法で人が殺されなければ、或いは一般に知られていなければ平和なのだろうか?争いの無い世界を欲しているのか?

 美しい花々に囲まれて、全ての人が幸福で満ち足りた笑顔を浮かべている状態は平和と呼ぶのだろうか?私は、それを「死」に近い状態と呼ぶ。人は、生まれてから死ぬまで葛藤から逃れることは無いだろう。その葛藤の中から、常に前進してゆくことを学ばねばならないからだ。一部の者の策略の為に多くの関係も無い人々の命が、犠牲にされる戦争は決して良くない。しかし、戦争という状態は、毎日の生活の中に隠された種子の芽生えでしかない。この芽を摘むだけでは、何も変わりはしないことを覚えておきなさい。誰が種子を蒔いたのか?何の為に?誰が種子を育てたのか?何の為に?

 あなたがたは、気付かねばならない。そして、その種子を蒔かせない為には何をするべきか?
戦い続けなさい、それが「平和」なのだから。一瞬たりとも油断してはならない。「平和」とは、多くの人の想像を裏切って、苛酷な戦いの連続であることを私はここで明言しておこう。あなたがたの心の中にある「平和=「ユートピア」=「永遠の幸福」といったような幻想には終止符が打たれねばならない。

 この世にあるものを利用しなさい。あなたがたに必要なものは、全てある。それ以上に、それ以上に要求する心の全てをフロンティア精神とは呼べない。

 言葉も身体も飾りたてる必要は無い。本当の宝石は、その人の経験から学んだ心の中の宝石だ。人に不快を催させる風体をせよ、と言っているのではない。その程度のことは理解できる筈だ。

 自分自身を、よく見ることは大切なことだ。自分を『自分』以上に見せたり、感じたりすることは害になっても決して益にはならない。

 他者と話す時には、相手のモノサシについてまず知る必要がある。その為にも、まず相手の意見を聞く態度は必要だ。相手を威圧して、結論を導いても結果は自分だけの寂しい満足となるだろう。

 生きていても何か満足感が無い、つまらない、虚ろだ…と感じている人に是非、試して貰いたいことがある。まず、自分が嫌だ、キライだと思っていることを考えて欲しい。カテゴリーに分けて考えることを勧める。例えば、家事の中で自分がキライだと思うことを考えて、見つかったらまず、それをやる。とにかく、やろうとしてみるのだ。やりながら、何か他のことがしたくなったら、それをメモしておく。一応、キライなことをやり終えるまでは続行することを勧める。そして終了したら、先程メモしておいたことをやってみる。もし、他のことが見つからなかったら、再びキライだと思うことをもうひとつ考えて実行する。後は、先程の行程をリピートするだけだ。実際にやってみなければ、この行程のもたらす効果は理解できない。やってみれば、あなたはきっと何もかもつまらない…という気分からは開放されているだろう。

 怒りは分析されるべきだ。人が怒る時には理由があり、その理由の出所を抹消しなければ何度も同じ理由で怒ることになるからだ。憤懣と怒りは区別されるべきだ。ヤリ場の無い憤懣は、時として人の原動力となるからだ。しかし、怒りは百害あって一利なしと知るべきだ。



Mar.11.1991
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《アリオン語録》

 証明は、それを必要とする心の持ち主にのみ有効なものだ。時間を追いかけ、消えゆく自己の破片を捜す。いつまで、この虚しいゲームを続けるのか。確認できることは、全て「過去」のものだと知りなさい。「今」は確認出来ず、ただ在るものだと知りなさい。全てのことに、全ての道があり、全てのことに全ての答がある。ゆえに、比較することは厳密には無理だと、私は言うのだ。善意によって成されたことが、全て善の結果を導く訳ではない。しかし、悪意によって成されたことに善の結果は決して訪れない。

 時のしじまを縫って訪れる光の繊維を縒り合わせ、一つの布を織りあげる。これは、あなたがたに与えられた課題の一つとして考えるべきではない。あなたがたが自らの決定により、あなたがたの楽しみの中でこそ実行されるべきことの一つなのだ。そうでなければ、この布は輝かない。あなたがたは、周囲を見回して「アレコレ」と比較して愚痴を言うが、比較対象として見ている者と自分が、決して同じ存在では無いことに気づいてはいない。

 行きなさい、話しなさい、行動しなさい。あなたがたの待っていた時は満ちたのだ。この日まで流された汗と涙が報われるかどうかは、あなたがた一人一人の、決断と行動によって決まるのだ。戦いの時に必要なのは、完壁な個人の自覚とそこに繋がる全体性の把握、そして、その双方を同時に知覚することの出来る、双方向性を持つ鋭敏な知覚だ。相手を傷つけないための思いやりと、あなたがたが言う時によくあることだが、単に自分が面倒なことに巻き込まれたくないという意味であったりする。



1991/06/02/22:8
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《アリオン語録》

 あなたがたは、戦争という言葉で何を思い浮かべるだろうか?
過去何度もこの地球上で大小の戦争が行われ、その度に大地は荒れ人々の心は引き裂かれて来たのだ。人間は権力や権威、そして物的利益の為に戦争を起こしてきた。人間の文化遺産を全て、力の為に使うという愚を犯し続けた。戦争は、あってはならない。しかし、いさかいは、あるものだ。この違いは、国家と個人の違いだ。国家を挙げていさかう時に、戦争となる。個人のレベルで何とか、問題を解決してゆこうと努力するべきものだ。万が一、戦争が起こったら当事者同士のみを戦わせよ。これは、個人のいさかいのレベルにまで規模を落とす為に必要なことだ。

 現在、起きている湾岸戦争について、一方的に悪者扱いされているフセインを我々は悪者扱いしていないことを伝えておこう。あなたがたの一部で信じられているような、単なるクウェート侵略の是非を問うてこの戦争が起きているのでは無いからだ。アラブの地に欧米のルールを持ち込むことが、アラブを分裂させる原因になっている。

 あなたがた日本人は行動をしなさい。反対の行動をせよと言っているのではない。個人が束になって、一つの力となることだ。束になった力で、何をするか?実際に政治の現場へ行って抗議をしなさい。遠いところから叫んでいても、着実に政治家たちは参戦方向へと行動している。あなたがたが政治に無関心であった分だけ、今、政治に関心を持ちなさい。

 たった一人で何が出来るか?ではなく、たった一人でも理想を現実に変えてゆく行動力を持ちなさい。あなたがたは報道に対して真実を求める権利がある。歪められた情報に対して、抗議するだけの気力を持ちなさい。政治は財界と密接に関わっているから、財界人の動きと共に政界人の動きを監視しなくては、本当のことは分からないだろう。

 デモンストレーションの方法は従来通りにやりながら、考え方だけは違うと言っても周囲には伝わらない。自分たちの枠の中だけで呼吸していると、周囲のことが見えなくなるだろう。既に60年代に使い古されたフレーズを繰り返すのが「精神世界」では無い。今、ここにあなたが居ること、これが精神世界の基本なのだ。全ては、「今、ここから」始まる。穏やかに微笑むだけの救世主は、今までも、これからも居ることは無いだろう。

 もっと、見なさい! あなたの周りに何が起こっているのかを。
身体に良いことが万能だろうか?身体に良いとされていることを実行する為に、犠牲になっているものは無いのか?あなたがたは、「これが良い」となると「これ」ばかりを望み、「あれが良い」となると「あれ」ばかりを望む。そして「あれもこれも良い」となると「どうでもよくなる」

 信じるものの為に生命を投げ出せる思いは、百万べん唱えられる反戦の叫びよりはるかに説得力があることを思い出して貰いたい。武力に対して武力で戦うのは愚か者のやることだ。しかし武力に対して花で戦うのは、もっと愚かなことだ。武力に対して効果のあるものは、力だ。本当の力とは、花や微笑みといった、あなたがたの偽善的なフレーズに飾られた額縁の中の絵では無い。本当の力とは、血の滲む愛情だ。自分の生命を投げ出せることだ。

 あなたがたよ、目を覚ましなさい。あなたがたが対岸の火事だと思っている、その対岸にも、あなたがたは生きている。自分と呼んでいる、その小さな個体は世界中に生きている。あなたがたよ、起きて行動しなさい。今、行動しなければ、あなたがたの選ばない未来は、確実に少数の者の利益と引換えに、足音を忍ばせて近づいてくる。

 まず、自分自身から、自分の家族から、そして自分の住む地域から、自分の働く職場から、叫びなさい「私たちは本当のことが知りたいのだ!」と。そして、そのために何が出来るのかを、話し合いなさい。何が出来るかがわかったら、即、行動に移しなさい。ひとりひとりが「本当のこと」に目覚めようとする時に、国家も目覚めようとするだろう。その時こそ、初めて国民の為の政治が成立する。だから、ひとりひとりの目覚めを妨げてはならない。

 目覚めは気付きから始まる。気付いた時に、気付いたことをウヤムヤにしてはいけない。気付いたことを、ちゃんと記録しなさい。気付いたことについて、調べたり検証したりすることを怠っていては、気付きは目覚めにつながらない。目覚めにつながらないどころか、気付きの回路を鈍くしてしまう。だから、気付きを大切にしなさい。あなたの気付きも、別の人の気付きも大切にしなさい。 自分の起こした行為について、間違いを発見したら、なるべく早く訂正しなさい。小さな行き違いが、大きな亀裂に発展することは、よくあることだ。自分が間違っていた、と言えない人は自分を大切にしていない人だ。自分を大切に出来ない人は、結果的に他人を傷つけてしまう。どんなことでも、自分が最大の努力を払ったと言えるものがある人は、幸福な人だ。

 何をするにも慌てる必要は無い。慌てないで、しかし迅速に行動するべきだ。何事も熟考してからでないと行動出来ない人は、そういう癖を愛しているからに外ならない。大概、最初に考えていたことを行動に移す場合が多いのに、思考に時間を掛けないと気が済まない人も多い。これも、思考している自分が好きなだけだ。これからの世界は、白黒の決着の速い世界になってゆくだろうから長時間思考したり熟考したりしないと、行動する決断の出来ない人は、困る場面が増えてゆくだろう。いつも、自分にとって何が一番大切なのかを考えていれば、自分が行動に移す時に迅速に処理出来るようになるだろう。

 現状維持は楽だという夢は捨てなさい。現状を維持しようとすれば、死に物狂いで活動して行かねば維持できないという現実を認識しなさい。死に物狂いで活動してゆくことで、現状維持を打開する道も見えてくる。楽しいことが、楽なことでは無い。人と話をする時に欺瞞的な自己満足で終わっていないか?キチンと自分の思いは伝わっているか?キチンと相手の言いたいことを把握出来ているか?分かったフリをすることは決して思いやりでは無い。理解できなかったら、キチンと聞きなおす態度を持ちなさい。理解出来るまで、相手に説明を頼みなさい。そうすることは、相手を傷つけたり、迷惑を掛けることとは決して同じではない。これらのことがキチンと出来ない人が、政治に携わる人達を駄目にするのだ。

 人と議論をすることは喧嘩をすることでは無い。論理の上でたたかうことがあっても、相手や自分の全人格とたたかうことと同じに感じてはいけない。あなたがたは、誰かの意見を聞く時にその人の肩書で判断してはいないか?
そういう姿勢が、この世に権威の暴力を生むのだ。良いと思ったものを良いと言い、悪いと思ったものを悪いと言う。こんな当たり前のことが、全く作動しない社会を作ったのは、あなたがた一人一人の「間違った思いやり」と自分だけ良ければ、それでいい」の姿勢だ。あなたがたは個人的に善であっても、組織化すると不善になるという事実を見て見ぬフリをするが、何故だろう?

 美しい断片を、全ての箇所に使って一つの像を組み立てても全体を見ると決して美しいものが出来ない時が多い。真実は、どの断片をとっても真実に変わりはない。真実は美しく快いものばかりでは無い。


Feb.12.1991
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